■□■ おまけ □■□
シリウスは黒っぽい表紙の本を紐解いているリーマスをよく見かけた。その本はどうやら伯爵の屋敷から持ってきたもののようだった。
その日、庭を散歩していたシリウスは、池の傍にあるベンチで例の本を開いているリーマスを見つけた。屋敷内に姿が見当たらなかったので、庭にいるなら一緒に散歩でもしようと探しに来たのだ。
小さな湖ほどもある池には石造りの橋が架かっており、静かな水面にその姿を映している。風に舞った枯葉が落ちかかるか、小魚が跳ねる以外には半永久的な静けさを保った水面に映ったリーマスを見ながら、シリウスは橋を渡って行った。
「何見てるんだ?」
石橋を叩く靴音に顔を上げたリーマスに、シリウスは声をかけた。上着も着ず、チョッキ姿で手袋もしていないシリウスのラフな服装にリーマスは微笑を浮かべた。それだけ彼等の関係が親しいということだ。
「見る?」
ベンチに並んで腰を下ろしたシリウスに、リーマスは本を差し出した。黒と灰色の中間の色をした布張りの本である。伯爵家の紋章が金の箔で押してあるそれは、特別にあつらえたものだ。
本を受け取って開いてみると、それはアルバムだった。一番初めのページには、椅子に腰を下ろした伯爵と、その背もたれに左手を乗せ、寄り添うように立ったリーマスの写真があった。台紙に書かれた日付からすると、一番最近のものらしい。
近しい別れなど想像もしていないであろう二人の幸福そうな微笑に、シリウスは複雑な思いを抱いたが、隣で見守っているリーマスの手前、何も言わずにページをめくった。
次のページには同じ構図の伯爵とリーマスの写真があった。日付は先のページの一年前。その隣のページには、更に一年前の日付の同じ写真があった。どうやら毎年何かの記念日に撮っていたもののようで、同じ構図のものが十枚あった。
「ぼくの誕生日なんだ。あの人、そういうの好きで」
照れたように笑うリーマスは、過去への郷愁で幸せそうに見える。その半面で寂しそうにも見えてしまうのは、シリウスのやっかみだけではないはずだ。
「……十年前のお前、頬が丸くて可愛いな」
しんみりしかけた空気を割って、揶揄するようにシリウスが言った。彼の指差した十年前の日付の写真には、今よりずっと幼い顔立ちのリーマスが写っている。おそらく写真を撮るなど初めてなのだろう、他の写真に比べて緊張が見て取れ、今よりずっとふっくらとした頬の線と相まって、とても可愛らしかった。
「いやいや、肖像画の君ほどではないよ」
お世辞を返すような口調でリーマスは言い返し、シリウスはわざと大げさに肩を竦めて見せた。そして二人は悪戯っぽく笑い合い、再びアルバムに目を落とす。
しばらく伯爵とリーマスの写真が続いた後、別の人物の写真がシリウスの目に飛び込んできた。軍服を着た青年の写真で、かなり古いもののようだ。穏やかな微笑が軍人らしかぬ優しげな人となりを示しており、一目で他人の警戒心を解きほぐすような、信頼感を与える人物だ。
「……あの人の息子さん」
シリウスの考えた通りのことをリーマスが口にした。似てるよね、と笑うリーマスの言葉通り、疑うまでもなく伯爵と血縁関係にある顔立ちをしている。この人が昔狼を飼うとだだをこねた人物か、とシリウスは口元をほころばせた。
その写真を皮切りに、その後のページは全て伯爵とその家族の写真で埋められていた。と言っても流石に伯爵夫人の写真は無い。もしかしたら当時はまだあまり写真が一般的ではなかったために、夫人を写したものはそもそも存在しないのかもしれない。
実妹と写った家族のものや、その息子である伯爵の甥がまだ小さいころに一緒に写ったもの、クラブで撮ったらしい大勢の紳士たちと写った写真などがあったが、他はほとんど釣り関連のものである。大物を釣り上げたとき、どうにかして記念に残したいと思うのが釣り人というものだ。どうやら伯爵はそれに写真を用いたようだ。
年代順に整理されたアルバムの最後にあったのは、二十年ほど昔の写真だった。伯爵の胸から上を写したもので、髪の色もまだ抜けてはおらず、顔の皺も少ない若々しい時分のものだった。息子とよく似た、穏やかで気品のある微笑を浮かべた伯爵は、中々の好男子である。妻を亡くしたのは相当若い時分だったと聞くが、これならば再婚の相手には事欠かなかっただろうに、彼がそうしなかった理由はわからない。下がった眦に寄る笑い皺までが伯爵の物静かで誠実な人柄を物語っているかのようで、最も価値のある一枚であると思えた。
シリウスでさえそう思うのだから、リーマスに至っては尚更だろう。彼はシリウスの膝の上に置かれたアルバムの写真を指差して、
「すごい、格好いいよね」
そんなことを言って惚気るように微笑んだ。
「俺を前にしてそれを言うのか!?」
と、詰め寄りたいのをぐっと堪えて、シリウスは鷹揚に頷いた。器の小さな男と思われたくはないし、リーマスには思い出を共有できる相手が必要なのだと必死で自分に言い聞かせながら。
シリウスの努力など知る由もないリーマスは、無邪気に思い出話をし始めた。シリウスの肩に頭を凭せ掛けるようにして甘えながら、ページをめくっては楽しげに話しかける。それはシリウスにというより、写真に向けられた言葉だ。
自分の相槌など本当は必要ないだろうことを理解しながらも、シリウスは笑顔が引きつりかけるのをどうにか自制し、リーマスの言葉に頷いていた。シリウスはリーマスのことが大好きなので、例え嫉妬の炎がメラメラと燃え上がりつつあっても、最早この世に存在しない相手に対して腹を立てたりはしないのだ。一応。
それにしても思うのは、伯爵がかつてシリウスに漏らした『もしもあと十歳若かったら、嫉妬に狂っていたかもしれない』という言葉についてだ。おそらくこの分だと、もしあのとき伯爵が十歳若かったら、リーマスはシリウスにも友人にも見向きもしなかったことだろう。嫉妬に狂うのはこっちのほうだ、とシリウスは胸中で毒づいた。
そして更にもう一つ。本人は気付いていないようだが、どうやらリーマスは伯爵のようなタイプの顔立ちに弱いようだ。思えば友人も眦の下がった、他人に警戒心を与えない穏やかな雰囲気のある優男だった。となればシリウスがすることは唯一つ。その手の顔の男をリーマスに近づけないこと……!
「見てろよ、くそじじい……」
胸中に呟いた言葉は、けれどリーマスの言葉に似た親愛を隠し切れないものだった。
あとがき おまけのおまけ
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