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 新年を前に老齢の友人は逝ってしまった。軽い風邪は瞬く間に伯爵の肺を侵し、肺炎を治す体力はもう残っておらず、彼はあっけなく逝ってしまった。
 葬儀はしめやかに執り行われた。名家の歴史がまた一つ過ぎ去ったことを示すように、参列者はあとを絶たなかった。しかしその中にリーマスの姿は無い。伯爵の病臥を知ったシリウスは即座に電報を打ち、友人とリーマスは急遽帰国したものの、伯爵の周囲を取り囲んでいた親類に面会を拒絶されてしまったのだ。彼らは伯爵家の名に泥を塗ることを怖れ、何より汚らしい男娼に周囲をうろつかれることを厭い、葬儀に参列することさえ許さなかった。
 友人は怒り狂い、シリウスもあまりの言い草に全面交戦の姿勢を見せたが、二人を止めたのはリーマスだった。伯爵の眠りを妨げたくはない、と彼は語り、二人に礼を言った。死して尚伯爵に迷惑をかけたくないということなのだろう。葬列にかつて社交界を大騒乱の渦に巻き込んだ噂の愛人が登場しては、何かと問題がある。それにもしかしたら、病床の伯爵がリーマスに面会しようとしなかったせいもあるのかもしれない。
 病床に臥しているとき、伯爵はシリウスを通してリーマスに面会に来ないよう言いつけた。彼の周囲は死を待つ親類で固められており、強行突破したところでリーマスが辛い目に合うのは目に見えていたからだ。それがわかっていたから、伯爵は先にリーマスに財産を分与したのだろう。身体の変調を察したのが、すべての始まりだったのか。

「わたしはそれほど賢明ではないよ」

 伯爵は痩せ細って尚昔と変わらぬ少年めいた輝きのある笑顔を見せてうそぶいたが、シリウスは信じなかった。結局全ては伯爵の思惑通りだったのだ。シリウスをリーマスと引き合わせたのも、リーマスが誰かと恋に落ちたのも、全て。

「シリウス、リーマスを頼むよ」

 老齢の伯爵は不機嫌極まる若い友人にそう頼んだ。

「何で俺なんですか。あいつに言うべきでしょう」

 あいつ、とはシリウスの親友のことだ。今この場にはいないが、彼を呼びつけることは不可能ではない。伯爵の親類にリーマスを拒むことはできても、爵位を持った友人を追い返したりしたら、それこそ今後どんな汚名がついて回るかわかったものではない。何しろ友人は社交界に咲く大輪の華であるのだから。
 しかし伯爵は笑ってシリウスの言葉を否定した。深くなった眦の皺が痛々しい。

「君に頼みたいんだよ。後見人みたいなものかな」

 死の床にある友人の言葉を無下にするわけにもいかず、シリウスは神にかけてと誓った。伯爵は病床に甥を呼び、遺産のすべてを譲渡する代わりに以後一切リーマスに関わることを禁じた。過去に何か諍いを起こしたことのあるらしい甥は不服であったろうが、済ました顔で約束した。シリウスは遺言の立会人となり、年が明ける前に伯爵は世を去った。
 葬儀に参列したその足でシリウスは友人の屋敷を訪れた。友人は非情な伯爵家の人々に憤り、リーマスは青い顔で屈辱に耐えていた。
 シリウスはリーマスに一つの指輪を差し出した。黒い石のついたシンプルなもので、伯爵がいつも身につけていたものである。昔、息子が贈ってくれたものなのだと聞いたことがある。シリウスは故人の思い出にと、形見分けとして指輪を譲ってもらった。思い出以外にたいした値打ちが有るわけでもない指輪なので、誰も異を唱えなかった。

