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多分リーマスは自分のことを好きではないだろう。そのことを認めるのにシリウスは幾ばくかの時間を要した。目先の幸福に捕らわれてはいても、彼とて莫迦ではないから、リーマスのあまりにも冷静な反応が気質のせいだけではないと薄々感づいてはいた。リーマスのくちづけにあるのが情熱ではなく義務感であり、何よりただの一度としてシリウスの名を呼んだことが無いという事実が、如実にそれを物語っている。
現実から目を背けて有頂天になっていた時期を過ぎると、急速にシリウスは不安を覚えるようになった。リーマスはシリウスの好意を受け入れているが、ただ受け入れているだけとも言える。彼はシリウスの思いに、身体以上の返答をくれない。言葉はリーマスの身体を素通りし、どこかに打ち捨てられているようで、シリウスは虚しさを覚えた。
冷たい雨のしのつく冬の日、何度腕に抱こうが決して溶解せぬリーマスに焦れて、ついにシリウスは直接彼に問いかけた。
「お前、どうして俺と寝るんだ?」
居間での寛ぎの一時のはずであるのに、窓辺に立ったシリウスの声は暗かった。しかしリーマスは長椅子に腰を下ろして本に目を落としたまま、顔も上げずに平然と応えた。
「君が欲しがるから」
それは優しげな拒絶以外の何ものでもない。欲しがるから与えるだけ。つまるところ、欲しがらなければ与える必要は無い、ということだ。
「……俺が嫌いなのか?」
もともと勘繰りや駆け引きが好きではない男であるから、シリウスの問いかけは鋭く直裁だった。鋭すぎて自分が痛い目に遭うことはわかっているのに、それを避けようとしないのがシリウスという男だ。どのみち逃げたところで事態が好転するわけではない。ならば正面から挑むのみ。
膨れ上がる感情を押し殺すようなシリウスの態度に、ようやくリーマスは本を閉じて物憂げに彼を見た。
「……そうでもないよ」
君は美人で、粗暴でもないし、変なことを強要もしない。気前もいいし、身体の相性も悪くないから、と。それはつまり誰でもいいのだと言っているようで、シリウスは思わずカッとなった。
「ふざけるな、俺の気持ちを知ってて、よくそんな口がきけるな!」
だがカッとなったのはシリウスだけではなかった。それまで人を小莫迦にしたように物憂げだったリーマスは真っ向からシリウスを睨みつけた。
「君の気持ちが何だって言うんだ。君がぼくを好きになったら、ぼくも君を好きにならなきゃいけないのか。勝手に押し付けておいて何様のつもりだ!?」
激昂したリーマスは怒りをむき出しにしてシリウスに食って掛かった。怒りに輝く眼差しは美しく、湧き上がる気迫はそれまでの物憂げな様とはあまりにも違いすぎる。初めて見る彼の激しいまでの感情の発露は、シリウスの怒気を煽り立てた。
「だったら拒めばよかっただろうが!」
「拒んで何になるって言うんだ。それで、犯されるのを待つのか? 殴られるのを待つのか? それともまた誰かが目をつけて引き取ってくれるのを待てばいいのか!?」
冗談じゃない、とリーマスは吐き捨てる。それまでずっとわだかまっていた思いを怒りに変換して。
誰が暴力を振るうものか。そう叫ぼうとしてシリウスは言葉に詰まった。吹き付けるような敵意を隠そうともしないリーマスの、最後の台詞に理性が正当性を認めてしまったからだ。シリウスと友人はリーマスのいないところで勝手に彼の身元を取引してしまった。リーマスはあとから説得されただけ。彼の意思はどこにも反映されていない。
「あれは、お前のためを思って……!」
しどろもどろになりながらシリウスは自己弁護を試みたが、散文的な苦しい言い訳は通用しなかった。リーマスは憎しみさえ浮かべた眼差しをシリウスに向け、
「余計なお世話だ! ぼくらはまだやり直せた。君さえ割って入らなければ、いくらでもやり直せたんだ!」
