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 思えばシリウスは興味のない人間にいつまでも関わりあうほどお人好しではなかった。沈黙が苛立つようならば即刻席を立ち、二度と顔を合わせないようなわかりやすい人間だ。それが幾ら伯爵の頼みとはいえ、別の友人を道連れにしてまで場を取り繕おうとするなど、ありえない話である。そうしてまでシリウスはリーマスと一緒にいたかったのであり、つまり彼に好意を抱いていたのだ。
 ……ということに気付いたのは、事件のあった翌日のことだった。気付いたというより、見て見ぬ振りをしていた自分の本心をようやく認めたと言ったほうが正しい。ともかくシリウスは友人とリーマスがただならぬ関係になってようやく、更に輪をかけてただならぬ事態に陥った自分を発見したのだった。
 シリウスの懊悩は深かった。大学在学中に突如として両親が他界したために、いきなり爵位を継いでいきなり莫大な財産を受け継いでいきなり家長になっていきなり親類に説教をされていきなり財産目当ての女たちに群がられていきなり違う世界に放り込まれたとき以来の懊悩だった。それでもあのころは忙しくしているのが一番いい方法だった。
だが今度は違う。忙しくしていたところで現実逃避にしかならず、放っておけば事態は悪化する一方だろう。むしろ放置して傍観に徹することができたらどれほどよいか!
 ともかくシリウスは逃げるのをやめた。まさか友人に自分もリーマスが好きなのだと告白するわけにもいかないが、こうとなったらば二人を応援してやろうではないか。自覚したとたん振られたに等しい恋情にいつまでも拘泥するシリウスではない。彼はそれまでの懊悩をやめると、決意を新たに立ち上がった。伯爵には申し訳ないが、せめて友人とリーマスは幸せになってほしかった。あれほどリーマスを愛しているのならきっと、伯爵もわかってくれるはず。自己犠牲と、他人の幸せを望むことは尊いと神様も言っている。
 都合よく教理を曲解したシリウスだが、彼の賛同を何も知らない友人は喜んだ。そして二人は、友人が一緒になってほしいと懇願してもどうあっても首を縦には振ってくれないリーマスを説得すべく、足しげく伯爵邸に通うこととなる。






 リーマスが伯爵の元を去り、友人と新たな生活を共にすることになったのは、シリウスが彼と出会って半年目の春のことだった。
 シリウスと友人の説得に先に応じたのはリーマスではなく、伯爵のほうだった。老齢の友人は、自分の心変わりを許せないでいるらしいリーマスを優しく宥め、許すだけでなく後押ししてくれた。激昂するような人間ではないと思っていたが、恋人の心がもう自分にないことを微笑んで許すことのできる潔さに、シリウスは頭の下がる思いだった。
 伯爵のリーマスへの愛情は本物だったということだ。彼は何よりもリーマスの幸せを願った。リーマスは伯爵の傍を離れたがらなかったが、それよりも自分の幸せを望みなさいと諭す姿は聖人のようであった。
 それでもリーマスが首を縦に振るには一ヶ月を要し、伯爵が彼のために用意した生前分与に近い形の財産の相続を頑なに拒んだ。そんなものを貰う言われはないと相当怒ったようで、暫く口をきいてくれなかったと伯爵は後にシリウスに語った。
 けれど最後には伯爵に説き伏せられ、かなりの額に上る宝石類や、十年前に開設されたリーマス名義の銀行口座預金を受け取った。それは手切れ金や思い出の清算ではなく、リーマスの将来を思う伯爵の愛情だった。今ここで伯爵が死んでも、リーマスに相続権は無い。遺言状にしたためておいたところで、怒り狂った親類がどうにかして取り上げるのは目に見えている。ならば伯爵の元気なうちに、合法的にこっそりと譲渡してしまおうとしたのである。
 伯爵家を出ると、友人はすぐにリーマスを連れて外国に旅立った。心機一転、新しい生活を始めるのに春はいい季節であり、異国の地は二人きりになれる数少ない場所だ。リーマスがあまりに伯爵のことを気に病むので、少し妬けたのもあるだろう。永住するわけではない。この十年というもの、伯爵と一緒でない限りは屋敷の外にさえ出ようとしなかったリーマスには、いい刺激だとシリウスも思った。
 リーマスが去った伯爵家はどこか閑散として寂しかった。友人を見送った足で伯爵を訪れたシリウスは、あるべきものを失った屋敷の寂しさに当惑した。