「俺は他にも色々もらった。お前が持ってるほうがあのひとも喜ぶ」

 ぶっきらぼうに突き出された指輪を、リーマスは受け取った。青ざめた表情は硬かったが、

「……ありがとう」

 指輪を手に握りこんだ瞬間、瞳に感情の揺らぎが起こった。けれどリーマスは強張った表情を保ち、再び沈黙の中に沈み込んだ。泣こうとはしないリーマスは美しかった。






 伯爵の葬儀のあと、シリウスは古い友人の招待を受けてエジプトへと旅立った。もともと考古学と地質学に興味があり、学生時代には化石の発掘に没頭し、学校の敷地内を許可無く穴だらけにした前科のある彼である。ましてやエジプトには有名なナイル川があり、その氾濫を一度自らの目で確かめてみたいと思っていたから、シリウスは招待を受けるとすぐに長旅の準備に取り掛かった。
 だが実際の理由はそれだけではない。伯爵の死は彼に虚しさを覚えさせ、深刻な喪失感は虚脱を生み出した。それにはリーマスと友人も一役買っていたと言ってもいいだろう。シリウス以上の悲哀に耐えるリーマスは美しく、けれど彼は友人しか見てはいなかった。リーマスを慰める役目はシリウスにはなく、虚しさは加速するばかり。友人を羨む自分の矮小さにシリウスは腹立たしささえ覚え、ならばいっそ遠い異国にでも行って頭を冷やそうと考えたのだ。
 こうしてシリウスはエジプトへと旅立った。山ほど予防注射を打たれ、暑さと防犯の注意を毎日何時間もされてからの渡航だった。
 当初の旅の予定は半年ほどのはずであったが、現地で久々に再会した友人に誘われて遺跡の発掘チームに加わることになったシリウスは、結局一年半を旅に費やすこととなった。
 エジプトでの滞在は価値あるものだった。大貴族の出身の癖に妙なところで職人気質のシリウスは、学者たちのみならず現地人にも評判がよく、別れの際には盛大なパーティーを催してくれたほどである。現地の水にも日焼けにも順応し始めた矢先の別れであるから、残念な気持ちもひとしおであったが、これ以上屋敷を主人不在にしておくわけにはいかなった。
 滞在一年目あたりから山のように届くようになっていた親類からの帰国を促す手紙は、いつの間にか脅迫めいたものになってきていた。曰く、ブラック家の当主たるものが母国をおろそかにするとは何たることか、他の貴族たちの規範たるべきブラック家の当主がこれでは眼も当てられぬ、尊い祖先の眠る墓を放って蛮人の墓を掘り返すなど何という嘆かわしいことか、一族の老人たちが当主の顔を見ねば死ねぬと騒ぎ出している等々、ほとんど嫌がらせでしかない手紙の束はシリウスにさしたる感慨を与えなかった。
 何しろ彼の祖父は若いころ金に飽かせてアフリカやアジアを旅して回っていたし、両親にいたっては世界旅行中の事故で亡くなっている。ブラック家は代々変人を輩出し、そして皆一様にフットワークが軽かった。今更シリウスだけが親類の勝手な言い草に従う必要は無い。
 そんなシリウスに帰国を決意させたのは、親類の中で唯一仲のよい従姉妹に娘が生まれたという報せだった。一族の中でもシリウスに次いで変人と言われ続けてきた従姉妹は、何年も昔にしがない街医者と身分違いの恋に落ち、駆け落ちして結婚した女傑である。
 駆け落ちなどしたら娘を傷物にされたと世間は見なす。となれば宗教的な理由からも、体面を保つためにも、結婚を許すしかない。幸い相手は警官でも金物屋でもなく医者である。貴族でこそないものの、上流階級の端にかろうじてひっかかっている身分である。下手をすれば結婚翌日に未亡人にされていたかもしれない従姉妹だが、影ながらどころか猛然と味方についたシリウスの強引なまでの力添えもあって、どうにか幸せな結婚生活を送ることができたのだった。
 シリウスにとって従姉妹は、幼い日に海水浴で溺れかけたところを助けてくれた命の恩人であり、ろくでなし揃いの親類の中で唯一の心許せる相手だった。その仲良しの従姉妹に娘が生まれたとあっては、他人の墓を掘り返している場合ではない。赤ん坊は今が一番可愛い時期だ。もちろんこれからだってずっと可愛いだろうが、今を逃す手はない!
 シリウスはお祝いの品を買い漁ると、急いで荷物をまとめ、帰国の途に着いた。何故な彼は見た目にそぐわず子供が好きで、赤ん坊や小動物が可愛くて仕方がない人間であったからだ。
 一日千里を駆ける勢いでロンドンへと舞い戻ったシリウスは、『危篤』と偽って来訪を催促する一族の老人たちの催促を無視し、従姉妹の家へと向かった。予防注射のとき以来に会った従姉妹は産後の肥立ちも良いようで、以前より少しふっくらとしていた。
 従姉妹に生まれたのは娘だった。真っ白い肌に、描いたような端正な顔立ちはブラック家のもの。赤味がかった茶色の髪は父方のもので、あまりの愛らしさにシリウスは、何かと卒倒するご夫人たちの気持ちがよくわかったほどである。
 数日間シリウスは従姉妹の家に滞在し、まだ歯も生え揃わない赤ん坊に毎日大量の贈り物をしては、将来嫁にやることを考えて父親と一緒に涙に暮れた。あまりにも先走ったシリウスと夫の激情に、従姉妹は笑うばかりで呆れたりはしなかった。
 そうこうするうちに数日が経過していった。それはシリウスにとっては楽しい日々であったが、半面で大事な懸案事項を後回しにしようという後ろ向きな心理が働いていたことを彼は否定しえない。
 ロンドンに戻ったからにはやるべきことが山積していた。例えば親類の怒りを沈めねばならなかったし、この一年半まかせっきりであった財産について管財人から報告を受けねばならなかったし、久々に社交界にも顔を出さねばならないだろう。そして何より、友人とリーマスの元を訪れねば。
 一年半も海外逃亡した挙句、どうやら何一つ昇華することの叶わなかったらしいシリウスは、帰国してから一月近くたってようやく友人に手紙を書いた。すべての懸案事項を片付けてから、といういいわけはせいぜい一週間しか持たず、帰国を祝う友人の招きに応じ、シリウスは二人の元へ向かったのだった。








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