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 二人の関係性が、どう表現したらいいのかわからない微妙なものから決定的な方向に踏み込んだのは、ある初夏のこと。季節のいいこの時期には珍しく、朝から降り止まぬ雨に陰鬱とした天気が全ての元凶だった。
 めったに出席しないにもかかわらず、未だひっきりなしに送りつけられるお茶会や晩餐会の誘いの手紙に、いつもどおりお断りの返信をしたためていたシリウスは、ある程度で切りをつけると午後のお茶のために書斎を後にした。
 午後のお茶はシリウスにとって重要な儀式である。リーマスを引き取ると決めたとき、同時にできるだけ多く一緒の時間を過ごすことを彼は決めた。シリウスは相変わらずリーマスに惚れていたのだけれど、苦手意識が抜けきれたわけではなかったからだ。
 だからといって一緒に暮らしているのにお互いを避けて生活するわけにはいかない。そもそもシリウスはできればリーマスと仲良くなりたかったし、彼に好意を持ってもらいたいと願ってもいた。ならば親しくなるにはまず強制的に顔を合わせる時間を作り、積極的に相手を理解するようにしなければ、と考えたのだ。
 その結果シリウスは、どれほど忙しくとも食事だけは自宅で取ることに決めた。中でも午後のお茶は食堂の無駄に広いテーブルを使わぬため、近しい距離で時間を過ごす大義名分でもあったのだ。
 見るからに痩身のリーマスは、だがあれで案外よく食べる。三度の食事も綺麗に平らげるし、午後のお茶でもスコーンなどの軽食だけでなく、用意されたお菓子をよく食べた。甘いものが好きとは聞いていたが、シリウスの分のケーキも素直に受け取って見事に平らげる様は微笑ましいものがあった。

「何だ、こんな所にいたのか」

 メイドに聞いてシリウスがたどり着いたのは、音楽室だった。本来ならば見晴らしのいいバルコニーの付いたその部屋は、使われなくなって久しい楽器たちの晴れ舞台である。グランドピアノの陰から頭を覗かせているリーマスは、振り返ってシリウスを見た。

「これ、使えないのかい?」

 リーマスが指差したのは、鍵のかかったピアノの蓋だ。使い手がいなくなっても毎日召使たちが磨き上げているピアノは、見事なまでの装飾が施されていた。

「いや、調律はしてあるはずだ。でも取り合えずはお茶の時間だからな。丁度いい、ここに運ばせるか」

 こうして二人は音楽室で午後の休憩を取った。本来は音楽鑑賞用である長椅子に並んで腰を下ろし、香り豊かな紅茶と出来立てのスコーンを楽しんだ。初めのころはぎこちなかった二人の距離も、自然に隣り合うことを受け入れて久しい。シリウスはもっぱら軽食で空腹を満たし、何気ない視線で隣のリーマスを見つめた。淡い緑のマカロンを口に運ぶリーマスは、どこか嬉しげである。紅茶のカップを運ぶ手の、わずかに覗いた手首の白さにシリウスは目を逸らした。見つめ続けていたら欲情してしまいそうだったからだ。

「君は何でもできるって。ピアノもできるのか?」

 突如として耳に入り込んだ問いかけにシリウスは慌てて視線をリーマスに向けた。おそらく先ほどから何か話しかけていたのだろう。全く聞いていなかった。
 すっかり別のことに気を取られていたシリウスは何とか言葉の前後を推理して、笑顔で動揺を押し隠した。

「まぁ、適当にな。あいつが言ってたのか?」

 あいつ、とはシリウスの親友にしてリーマスの元恋人だ。リーマスのことを思いやって、名前は口にしない。けれど彼は首を横に振った。

「あの人に聞いた」

 あの人、とは伯爵のことである。シリウスが友人の名を口にしないからか、リーマスも伯爵をそう呼んでいた。そして『あの人』のことを話すとき、リーマスは少しだけ幸せそうに見える。だからシリウスはいつも話を促すのだ。

「君は何でもできるって。そのくせ、顔は派手なのに趣味は地味だって」

 実に可愛げがないが、的を射た言葉である。実際シリウスはやらせればどんなことでも人並み以上にできる人間である。しかし何しろ彼の趣味と言えば、一に釣り、二に造園、そして三番目に化石堀りである。お世辞にも華やかな趣味とは言えない。
 シリウスは苦笑しながら紅茶を口元に運ぶことでその場をやり過ごした。実にあの伯爵らしい物言いだと思ったし、軽口がたたけるほどリーマスとの距離が近くなったのだと思えば嬉しいほどだった。

「……自分だって地味な趣味の癖に、よく言う」

 非難でもなく文句でもなく、親しさ故の憎まれ口がシリウスの口をついて出ると、リーマスが微笑を零した。普段は何てことのない平凡な男である彼を、誰よりも魅力的に見せることのできる微笑だ。たまにこういう表情をするから、シリウスは彼を益々愛しく思ってしまうのだ。