「……貴方はこれでよかったのですか?」

 伯爵が自ら入れてくれたお茶を受け取りながら、遠慮がちにシリウスは問いかけた。居間のいつもの席に腰を下ろした伯爵は、急に老け込んだようにも、かえって若返ったようにも見える。友人とリーマスの関係を怒るでもなく、寂しげに微笑して受け入れたひとは、シリウスを気遣うような柔らかな視線をくれた。

「……わたしがあと十歳若ければ、あるいは嫉妬に狂っていたかもしれん。彼の若さや美貌にね。けれど、この年になってしまえばもう充分だ」

 達観した伯爵の微笑にシリウスはしどろもどろになった。まだ若いシリウスには彼の執着の薄さが必ずしも理解できなかった。シリウスもまたリーマスを素直に諦めた口だというのに。あるいはシリウスは、自分の代わりに伯爵に、リーマスに執着してほしかったのかもしれない。
 返答に窮して眉間に皺を寄せたシリウスに伯爵は笑いかけた。

「二人は上手くいくと思うかね」

 もちろん、とシリウスは力強く断言した。上手くいってもらわねば困るくらいだ。でなければ伯爵を孤独にし、シリウスが断腸の思いで諦めたことが無駄になってしまう。猛然と友人の長所を挙げて二人の行く末の安泰を力説するシリウスを、伯爵は尚も楽しそうに見つめていた。

「……あの子を初めて見たとき、昔うちで飼っていた犬を思い出したんだ」

 伯爵の突然の回想にシリウスはやや面食らった。けれど口を挟もうとはせず、黙って彼を見つめた。

「息子が四つのときに、ドイツに避暑に行ったんだ。そのときに息子が山で仔犬を拾ってね」

 当時を懐かしむ目つきで伯爵はどこか遠くを見ていた。彼は湯気の消えかけた紅茶に砂糖を入れた。一杯半。シリウスは伯爵が紅茶に砂糖を入れるのを初めて見た。それは今まで傍にいた彼の恋人が行っていたことで、伯爵自らがする必要のなかったことだった。

「辺りに母犬の姿もないし、弱っていたから連れ帰ったんだ。動物に詳しい庭番がいたから丁度いいと思ったんだが、彼は山へ返すべきだと強固に反対してね。でも息子がどうしても飼うと言ってきかないものだから、結局は折れて面倒をみてくれたよ」

 ティースプーンできっちり五回かき混ぜる。伯爵はカップを取り上げ、薄くなった湯気を顎に当てるようにして香気を吸い込んだ。いつもならば一連のことをリーマスがやっていた。まだ紅茶の熱いうちに。今はもうその姿はどこにも無い。

「しかし面白いことに、この仔犬ときたらわがままでね。大きくなると肉しか食べず、わんとも鳴かないし、暗闇で黄色く光る目を持っていたんだ」

 シリウスが何を考えているのか大体察している様子で老人は尚も語りかけた。長椅子の隣に開いた空間に目をやらぬようぎこちなく紅茶に視線を注ぎながら、シリウスは話を促した。

「これは変だと思ってね。英国に帰ってから友人の獣医に見てもらった。そうしたらどうだ、これは仔犬じゃなくて狼の子供だと言うじゃないか」

 当時のことを思い出したのか、伯爵は忍び笑いを漏らした。なるほど庭番が強固に反対するはずである。呆れたような獣医の顔は今でもよく憶えているらしい。それはそうだろう、犬を見に来たのに差し出されたのが獰猛な肉食獣では、獣医とて驚くに決まっている。

