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「今年の夏は避暑に行くぞ」

 そうシリウスが宣言したのは、まだ春先のことだった。何ヶ月も前にわざわざ言う必要の無いことだが、リーマスは相変わらず気にした様子もない冷静な表情を崩さず、

「わかった」

 と一言言っただけだった。
 幸い特に不審に思ってはいないようだ。何故ならいつだってシリウスは唐突で、挙動不審であるから、慣れてしまっただけだということに、シリウス本人は気付いていない。ともかくシリウスは胸を撫で下ろし、早いうちから避暑の計画を練り始めたのだった。
 こうしてシリウスが新たに買った別荘にリーマスを伴って避暑に出かけたのは、まだ初夏と呼べるようになったばかりの六月のことだった。
 庭の夏ばらが綺麗に咲き誇っている最中に、シリウスは突然リーマスに避暑の仕度を整えるよう言いつけた。

「まだ夏じゃないよ」

 リーマスは小首を傾げたが、心急くのを押さえきれない様子のシリウスに、

「早くしないとサーモンの季節が終わるって、管理人から電報があったんだ!」

 こうしてはおれん、と鬼気迫る勢いで詰め寄られて納得したようだ。彼の大好きな伯爵も、行動の全てを釣りに支配されているタイプであったから、不信感を抱かないのだ。もしかしたら単に呆れただけかもしれない。ともかくそうしてリーマスは特に疑問も抱かず、シリウスの避暑兼釣り休暇についてくることとなったのだった。
 シリウスが購入した別荘は、ロンドンからは遥か遠く離れた北の地にあり、昨年の夏に手に入れたばかりのものだ。屋敷自体はこぢんまりとした小さなものだが、敷地は呆れるほど広く、その中を流れる渓流では夏のあいだ中釣りが楽しめるという話だった。
 ロンドンから列車に長いこと揺られ、着いた駅から更に馬車に乗る。久々の遠出にいささか緊張気味だったリーマスは列車の中で硬い表情をしていたが、疲れのせいか馬車に乗るといつの間にか眠ってしまった。
 無防備な寝顔は愛らしく、シリウスは飽きずにリーマスを眺めていた。思えばリーマスの寝顔は初めて見る。穏やかな横顔にキスしたい衝動をどうにか堪え、シリウスは視線を窓の外に転じた。のどかで寂れた風景がどこまでも続いている。ロンドンから離れてしまえば空は青く、夏らしい太陽が輝いていた。
 時刻的には夕暮れであっても、夏の太陽が地表に潜るのを渋っているために、英国の夏は昼間が長い。おかげで森林の中でもよく見通しが利き、私有地に入って暫くすると、シリウスは眠るリーマスに声をかけた。

「おい、リーマス、もうすぐ着くぞ」

「…………ん……」

 肩を揺すってやるとリーマスはすぐに目を覚ました。まだ眠たげに目を擦り、窓の外を見たリーマスは奇妙な表情を浮かべた。彼の横顔に複雑な心境を読み取ったシリウスは、目を逸らして気付かない振りをした。リーマスは珍しく不審げな表情を明確に浮かべてシリウスを見つめたものの、何も問いかけようとはしなかった。
 整備された私道の先に見えてきたのは、落ち着いた外貌の別荘だった。大小25室からなるその屋敷は、ロンドンのブラック家の邸宅からすればおもちゃのようなものだったが、かえってそれがシリウスのお気に入りだった。自分の生家を嫌うわけではないが、むやみやたらと贅を尽くした巨大な屋敷が、シリウスの目には虚栄の象徴にしか見えていなかったのである。
 停車場で停止した馬車から二人は降り立った。シリウスはすぐに先に立って歩き出すことで、益々もの問いたげになったリーマスの視線から逃れた。
 以前の持ち主の時代から働いていたという管理人の夫妻と、新たに雇った召使たちの歓迎もそこそこに、シリウスは二階へと上がって行った。すぐ後ろをリーマスがついてくる足音がする。