「あの状態からやり直せるわけないだろう! あいつは完全にお前を持て余してた!」
「何も知らないくせに勝手なことを言うな! 恩着せがましいことを言って、ぼくとやりたかっただけだろう!?」
リーマスの言葉は表現こそ過激すぎるものの、一部では確かに真実を捉えてはいた。シリウスはいつかリーマスが友人を忘れ、自分に好意を寄せてくれることを期待しないではいられなかったからだ。それは純粋な願いであったけれど、リーマスが友人と交わしていたキスや、それ以上を望まないことが出来ようはずは無い。
人間は後ろ暗い感情を指摘されたとき、怒ることで体面を保とうとする。真実を認めることよりも、そのほうが遥かに容易いからだ。
「いいかげんにしろ! あいつはもうお前にうんざりしてた! その証拠に、あいつはもう婚約したんだからな!!」
その台詞が終わるまで、シリウスは悪意に満ちた充足感で勝ち誇っていた。だが、言葉の残響が耳から消え去らぬうちに後悔した。目の前のリーマスが見る見るうちに青ざめ、今にも倒れそうになったからだ。
リーマスは椅子に腰を下ろしたまま蒼白な顔を俯け、覇気の無い声で消え入るように呟いた。
「……そう…………」
雨音だけが響く部屋の中で、リーマスはかすかに震える手で顔を覆った。
泣く
そう思うのと同時にシリウスは動き出していた。彼の身体は脳が意識するより早くリーマスの元へ駆けつけ、その足元に片膝を付いて彼を見上げていた。
「リーマス、俺が悪かった! お前を傷付けようとして酷いことを言った。済まない、どうか許してくれ」
シリウスの叫びに近い謝罪の声と、何より自分の目の前に跪いたその行動に驚いて、リーマスは顔を上げた。予想に反して彼は泣いてはいなかったが、くちびるまで色を失った表情は、いかに悲哀が深いかを思い知らされるようで、シリウスは自分の愚かしさに殺意さえ抱くほどだった。
「……お前の言うとおりだ。勝手に気持ちを押し付けて、俺が馬鹿だった。お前に断れるはずが無いのに」
「………………」
「俺のわがままに付き合う必要なんて無い。お前を引き取ったのは酷いことをしたかったからじゃなくて、本当にお前たちのことを思ったからなんだ」
リーマスは返答をしなかったが、彼は悲しげな眼差しをそれでもシリウスに真っ直ぐ向けていた。
「伯爵にお前を頼むと託された。それ以上の関係は望むべきじゃない。お前はあの人がそう言ったから、ここにいるだけなんだろう?」
シリウスもリーマスを真っ直ぐ見つめながら遠慮がちに彼の手を取った。指先まで冷たくなった手は、シリウスの手の中で小刻みに震えている。落胆からか怒りからか、それとも絶望からか。膝の上に乗せられた痛々しい手を包み込むように、シリウスは両手でそっと覆った。
「……そうだよ」
わずかに間を置いてリーマスは答えた。掠れてはいたが、迷いの無い声だった。彼は伯爵の言葉があったから、大人しくシリウスの元に身を寄せた。そのままここに留まっていたのは、シリウスに好意を寄せていたからでも何でもなく、大事な人が残した言葉を守りたかったから。自分の意に染まぬ行為を求められても、リーマスにとっては死んだ人間の言葉のほうが大事だったのだ。
苦痛を覚えたようにシリウスはわずかのあいだ瞠目した。完全に好意を否定したリーマスの言葉が胸に突き刺さるようだったからだ。結局のところ、誰もあの人には勝つことが出来ないのか。
「……悪かった。もう何もしないから、どうか許してくれ。ここにいるのが嫌なら、どこか他の場所を用意するから」
「いいよ、そこまでしなくて」
シリウスの言葉を遮るようにリーマスは言った。彼は目を閉じて深いため息をつき、
「……ぼくも言い過ぎた。君が善意でしてくれたことはわかってる」
だからもういい、と疲れたように言うと、リーマスは自分の手を握るシリウスの手を押しやった。
