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万物は流転し、全ては無常であることが世の習いである。だがそれでも変わらぬものがあると信じたくなるのが人間というものだ。そして永遠を否定された人間は、世界の前に自らの無力さを痛感する。それは人間である以上誰にでも訪れる悲劇であり、シリウスも友人もまた、その例に漏れることはなかった。
一年半ぶりに再会した友人は、心からシリウスの無事の帰国を喜んでくれた。自分と遊び暮らすよりも灼熱の砂漠の太陽を選んだことを揶揄するように詰り、すっかり日焼けしたシリウスの顔を眩しげに見上げた。
その目にどこか羨望に似た感情を見て取ったシリウスは内心で眉をひそめた。彼の知る親友はそんな眼差しをする男ではなかったからだ。
シリウスの疑問を敏感に感じ取ったのか、友人は寂しげに苦笑し、溜め込んでいたのであろう苦悩を吐き出した。彼とリーマスは最早、破綻寸前の関係にあったのだ。
リーマスと友人は、最初の一年はとても上手くいった。上手くいき過ぎたくらいだった。伯爵の死もあって、不当な扱いを受けた二人はより強く結びついたが、激しく燃え上がる感情は消え去るのも早い。シリウスがエジプトへ去り、半年が過ぎた辺りから互いの粗が目立つようになり始めた。相手の欠点が見えない時期など、恋愛の初めのほうだけで、欠点を許し、補い合うことができるほど二人は分かり合う期間を持っていなかった。
だがその程度のことが許容できぬほど二人は子供ではない。理想はあくまで理想であり、現実ではないことを彼らは知っている。本来ならば理想に現実を近づける努力こそが関係を良好に保つのである。
華やかな容姿からも軽やかな性格からも恋愛経験の豊富な友人はその程度でへこたれる人間ではなかった。では何が彼らの関係を損なったかと言えば、それはやはり伯爵の死であった。
父であり兄であり師であり愛人であった偉大なる人物の死は、リーマスの心理に重大な影を落とした。十年も共に生活し、死せるともと誓い合った人物をその死の間際に捨て去ったことを、リーマスはあまりにも深く悔やんでいた。彼の悔恨は余人の計り知ることのできぬほど強く、すべてを死者に向かわせた。
もちろん友人もそれを手をこまねいてただ見ていたわけではない。悲しみにくれるリーマスを励まし、伯爵亡き今は自分が傍にいると元気付けようとした。全愛情を傾け、伯爵の他にも彼を愛する人間がいることをわからせようと努力した。その誠実な求愛にリーマスも答えようとし、二人は理想へと近付くはずであった。
それなのに現実は無常にも二人の関係を引き裂いた。友人は尚も伯爵にばかり心を傾けるリーマスに苛立ち、疲れ、虚無を覚えた。リーマスは口にこそ出さないものの、最期を看取ることのできなかった伯爵を、その深すぎる後悔から神格化し、今でも強く恋い慕っている。思い出は美しく、死者と戦って勝てるはずがない。二人の関係が悪くなれば尚更だ。
仲睦まじかったはずの二人は、感情の齟齬のせいかいつしか些細な喧嘩が絶えなくなり、今では仲直りさえしなくなってしまった。お互いに傷付けあい、己の矮小さに後悔が募るばかり。疲れ切った二人は、最早破綻した関係を見て見ぬ振りをするだけのところまで来ている。
自嘲気味に微笑する友人を、シリウスは深刻な表情で見つめた。彼とは長い付き合いだが、こんな表情をシリウスは初めて見た。『輝ける青春』とまであだ名された、陽気で明朗快活、若さという美で人々を魅了してきた友人が、シリウスの知らない一年半のあいだに多くのことを学び、そして年をとってしまったようだった。もたらされるはずだった幸福は二人を嘲笑うかのように避けて通り過ぎ、残されたのは残酷なまでの現実だけだった。
事情を知りながら全てを投げ出すようにエジプトへ渡航してしまったシリウスは、自らの軽率さを悔やんだ。敵前逃亡などしたところで、何が得られるわけでもないのに。
ならばせめて今からでも役に立とうと、シリウスは数日に渡って友人の元へと通い詰めた。今更なれど、リーマスと友人の仲を修復する道が他に無いか模索するためである。
シリウスは真剣に二人のためを思って話し合ったが、疲弊しきった友人は諦める以外の選択肢を持ってはいなかった。すべての話し合いが最早意味をなさぬことを悟ったシリウスは、せめて友人の抱える荷を軽くしてやるために、リーマスを引き取ることを申し出た。
これ以上二人が一緒にいても傷は深くなるばかりである。何より、敬愛する伯爵に『リーマスを頼む』と託されたのは、シリウスなのだから。
シリウスの申し出に友人は初めて動揺らしきものを見せた。思考停止状態に陥っていた彼は、自分でリーマスを遠ざけることは考えていても、完全に手放すことはその中に無かったらしい。
即答をためらった友人は考える時間が欲しいと申し出た。もとよりそのつもりのシリウスは焦らないよう言い聞かせ、友人の屋敷を辞退した。それでも彼は知っていた。友人が首を縦に振るであろうことを。自らリーマスを田舎の領地にでも追いやるよりは、シリウスが伯爵の遺言を守るために引き取るという体裁を保った方が、二人のあいだに存在する今やささやかとなった愛情を傷付けにくい。それ以外に彼等の不幸を拡大させぬ方法は無いのだから。
シリウスが考えたとおり、友人はリーマスを預けることを承知した。彼はせめてものけじめだとリーマスを自ら説得し、そして一ヵ月後、リーマスはシリウスの元へやってきた。
再び巡ってきた春が、リーマスと友人との別れの合図だった。
馬車を出して自ら迎えに出向いたシリウスに、友人は悲しげな微笑を向けた。彼は今でも自問していることだろう。これで本当に正しかったのか、これが最善の策なのか、と。それでも友人はシリウスに感謝の言葉を述べ、リーマスを呼び寄せた。
リーマスの表情は硬く、何の感情も読み取れなかった。だがそれも当然であろう。わずか二年とは言え住み慣れた屋敷を離れ、恋人の元を去るのだ。敗れ去った恋の残響が木霊する屋敷は、彼に苦痛を与えるばかり。
ぎこちない表情でリーマスと友人は抱擁を交わし、おそらく万感の思いを込めてキスをした。愛情と友情と後悔のない混ざった握手を交わし、そして離れた。シリウスは友人に頷いて見せ、リーマスを馬車へと案内した。友人は何も言わずにその後姿を見送った。
馬車に乗ったリーマスは益々表情を強張らせたが、決して振り返ろうとはしなかった。そうすることで矜持が保てると信じているかのように頑なで、シリウスは彼の胸中を思いやって哀れに思った。それでも口を開こうとしなかったのは、彼の自尊心を傷付けないためであり、またそうして悲哀に耐えるリーマスの姿がことのほか美しかったから……。
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