「……君は、あの人の話をしても不機嫌にならないから好きだ」

 紅茶のカップを両手で包むように持ったリーマスは、静かにとんでもないことを言ってシリウスを驚喜させた。勘繰るまでもなく、リーマスは無意識かつ他意は無いのだろう。わかってはいるが、シリウスの内心は喜びに激しく渦を巻いた。表面上は平静を保っていたが、初めて『好きだ』と言われて、一気に体温が上昇するのをシリウスは感じた。
 何しろシリウスは彼の美貌や地位や財産に言い寄る女は数多あり、恋愛遊戯に耽る相手に事欠いた験しは無いけれど、まともな恋など数えるほどしかしたことがないのだから。
 隣でマドレーヌを咀嚼するリーマスが光り輝くように見えてくる。沸き起こる幸福感に満たされたなど、十年ぶりくらいではあるまいか。シリウスは惚けそうになる表情を必死になって引き締めつつ、隣のリーマスを見つめていた。
 思わず我を忘れそうになったシリウスであったが、リーマスの言葉を反芻していてふと疑問が沸き起こった。『君は』不機嫌にならない、ということは、他の誰かは不機嫌になったということだ。それは誰か。もちろんシリウスの親友しかいない。彼はリーマスが伯爵に捕らわれて、自分を見てくれないと嘆いていた。だからきっとリーマスが伯爵の話をするのを嫌がったのだ。ましてや彼はさして伯爵と親しかったわけではない。リーマスが伯爵を『あの人』と呼ぶのは、彼に気を使っていた名残ではないだろうか。今はもう地上を去った敬愛する人物を語ることさえ許されなかったリーマスは、もしかしたらずっと寂しかったのではないだろうか……。
 天にも昇る幸福感から急転直下、シリウスはリーマスが哀れになって彼を見つめた。シリウスがあげたビスケットの最後の一枚を始末にかかっているリーマスは、もう長いこと伯爵の思い出を話せる相手を欲していたのかもしれない。

「……ピアノ、伯爵に習ったのか?」

 リーマスが一息つくのを待って、シリウスは声をかけ立ち上がった。執事から受け取っていた鍵を取り出し、ピアノに向かう。リーマスがあとについてくるのが気配でわかった。

「ああ、刺繍以外のことは一通り教えてくれたから」

 懐かしむように微笑を交えてリーマスは言う。彼はシリウスの隣に並んで立ち、開かずの蓋が開くのを待った。
 古風な鍵で開かれたピアノの鍵盤を見て、リーマスが小さく感嘆の声を上げた。それは象牙作りの白鍵盤にではない。

「黒鍵盤が赤い……」

 意表を突かれたリーマスは人差し指で赤い鍵盤を撫でた。それはシリウスの母が好みに合わせて作らせた特別なもので、滅多に見られぬ逸品なのである。
 勧められるままに椅子に腰を下ろし、リーマスはたどたどしい手つきでワルツを奏で始めた。上手く動かないらしい指で懸命に旋律を追いかける彼は真剣だ。自分の指先を見つめるリーマスの一心不乱な様子にシリウスは微笑を漏らし、左隣に立ったまま右手だけで同じ音階を追い始めた。
 低い音で奏でられる半分だけのワルツは、明らかにリーマスよりも達者だった。器用なシリウスの指先に気を取られたリーマスは何度か音階を外したが、すぐに気を取り直したようだ。気の強い彼らしく奮然と鍵盤を叩く姿はムキになった子供のようで愛らしく、シリウスは楽しげに口元を笑ませた。
 最後まで曲を終えると、リーマスはシリウスを振り返った。屈託の無い笑顔を浮かべたリーマスの目にはシリウスの姿が映りこんでいる。シリウスも笑い、身を屈め、吸い寄せられるようにキスをした。
 くちびるが重なった瞬間、リーマスの笑顔が強張った。身体は緊張し、息を呑んだまま呼吸を忘れた。シリウスがくちびるを離したとき、最早リーマスの表情に親しさは無く、その視線にはただ不信感があるばかり。しまった、とシリウスが後悔するより早く、リーマスの警戒心はむき出しにされて彼を覆い隠していた。
 今にも爆発しそうな緊張感を孕んだリーマスの様子に、シリウスは慌てて弁明を試みた。溢れる愛しさについ無意識に取ってしまった自分の行動に動揺を隠し切れず、彼らしくもない無駄に言葉ばかりの多い弁明を。
 それでもどうにか調子に乗ってしまったことを詫び、実はかねてからリーマスのことが好きだったと告げた。身振り手振りを交えての告白はシリウスにとっては相当な覚悟の上のことだったが、リーマスの返答はそっけなかった。

「……そう」

 呟いたリーマスは今までの警戒心が嘘のように、いつもの無表情に戻っていた。いや、それこそが彼の緊張の証なのかもしれない。ともかく冷静すぎる抑揚で呟いたリーマスは再び鍵盤に指を乗せ、悪戯に高い音を鳴らした。

「それならそうと早く言えばいい」

 先ほどよりも更にぎこちなくなった動作でリーマスは右手だけの旋律を奏で始める。危なっかしい手つきは言葉よりも明確に彼の心理を表しているようで、シリウスは反応に困って立ち尽くしていた。