「……疲れた。少し、一人にしてほしい」
再び目元を手で覆ってしまったリーマスは本当に疲れ切っているようだった。
シリウスは黙って立ち上がると、躊躇った末に彼の肩を一度だけ叩き、部屋を後にした。リーマスはその日を一人で過ごしたが、自らを哀れむ涙を零すことはついに無かったようだった。
翌日、リーマスは午後になって姿を現した。心配するシリウスをよそに、彼はすっかり冷静な自分を取り戻したようで、前日の諍いが嘘のように何事も無く振舞った。
一方シリウスのほうはと言えば一日中気が気ではなく、それとなくリーマスの様子を窺っては、あまりにも変わりの無い様子に当惑したほどだ。
リーマスは別段目を泣き腫らしていたり、赤くさせたりしていなかった。彼の矜持がいかなるものかシリウスに推し量ることはできないが、かつて伯爵の言った『狼のように誇り高い』という言葉は真実であったと思い知らされたようだ。
結局自分はリーマスの何も知らないのだ。そう思い知らされたシリウスは打ちのめされた気分で、自己嫌悪の泥沼にはまり込んでしまった。一緒に暮らし始めてもう半年になるが、シリウスが出来たのはリーマスを怒らせることだけ。山のように贈り物もしたが、何一つ彼を喜ばせることはできなかったように思う。
シリウスは昨日からずっと後悔に後悔を重ね、自己の愚かしさを呪い続けた。屋敷中の鏡という鏡に映った自分を殴り倒したい衝動をどうにか押さえ込み、数日後、ついに自己嫌悪の泥沼から這い上がった。
落ち込むときも全力なら、立ち直るのも全力のシリウスがまず一番初めにしたことは、何かお詫びを考え出すことだった。別に物で釣ってご機嫌を伺おうというわけではない。もとよりリーマスに贈り物をして、本当に喜んでもらった記憶の無いシリウスである。だからといってこのまま放置しておくのは、自分の気が済まない。
あの日以来リーマスは全く普通に生活している。にもかかわらず、どこか垣根を感じてしまうのは、シリウスに後ろ暗いところがあるからだろう。そこをせめてもう一歩だけでも歩み寄れるようにしたい、と思ったのだ。
シリウスは必死になって考えた。何かお詫びになるようなものはないだろうかと。これほど必死になって思いを巡らせたのは、前日に朝まで飲んだくれて大学の卒業試験に遅刻したとき以来だ。
まんじりともせず考え続けたのにも関わらず、あまりに知恵が無さ過ぎて、思わず机の上でもんどりうちそうになったとき、ついにシリウスは閃いた。手を打つ暇も惜しい勢いで立ち上がると、一目散にシリウスはリーマスの元へ向かった。
リーマスは植物園にいた。冬のロンドンは雨が多く、今日も小雨が降り止まぬために、庭の散歩から植物園での散策に切り替えていたらしい。
小さな池の傍のいつものベンチで、私物である黒っぽい表紙の本を眺めていたリーマスは、真っ直ぐ自分に向かってやってくるシリウスを認めて本を閉じた。
「リーマス、明日は暇か?」
幾つかの鉢植えを蹴り飛ばしながら、物凄い勢いでやってきたにもかかわらず、息一つ乱さず早口で言ったシリウスを、怪訝そうにリーマスは見上げた。問いかけるまでも無い、シリウス以外に知人もいないリーマスが忙しいわけが無いのだ。
自分の質問の無意味さに気付いたのか、シリウスは短く咳払いをすると、
「明日、墓参りに行こうと思う。ついて来るか?」
今度こそリーマスは意図の読めないシリウスの質問に問い返そうと口を開いたが、言葉を発する前に何事かに気付いたようである。リーマスはハッと息を呑み、一度視線を足元に向けてから、
「……わかった」
再び仰向いたリーマスの眼差しは真っ直ぐシリウスに向けられており、そこには不自然なまでの冷静さではなく、揺れ動く感情の波がたゆたっていた。
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