「それで、どうしたんです?」

「うん? 動物園に引き渡すべきだと獣医は言ったんだが、もうそのころには情も移っていたからね。動物園には渡さないと息子も泣き出すし、結局、そのまま我が家の忠実な番犬になってくれたよ」

 栄華を誇る英国の首都で狼を飼うなど前代未聞だが、そんな話はとんと聞いたことがなかった。シリウスが生まれる前の出来事という理由が大きいのだろうが、恐らくはこの屋敷の当時から忠実にして真に忠実な召使たちの努力の賜物だろう。昔から何かと退屈しない生活を送っていたようだ。

「……その狼にリーマスが似てる、と?」

 さりげなく言った本心から遠いシリウスの合いの手に老人は楽しげに微笑した。彼の悪戯っぽい微笑は、リーマスが去っても消えることは無かったようだ。

「とてもね。勇敢で誇り高くて人好きで寂しがり屋で……。外見と中身は大分違うが、とても愛らしいところなんかがね」

 曲がりなりにも成人男性を愛らしいと表現するのはどうかと思ったが、シリウスは異論を唱えなかった。黙ってティーカップを口元に運び、肯定もしなかったが。
 老人は微笑を絶やさず、年若い友人の様子を観察していたが、

「……君こそよかったのかね?」

 揶揄するようでいて、その奥に心からの配慮を感じさせる声音で伯爵は問いかけた。何がとは言わない。けれどシリウスは、齢を重ねた伯爵が、何もかもをお見通しであったらしいことにようやく気がついた。思わず赤面しかけたものの、シリウスはなけなしのプライドを総動員して平然とした様子をどうにか繕って見せた。

「……友人の幸せは、俺にとっても重大事ですから」

 強がりとしか取れないシリウスの反応に、伯爵は微笑を深めただけで、それ以上何も言おうとはしなかった。






 リーマスが去って以来、シリウスの足は伯爵家から遠のいた。老人から大切な恋人を取り上げてしまった後ろめたさや、友人を羨む気持ちを捨てきれなかったせいだ。結局は自分が未熟なのだと思い知らされ、シリウスは一人でロンドンを離れた。
 幸い季節は春。田舎の領地を見て回るのにはいい季節だ。ロンドンではこれからが社交会のシーズンであったが、おそらくシリウスの人生で今が一番、社交会に身を置きたくないときでもあった。
 そしてシリウスは釣竿さえあればどこででも暮らしてゆける奇特な趣向の持ち主であったから、住み慣れた大都市を離れることに未練は無かった。
 渓流釣りは立派な貴族のスポーツである。数多くの道具を使いこなし、自然と一体になって緩やかな時間の経過を楽しむのだ。必ずしも魚を釣り上げることが重要ではない。釣り上げても川へ戻すことがほとんどだ。自然との対話こそがシリウスの求めるものだった。
 ロンドンのテムズ川で魚釣りはできないから、田舎の領地をめぐるのは楽しかった。一人で考える時間は膨大なほどあり、次第に伯爵家での出来事が遠い昔のように思えてきた。リーマスと友人は今頃どうしているだろうか。馬に蹴られて死んでいなければ、幸せにやっていることだろう。そして何より伯爵は十年ぶりの孤独をどうやり過ごしているのか……。
 秋になるとシリウスはロンドンへと戻った。後ろめたさよりも自分の不義理が情けなくなったからだ。伯爵は彼の大切な友人であり、同好の志であり、尊敬すべき人物だ。それは今も昔も変わらない。ならば何を躊躇う必要がある。
 ロンドンへ戻ったシリウスは最新の釣具カタログを手に伯爵邸を訪れた。そして年長の友人が、病の床に臥せっていることを初めて知ったのである。








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