「そのほうが楽だ」

 自分に言い聞かせるようなリーマスの言葉に不安を感じてシリウスは口を開いた。

「……お前、何か誤解してないか?」

 しかしリーマスはしてないよ、と即答する。言い捨てるような早口は、拒絶にしか聞こえない。益々困惑したシリウスは表情を曇らせ、手持ち無沙汰に左手だけで鍵盤を叩き始めた。まるで音階の違う場所にある左と右の手が奏でるワルツはいびつで、奇妙に乾いていた。
 聞くものに不安を覚えさせるような旋律を縫って、リーマスのくちびるが言葉を紡いだ。

「今夜、君の部屋に行く」

 シリウスは返答しなかった。返答できなかった。
 そして言葉通り、その夜リーマスはシリウスの寝室を訪れた。






 初めてシリウスの寝室へやってきたリーマスは、とても冷静だった。
 昼間の敵意にさえ似た緊張はどこへやら、リーマスは冷静にシリウスと話し、キスを交わし、ベッドに入った。本当のところシリウスは、リーマスが部屋へ来たら今度こそ落ちついて話し合いをし、部屋へ返そうと思っていたのだが、あまりにもリーマスが冷静なのでその機会を逸してしまった。
 否、機会を逸したのではなく、思いがけない僥倖に目先が眩んでしまったのかもしれない。少なくとも部屋へやってきたリーマスは冷静であったし、キスもセックスも嫌がらなかった。どころか当惑して態度を決めかねているシリウスに、早くしろと文句を言いさえしたものだ。
 これ以上リーマスの機嫌を損ねることだけはご免であり、あるいは欲望に抗えきれなかったシリウスは許されるままにリーマスを抱いた。数年に及ぶ願いの成就の前に、理性はあまりに脆すぎる。初めて味わう肌は甘く、くちづけは官能的で、交合は想像以上のものだった。
 リーマスはシリウスの情熱に応えた。言葉こそ無かったものの、彼は大胆で、扇情的で、セックスを楽しむことを知っていた。唯一つリーマスが拒んだことと言えば、幸せ一杯胸いっぱいになったシリウスが、部屋に泊まっていくよう引き止めたことだけ。

「誰かと触れ合ってると気になって眠れない」

 それがリーマスの言い分である。嘘か誠か判然としないが、つれない素振りはかえってシリウスの思いを煽っただけだった。
 一夜明けて、それなりに落ち着いたシリウスはあれこれ考えたが、朝食の席に現れたリーマスはやはり冷静だった。別にシリウスを意識するでもなく、振る舞いは昨日の朝までと何ら変わりが無い。表情にも態度にも以前と変わったところは全く見受けられなかった。こうなってくると、一人で首を捻っている自分のほうがおかしいようで、シリウスは悩むのを放棄した。もともとリーマスは感情の起伏に乏しい気質だと聞いてもいたし、何しろ彼にとっては、目の前の幸福のほうがよほど魅力的だったのだから。
 シリウスはその日ロンドンに出ると、山のように贈り物を購入した。美しい花を日替わりで届けるよう依頼し、珍しい外国産のお菓子を求めてあちこちを訪ねて回った。帽子から靴まで、衣服のすべてに関わる仕立て屋を呼ぶ手配をし、最後にはいつも一人なリーマスの慰めにと、猫か犬を飼おうとまで考え出した。しかしさすがに先走りすぎだということに気付いたのか、シリウスは動物の件は後回しにすると、再び屋敷へと戻っていったのだった。
 それからというもの、毎日のようにシリウスはリーマスに贈り物をした。と言ってもリーマスが何か要求したわけではないので、思いつく限りのことをしたまでだ。買い求めた花だけでは満足せず、自らが植物園で育てた異国の珍しい花を美しく束ねて贈り、

「……本当に器用だね」

 と呆れられたほどである。
 贈り物には金に糸目をつけないのがブラック家のしきたりであり、シリウスもそれに関しては異論は無かった。とは言っても宝石やドレスを買い与えるわけではないし、リーマスから何かをねだられたことも無いわけで、ロンドンに数百の市街地を所有する大富豪の資産からすれば、大した額でもないのである。
 贈り物に対してリーマスは特に嬉しそうでもなかったが、くれるものは素直に何でも受け取った。リーマスが礼を口にするとシリウスは満足し、そして彼に愛を乞う。リーマスは求められるままにくちづけを与え、シリウスと抱き合うことを厭わなかった。
 さすがはその職業にあっただけあって、リーマスはシリウスの欲望に敏感だった。何でもない、ほんの些細な出来事にシリウスがわずかな欲情を覚えると、リーマスはそれを見逃さなかった。シリウスが求めるまでも無く彼は寝室を訪れたし、欲情を煽る方法を心得ていた。普段は何てことの無い普通の男であるリーマスが、秘事となると豹変したかのように色めいて婀娜っぽくなるのがシリウスは嬉しく、また自らの愛欲を受け入れてもらえることを喜んだ。
 それは一見幸せな恋人同士のようであり、事実シリウスは自分たちの関係が甘く優しいものであることを、秋の終わりまで信じて疑わなかった。
 あるいは、そう信じることを自らに課していたのかもしれない。








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