「お前はあっちの部屋を使え。俺はこっちだ」

 シリウスは手袋を取った手で奥の部屋を示し、リーマスを促した。召使が荷物を持って脇を通り過ぎてゆくのを横目で眺め、リーマスは低く言った。

「……あっちが主寝室だよ」

 リーマスの言葉通り奥の部屋が主寝室で、シリウスが自分の部屋と決めたのは家族用の一回り小さな部屋だった。

「ああ、でもこっちの部屋のほうが景色がいいからな」

 うそぶいたシリウスはさっさと自分の部屋に逃げ込んだ。もちろん彼の下手糞な言い訳などリーマスにはすぐにわかったことだろう。だがリーマスは不機嫌そうな表情を浮かべるだけで、何も言おうとはしなかった。
 その日の夜は旅の疲れを理由に、シリウスは早々に自室に引き取ってしまった。事実疲れてもいたし、何より明日は早朝の釣りがある。疲労を蓄積するわけにはいかない。
 自分にまでシリウスはそう言い訳したが、実際のところはリーマスの視線から逃れるためだった。別荘に着いてからというもの、リーマスは何も言わずにじっとシリウスを見つめ続けていた。詰問されるよりそのほうがダメージが深いことを知っているかのように。
 翌朝、朝日と共に目覚めたシリウスは朝食もそこそこに、釣竿を引っつかむと噂の渓流めがけて屋敷を飛び出していってしまった。現実逃避と、ここ一年以上になる釣りへの欲求不満が彼に火をつけたのだ。
 リーマスを引き取って以来、シリウスはロンドンを離れることがほとんどなくなっていた。シリウスの他に誰一人として頼る者もいないリーマスを、一人にしておけなかったからだ。と言っても昨年の冬に二人の関係を見直してからは、かえってたまには一人にしてやるのがよいのではないかと考え直し、一泊ほどの釣り旅行に出ることはあったが、そんなものたかが知れている。おかげで一年にわたって溜め込んだ欲求不満が、ついに解消されるときが来たのである。シリウスが避暑を急いだのには、そんな理由も含まれていたが、もちろんそれが全てではなかった。
 昼食に戻るのも忘れて釣り糸を垂れていたシリウスは、どうにかリーマスの追求を逃れたが、二人で暮らす別荘で毎日顔を会わせずにいられるはずが無い。案の定その日の夜には書斎にいるところをリーマスに捕まってしまった。
 リーマスは他人のテリトリーを侵さないタイプの人間であったから、ここでもそうだろうとシリウスは油断していた。それは自分のテリトリーを侵害されることをリーマスが嫌っているからだ。領権を主張されたわけではないが、それとなく感じ取っていたシリウスは、ほとんど彼の部屋を訪れたことが無い。そして冬の一件以来、リーマスもシリウスの部屋を訪れたことが無かった。
 とにかく居間や食堂で顔を合わせるのさえやり過ごせば時間稼ぎはできると、何故か負け犬根性を発揮していたシリウスはいきなり追い詰められた。ほとんどノックと同時に書斎に入ってきたリーマスに、

「話がある」

 と詰め寄られて、シリウスは自分の迂闊さを呪わずにはおれなかった。

「どういうつもりだ?」

 デスクを挟んで向かい合った二人。書き物をしようと、ガウンを着てデスクの席についていたシリウスと、その前に立ちはだかるリーマス。見下ろされる形になったシリウスは動揺を押し隠してリーマスを見つめた。

「何が?」

 シリウスの白々しい返答は綺麗に無視された。

「何故ここを買った? どうしてぼくを連れてきた?」

 リーマスの語調は激しくはなかったが、適当な答えで許してくれる雰囲気ではなかった。シリウスは不愉快を装って顔をしかめ、リーマスから視線を逸らした。
 この別荘はただの別荘ではなかった。そしてシリウスは釣りのためだけに避暑に来たわけでもなかった。そのことに初めから気づいていたリーマスは、今夜シリウスに詰め寄ったのである。
 先の持ち主が死亡したために、家屋敷を含むこの広大な敷地が売りに出されたのはもう二年以上も前のこと。しかし貴族の威光も翳り初めたこの時代、特に目立って立地条件がいいわけでも、何か特筆するような付加価値があるわけでもない単なる別荘は、買い手も無いまま放置されていた。屋敷自体も有名建築家が設計したわけでもないごく普通の建物であるし、やたらめったら広大なだけで景色がいいわけでもない敷地がついてくるとあっては、早々に買い手がつくはずもなかったのだ。
 こうして売りに出されたまま忘れ去られかけていた物件をシリウスが購入したのは、昨年の夏のことだ。本当は先年に来たかったのだが、放置されたままだった屋敷や庭の状態が悪く、手入れをしているうちに夏が終わってしまったのである。
 そしてこの別荘の先の持ち主とは、リーマスが『あの人』と慕う伯爵なのであった。

「……ここいらの河は、釣り好きにはたまらない素晴らしい場所だと伯爵が言ってた。よく話に聞いてた別荘が売りに出されているのを知って、買ったんだ」

 不機嫌を装ってシリウスは言った。もっともらしい話だが、必ずしもそれだけではない。別荘をシリウスが購入したのは昨年の夏。まだリーマスとの一方的な関係に有頂天になっていた時期だ。毎年のように夏を過ごしたという別荘が売りに出されていると知って、決して安くはない金額でも大喜びで手に入れたのは、リーマスを喜ばせたかったからだ。思い出深い場所を与えてやり、彼の喜ぶ顔を見たかったからだ。

