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 朝日が昇る前に二人は別れた。泣き疲れ、大人しくなったリーマスを部屋に送り、シリウスもまた短い眠りを享受した。
 朝食の席にリーマスの姿は無く、そっとしておくようにシリウスは召使たちに言いつけた。疲れているだろうし、まだ心の整理も出来ていないだろうから。
 久々に一人で過ごす朝の時間は、目に眩しいほど美しかった。テラスにテーブルを出してお茶を飲んでいたシリウスは、手入れのかなり進んだ庭を眺めてぼんやりとリーマスのことを思った。
 結局、リーマスは伯爵のことを一番に愛していて、これからもそれは変わらないのだろう。死と喪失は愛を不動のものにする。そこにシリウスの入り込む余地は無く、同じように友人もまた死者の前に敗れ去った。それでも昨夜心の裡を吐露してくれたように、リーマスは少なくとも友人としては、シリウスを受け入れてくれるかもしれない。ならばもう、それで充分ではないだろうか。
 本当のところシリウスは、リーマスをやはり諦めきれてはいなかったのだが、昨夜のことでいい加減踏ん切りもついた。彼の愛は伯爵のものだ。それが不動のものであるなら、もうそれでいいではないか。
 思い出すのはあの雨の日に墓の前で立ち尽くしていたリーマスの姿。彼はあのとき、墓の主に向かって許しを乞うていたのか。シリウスからしてみれば罪とも言えぬ罪に押しつぶされかけ、誰に話すこともできずに一人で抱え込んでいた思いを問いかけていたのかもしれない。墓は何も答えてはくれないのに。
 もしかしたらシリウスはとても大変な間違いをしていたのかもしれない。それは友人からリーマスを引き取ったあとのことだ。当時のリーマスはシリウスを『あの人の友人』であり『恋人の親友』と認識していたことだろう。恋人との関係が破綻した以上、重きは前者に傾いていた。だからリーマスは素直にシリウスを友人として信頼しようとしていたのかもしれない。
 にもかかわらずシリウスは自分の思いを遂げることに夢中になって、リーマスの信頼を裏切った。友人になろうと努力していた相手が、自分を欲望の対象としていたと知ったときのリーマスは、さぞやショックであったろう。酷いことをしてしまったと反省するばかりだ。
 もしあのときシリウスがもっと上手く立ち回っていたら、あるいはリーマスはもっと早くに心情を吐露していたかもしれない。これほど長いあいだ一人で苦しむこともなかっただろうに。
 返せばそれはシリウスを、今はある程度信頼してくれているということかもしれない。リーマスは伯爵が死んだときも、友人との別れのときも、涙を見せなかった。それだけの強い矜持を持った彼が、あれほどの感情の揺らぎを見せるなど早々にあるまい。それはとても光栄なことだ。
 シリウスは紅茶の香気を楽しみながら、ゆったりとカップを口元に運んだ。涼しげな庭に振る夏の日差しが煌いている。こうしてここで庭を眺められるのもあと少し。もしリーマスが友人として受け入れてくれるのなら、次の夏もこうして庭を眺めることができるかもしれない。ならばそれで充分ではないか。
 強がりではなく諦めでもなく、悟りの境地でシリウスは自分の方向性を決めた。恐らく伯爵もこんな気持ちだったのだろう。愛しい人が幸せであることを至上とすること。これに勝る愛情はあるまい。
 思えばシリウスは一つだけ、リーマスと伯爵の関係について誤解していたことがある。かつてシリウスは、リーマスを『恋人』と呼ぶ伯爵に対して、二人のあいだにある感情には齟齬があるのではないかと考えた。伯爵はリーマスに『恋愛』感情を持っているが、リーマスは伯爵に対して『愛』情だけを持っているのではないかと。リーマスが抱いているのは尊敬と親愛であって、『恋』ではないのではないかと考えた。
 だがそれは間違いだった。確かにリーマスと伯爵のあいだには恋愛があったのだ。二人は恋をし、愛し合った。それを見抜くことができなかったことが、シリウスの敗因であったかもしれない。






 午後になって起きてきたリーマスは、酷い顔をしていた。泣き腫らした目、むくんだ顔、かすれた声。目は充血して赤くなっているし、鼻声をしていて心なしか赤い顔をしていた。

「……あんまりジロジロ見ないでくれる。酷い顔なのはわかってるから」

 リーマスは居心地悪そうな顔をしてそっぽを向いたが、シリウスはニヤニヤ笑って彼を見つめた。からかい半分で接した方が、彼もやりやすいだろうと思ったのだ。
 午後になって上がり始めた気温を厭うように、二人は開け放った窓から涼しい風の入る居間で寛いでいた。リーマスは涙で失った分の水分を取り戻すかのように、先ほどからさかんにレモネードを飲んでいる。いつものように寝椅子に凭れ、腫れぼったい目で日差しに白く霞む庭を眺めるリーマスは、もうすっかりいつもの自分を取り戻しているようだ。

