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 夏は瞬く間に過ぎていった。七月は終わり、八月が来て、日の長さも刻々と変わりゆく中、残りわずかな夏の時間を惜しむように、シリウスとリーマスは今までで一番有意義な時間を過ごしていた。
 リーマスが本心をさらけ出した夜からというもの、二人の距離はずっと縮まったように思える。気安さが増し、無意味に相手を意識することも無くなった。軽口は多くなり、一緒にいる時間を素直に楽しめるようになったのだ。
 この夏の終わりに別れを控えたシリウスにはそれはとても有り難いことだった。今度こそ本当に友人になれたという思いは彼の心を軽くした。
 それでも誤算が無かったわけではない。シリウスはてっきりまたもとの清らかな友人関係に戻るものとばかり思っていたのだが、熱が引いた翌日の夜には、リーマスは当たり前のようにシリウスの寝室を訪れたのだ。
 思いがけないことに思考停止に追い込まれたシリウスの反応を拒否と受け取ったのか、

「何だ、腹痛でもあるなら、また今度にするけど」

 とリーマスはさも当然のように言い出した。

「ふざけるな、誰が腹痛だ!?」

 動揺のあまりつい普通の返答をしてしまったシリウスを、リーマスが肯定と捉えたのは当然だろう。

「じゃあ、早くしよう」

 言うなりベッドに押し倒されて、甲斐甲斐しく靴やら靴下やら脱がしてくれて、楽しげにキスまでされてはもう断るわけにもいかない。渋々と言うには勢い良くリーマスを押し倒し返して、シリウスは誘いに乗った。
 それでも気遣いは忘れずに、病み上がりの身体を心配して手早く済ませようとしたところ、

「こら、駄目だって。ちゃんと挿れてくれなきゃ……」

 ふふ、と語尾に悪戯っぽい笑い声が重なれば、抗える男はダライ・ラマくらいなものだろう。喧嘩は常に学内一でも、何の精神修行もしたことのないシリウスは、熟練したリーマスの手管の前にあっさりと篭絡された。
 どうやらリーマスは、シリウスと新たな友人関係を築きながらも、『それとこれとは別』という方針で、別荘の代金を支払っているようだ。シリウスは昔から思っていたが、リーマスはとてもシビアな男だった。
 それが一転、寝室の中となれば、普段のぼんやりしているのと紙一重な冷静さはどこへやら、見事な駆け引きで男に甘える、妖艶な美貌の青年に変貌する。そう、とにかくリーマスは甘えるのが上手い。彼はセックスを楽しんでおり、共にある相手にそれを伝え、快楽を共有する術に長けている。そのため、相手はまるで本当にそこに愛情が介在しているような錯覚を覚えてしまうのだ。これが才能というものなのか、シリウスは何度も感心してしまった。
 しかしそれが徒となる場合もあるだろう。おかげでリーマスと初めて身体を重ねた当初、シリウスはリーマスも自分に好意があるものと誤解してしまった。かなり長いあいだその間違いに気付かなかったのは、ひとえにリーマスの無意識の手腕によるものだ。
 いくら行為を終えればすぐに部屋に帰ってしまうような冷めた態度を取ったところで、気を引くための手段と錯覚してしまっても仕方が無いだろう。それほどにリーマスの変貌は自然で、甘え方は上手かった。
 シリウスに対して決して好意を抱いていたわけではない時期でさえそれだったのだ、友人はさぞや当惑したことだろう。明らかに関係はこじれているのに、セックスともなれば情熱は本物で、お互いのあいだに確かな愛情を感じたことだろう。それなのにリーマスの心は別の人物が占め、あいだに分け入ることはできない。友人の苛立ちを想像するだにシリウスは哀れに思った。
 だがリーマスが悪いわけではない。彼はそうして生きてきた。だからこそ生きてこられた。神の与えた天賦の才は、路地裏で身を売る最下層の人生からリーマスを脱却せしめた。ましてやそれが無意識であるのなら、何一つ咎めるようなことではない。例え今の状況がシリウスにとって必ずしも幸福とは言いがたいものであったとしても。
 ともかくシリウスは現状をあるがまま受け入れることを自らに課した。悩んだところでどうしようもなく、何より自分で決めたことなのだから。