「……どうして主寝室を使わない?」

 不機嫌を装ったままそっぽを向いているシリウスにリーマスは問いかけた。詰問するというより、頑なな少年を諭すような口調だった。

「だから、こっちの景色のが気に入ってるんだよ。それにもともとお前は伯爵とあっちの部屋を使ってたんだろう。なら、このままでいいじゃないか」

 いくら今は自分が持ち主とはいえ、仲の良かった二人の部屋を乗っ取るのは気が引ける。シリウスは他人の心の機微に疎いし、自分が思慮深くないことを自覚していたが、思い出に戦いを挑むほど愚かではない。それにリーマスにとって大事な『あの人』は、シリウスにとっても大切な友人だった。
 間にデスクを挟んだままで向かい合った二人の視線は絡もうとはしなかった。シリウスが逃避し、真っ向から向かい合うことを拒否していたからだが、リーマスはそれを許してはくれなかった。

「まだ一つ答えてもらってない」

「何だ」

「どうしてぼくを連れてきた。釣りがしたいだけなら、一人で充分だろう」

 真っ直ぐなリーマスの視線をシリウスは忌々しく思った。普段は亡羊として掴みどころがないくせに、こういうときだけは恐ろしいほど的確にシリウスの痛いところを突いてくる。だがいつかは話さねばならぬこと。くちびるを不愉快そうに曲げていたシリウスは、腹をくくって今度こそリーマスを見つめた。

「九月になったら俺はロンドンに帰る。……もしお前が帰りたくなければ、ずっとここにいていい」

「………………」

「ここは冬は厳しいらしいが、いいところだ。召使もつけるし、不自由はさせない。お前の好きにしていい」

「…………くれるの」

 真っ直ぐ見下ろす揺るがぬ視線にシリウスは頷いた。

「伯爵にお前を頼むと言われた。約束は守る」

 それはつまり別離の決断を委ねる行為だった。シリウスは家屋敷と生活の保障を与えることでリーマスから解放され、リーマスはロンドンを離れ一人になる代わりに美しい思い出と生涯の安息を手に入れる。お互いに自由を手にすることのできる判断のはずだった。
 一方でその決断をリーマスに委ねることが自分の狡さであり弱さであるとシリウスは自覚していた。だがもう他に方法は無いのだ。シリウスは今でもリーマスを諦めきれず、けれどこのままでは友人の二の舞になってしまうであろうことがわかっている。シリウスのわがままで引き止めて、傷付けあうようになるのは余りにもリーマスが可哀想だ。ならば今度こそ、彼の好きなようにさせてやるべきではないかと考えたのだ。それすらも逃避にすぎないと自覚しながらも、シリウスの苦渋の選択であった。

「……わかった」

 考えておく、と答えたリーマスの言葉は心なしか優しいようにシリウスには思えた。もしかしたらシリウスの苦悩を察したのかもしれない。彼の思いが断ち切れていないことなど、百も承知のリーマスであるはずだから。
 ここを訪れると決めたときから、ずっと言わねばと思い続けてきた言葉を口にして、シリウスはすっと身が軽くなるのを感じた。同時に、口にしてしまった後悔が気を重くもしたけれど。
 これで九月には別れねばならなくなった。リーマスはたまに様子を見に訪れることを許してくれるだろうか。自分の未練がましい感慨をシリウスは自嘲したくなった。

「……でも、タダでもらうのは性に合わない」

 いつまでもデスクの前を離れぬリーマスの思いがけない言葉に、シリウスは現実に引き戻されて怪訝な表情を浮かべた。言葉の真意を量りかねるシリウスの視線を、真っ向からリーマスは受け止めている。代金を払う、ということだろうか。
 確かにリーマスはそれなりの資産を有している。伯爵から形見分けに近い形で譲られた動産、不動産は、換金すればかなりの額になるだろう。しかし代金としてでもシリウスがそれを受け取るわけにはいかない。リーマスは下らないと嘲笑うかもしれないが、シリウスにだって面子やプライドがある。男の沽券に関わるではないか。
 しかしリーマスの持ち出した条件はシリウスの予想の範囲外にあった。彼はシリウスを真っ直ぐに見つめ、

「君はまだぼくが欲しい?」

 思いがけない言葉にシリウスが絶句していると、リーマスはふいに視線を外した。つられて見ると、リーマスの視線の先には隣室への扉があった。隣室とはつまり、寝室のことだ。
 心臓が跳ね上がるのを自覚し、シリウスが慌てて視線を戻すと、リーマスは再びじっとシリウスを見つめていた。感情の窺い知れない、挑むような美しい目をして。
 リーマスは身を引くと、デスクの前を離れた。シリウスの目が追う中を優雅とも言える足取りで部屋を横切り、そして寝室に消えた。
 扉の閉まる音でシリウスは魔法にでも操られたかのように立ち上がった。けれど真っ直ぐ寝室へは向かわず、彼は窓辺に立った。閉じていたカーテンを開き、夜空を見上げ、意味もなく月の位置を確かめ、カーテンを閉じた。ガウンを椅子の背にかけ、三回懐中時計を開き、ブランデーを一杯飲み干して、ようやく寝室へと向かった。何一つとして考えられぬままに。








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