「目がゴロゴロする。頭も痛いし、最悪だ」

 くちびるをつんと尖らせたリーマスは、尚も自分をニヤニヤと見つめるシリウスの視線から顔を背けた。昨日のことがあるから流石に恥ずかしいのだろう。こんなリーマスを見られる機会は二度と無いであろうから、シリウスは心残りの無いようにじっくりと観察することに決めた。

「泣くのって、こんな二日酔いみたいになるんだったっけ」

 ブツブツ文句を垂れるリーマスは子供のようだ。文句を言うことで照れを隠しているのだろう。一方シリウスも意地悪に笑うことでやはり照れを隠しているのだが。

「何だ、他人事みたいに。最後に泣いたのはいつだ?」

 リーマスに倣ってよく冷えたレモネードを飲みながら、シリウスは揶揄するように言った。するとしばしのあいだ考え込むように視線を宙に彷徨わせていたリーマスが、

「……11歳のとき以来かな」

「へぇ、何で泣いたんだ?」

「母親に殺されかけた」

「………………」

 さらっと返された衝撃の台詞にシリウスは思わず沈黙した。つまらない冗談だと笑い飛ばせないのは、『リーマスは見かけによらず壮絶な生い立ちをしている』と伯爵から聞いたことがあるからだ。幼児を抱き上げようとした母親が、うっかり手を滑らせて床に落としてしまったなどというレベルの話ではないだろう。藪をつついて蛇を出すことだけは避けたい。
 少なくとも学業は常に首席で教授陣を悔しがらせたシリウスの優秀なはずの頭脳は、若者らしかぬ結論を導き出した。つまり、聞かなかったことにした、のである。
 シリウスはわざとらしい咳払いをすると、

「俺が最後に泣いたのは18のときだな」

 一瞬漂った重たい空気に気付いたのか、リーマスもあえて話を戻そうとはしなかった。

「へぇ、何で?」

「夏季休暇で家に帰ったら、俺の大事な釣竿が一本、見事に折られてた」

 そしてシリウスは怒り狂い、家族に対し本気で泣いて怒ったのである。18の男がする行為ではない。だが、何を大事に思うかは人それぞれだ。伯爵もまた病的な釣り好きであったことからか、リーマスはふうんと鼻を鳴らしただけで笑うことは無かった。
 午後の時間が過ぎるほどに二人のぎこちなさは取れていったが、夜になってリーマスは熱を出した。どうやらそれも久々に泣いたことが原因であるらしい。
 せっかく会話も滑らかになり始めたのに、また明日へ持ち越すのは残念なようだが、シリウスは渋るリーマスにさっさと休むことを厳命した。初めは不機嫌に拒否していたリーマスだったが、顔色が益々赤味を帯び、火照った目元が辛くなるとついに観念してシリウスの言葉に従った。頭痛も酷くなってきたらしい。まだ夜が訪れたばかりなのに、と文句を言いながらも、強制的にシリウスに付き添われてリーマスは自分の部屋へと向かったのだった。
 ベッドに潜り込むのを脇で見守っていたシリウスは、見るからに不服そうなリーマスの顎が隠れるまで上掛けを引っ張り上げてかけてやった。

「明け方は冷えるからな。ちゃんと温かくして寝ろよ」

「わかってるよ」

 あまりにも子ども扱いが過ぎるシリウスの台詞に、リーマスは益々くちびるを尖らせる。それがとても可愛くて、シリウスは笑うとリーマスの髪をかき混ぜるようにして頭を撫でた。

「じゃあな」

 言って立ち去りかけたシリウスをリーマスが呼んだ。部屋の真ん中で立ち止まったシリウスが振り返ると、ベッドに鼻の下まで潜り込んだリーマスが問いかけた。

「ねぇ、何で昨日しなかった?」

 何を、と問い返しかけてシリウスはとどまった。不安を吐露し、弱さをさらけ出して泣いたリーマスを部屋に送り、慰めのための情交を持ち掛けなかったことを彼は問うているのだ。
 シリウスはベッドのほうに向き直って肩を竦めて見せた。

「泣きながら他の男の名前を呼んでるやつに、手を出せるほど無神経じゃない」

「………………」

 それに、とシリウスは悪戯っぽく付け足した。

「泣きすぎて酷い顔だったしな」

 言い終わると同時に飛んできた枕を上体を逸らして避けると、シリウスは笑いながら扉までの短い距離を走って逃げた。急いでドアを閉じて中の様子を窺うと、静かなものだった。冗談でごまかしたシリウスをリーマスもまた冗談で切り替えしたのだ。この微妙な距離感が、二人には最も相応しい。
 そう自分に言い聞かせるとシリウスは、後ろ髪を引かれるのを無視して居間への道を引き返していった。








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