 八月は瞬く間に過ぎていった。夏の日差しは尚も強いが、夜の訪れる時間は日毎に早くなっていた。秋は近く、渓流のせせらぎからも季節の移ろいが聞こえてくるようだった。
 すでに時期が終わりに近付き、すっかりサーモンがかかる日も少なくなってきたある日、シリウスは午後のお茶にリーマスを庭に誘った。まだまだ日は高いが、木陰にいればそう辛くもない。もともとロンドンに比べ遥か北方にあるこの地域では、早くも夕方は過ごしやすくなり始めていた。
 別荘の裏手にある林を少し進むと、そこには琥珀色の池が広がっていた。随分前に町から人を雇って全面的に手を入れた水辺は、今ではすっかり美しい庭の一部である。池の色が琥珀色を帯びているのは、底に露出したピートのためだ。近くを流れる河の水も同じように淡い琥珀色をしており、この池にはその支流が流れ込んでいるのだった。
 見事な枝振りの大木の木陰に二人は場所を決めた。大判の薄い毛織物を敷き、お茶と軽食を運び込む。二人分にしては大きなバスケットには、リーマスの好物のお菓子類が詰め込まれていた。
 お茶の準備が整うと、召使を下がらせてシリウスはリーマスのカップにお茶を注いでやった。こんな場所でもお茶は銀器で用意される。それを陶器のカップに注ぎ、リーマスに差し出した。

「今日はいいのが掛からなかった?」

 お茶を受け取りながら話を促すリーマスに、険しい表情でシリウスは頷いた。

「サーモンは五月が入れ食いなんだ。もう時期外れだな」

「そうか、残念だな。このあいだのソテー、美味しかったのに」

 リーマスはカップを口に運びながら心底残念そうに眉尻を下げた。この地方のサーモンは世界一美味いと諸外国でも評判である。食事の内容にあまり関心の無いリーマスでも、その違いはわかったようだ。

「運がよければまた大物が掛かるさ」

 安請け合いする愚を犯さず、シリウスは軽く笑って見せた。それにしてもどうやらリーマスは本気で釣りに興味が無いようだ。十年もあの釣り好きの伯爵と一緒に暮らしていて、毎年のようにこの別荘を訪れていたというのにもかかわらず、サーモンの時期を知らないとは、筋金入りとも言えるだろう。なるほど伯爵が形見分けに全ての釣り道具をシリウスにくれた理由がよくわかった。リーマスに残したところで、使い道は無い。そんな媚びないところがまた愛らしいとも言える。

「そうか。じゃあ、もっと早く来ればよかったね」

 惜しいことをしたとリーマスは言いたいのだろう。眉尻の下がったリーマスは普段より幼い表情で、頭を撫でてやりたい衝動をシリウスはどうにか堪えねばならなかった。
 サンドウィッチやローストビーフ、フルーツケーキで空腹を満たすと、二人は並んで座ったまま、静かな水面を見下ろした。水辺が好きなリーマスは自然と微笑を湛えて水面を見つめている。どうやら彼はこの土地ととても相性がいいようだ。
 涼しい風がリーマスの前髪を揺らすのを眺めていたシリウスは、思い切って口を開いた。

「……九月になったら、俺はロンドンに帰る。お前は、好きにしていいから」

 後ろ手をついて脚を伸ばし、シリウスはついに言った。そろそろ言わねばならぬと、ここのところずっと考え続けていたことだ。だらだらと先延ばしにしていたところで九月はやってくる。立場を明確にし、けじめをつけるのはシリウスの最後の仕事だった。
 リーマスはシリウスを振り返り、無言で彼を見つめた。風がリーマスの鳶色の髪を乱しても、彼はシリウスから目を逸らさなかった。

「お前の荷物は出来るだけ早くに送る。何か必要なものがあれば、いつでも言ってくれ」

 努めて軽い調子でシリウスは言い、さりげなくリーマスから目を逸らした。瞬きもせずに見つめられると、動揺してしまう。おかげで、ときどき様子を見に来てもいいかという言葉を口にすることができなかった。それは余りにもシリウスにだけ都合がいいようで、結局自分が諦めきることもけじめをつけることも出来ずにいるという事実を、リーマスに知られるのが恥ずかしかったからだ。
 表情の選択に困ったシリウスが間を持たせるために紅茶を口に運ぶと、ようやくリーマスも視線を池に向けた。空の高いところを飛んでいる鳥が水面に映り、二人は黙ってそれを目で追った。

「…………行くよ」

 ぽつりと言ったリーマスの言葉に、シリウスは反射的に彼を振り返った。リーマスは尚も水面を見つめている。あまりにも普段と表情の変わらぬ彼にシリウスが問い直すまでもなく、行くよとリーマスは再び呟いた。

「ぼくもロンドンに帰る」

 耳から入った言葉が脳で長い時間をかけて咀嚼され、ようやくシリウスが言葉の意味を理解したとき、膨れ上がる歓喜を抑えるようにリーマスは言葉を続けた。

「ここにあの人はいないから」

 言ってリーマスは静かに目を伏せた。

「………………」

 行き場を失った喜びが急速に冷えゆく中で、シリウスはわずかに顔を俯けてくちびるを引き締めた。喜びの言葉と共にリーマスを抱き締めたい衝動はすでにしぼんで消えてしまっている。別れではなく、一緒に帰ることをリーマスが選んでくれたことはシリウスを天にも昇るほど高揚させたが、それは彼が与えた影響のためではなかった。結局リーマスにとって一番大切なのは、『あの人』であってそれは生涯変わることはないのだろう。
 高望みはすまいと自戒していたにもかかわらず、一瞬にせよ身分不相応な期待を抱いたシリウスは赤面しそうになった。初めからわかっていたことを、またも認識させられるだなんて、どうしてこう学習能力が無いのだろうか。
 シリウスは微かな自嘲の笑みを漏らし、リーマスの視線を避けるために毛織物の上に寝転がった。頭の下で腕を組み、鳥の舞う空を見上げた。

「……ロンドンに帰ったら、また墓参りに行くか」

 あえて明るい声で言うシリウスを、リーマスが覗き込んだ。いつもと変わらぬ表情。伯爵を愛する、いつものリーマスだ。彼はシリウスの身体の脇に両手を着いて、真上から視線を注いでいた。

「今度はオールドローズを持って行こう。あの人、確かオールドローズが……」

 好きだったろう、と言い掛けたシリウスの上に、リーマスの影が重なる。腕を折り、眼を瞑って、リーマスは静かにくちびるを重ねていた。

「………………」

 いつだって予想の出来ないリーマスの行動に、シリウスは言葉を失って彼を見上げていた。上体を元に戻し、段々と遠ざかるリーマスは、じっとシリウスに視線を注いでいる。いつもと変わらぬ表情の彼は、手を伸ばしてシリウスの前髪を悪戯にいじった。

「君と行くよ」

 ロンドンでも墓参りでもない。リーマスは、シリウスを選んだ。
 シリウスは半身を起こして何か言い掛けたが、結局言葉は口をついて出ず、リーマスを抱き寄せてキスを交わした。リーマスは抵抗せずにシリウスの腕の中に納まり、目を閉じてキスを受け入れた。
 身を横たえ、甘い甘いキスを交わしながら身体の位置を入れ替えると、恐る恐るリーマスがシリウスの背中に両腕を回した。背中を辿る指先の頼りない感覚に、シリウスはようやく自分が至上の幸福の中にいることを実感した。








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