■□■ 眠れる盛の美人 □■□
「ただいま」
玄関の引き戸を開くなりかけた帰宅の声は、しんと静まり返った廊下に吸い込まれて消えた。不思議なことに返事がない。部活動の野球のユニフォーム姿の武は、小首を傾げながらスパイクを脱ぎにかかった。
玄関に入る前、庭先から覗いた居間は障子が開け放たれていた。夏場の夕涼みのためだろう。廊下も明かりがついているし、誰もいないはずがない。今日、父親は仕事が休みのはずだし、雲雀さんも暑いのを嫌って外出はほとんどしたがらないのだから。
玄関の壁に右手をついて靴を脱ぎ終えた山本の目に、奥の部屋から現れた父親の姿が映った。世界中の誰もが武とそっくりと断言する父親は、楽しげな笑顔を浮かべたまま、くちびるに人差し指を当てている。
「しー!」
という音こそないものの、静かにという意図が明らかなので、武は首を傾げつつも素直に口をつぐんだ。
奥の部屋からやってきた父親は、何故かタオルケットを抱えていた。どうしたのだろうと不思議に思い、武は父親のあとに続いて居間に入った。障子を開け放った居間は風が通り、クーラーがなくとも何とか過ごせる快適な場所だった。風鈴の音が涼を運ぶその部屋で、畳の上に仰向けになった人物がいた。
真っ黒い着物姿で正体なく転寝をするのは、父親の恋人で同居人の雲雀さんだ。死んでいるのか生きているのかも定かではないほど微動だにしない雲雀さんは、お気に入りの座布団を枕に、左手を胸の上に乗せたまま目を閉じていた。
眠る雲雀さんを初めて見た。そう面食らう武の前で、父親はタオルケットを広げ、寝冷えしないように雲雀さんの身体にかけてやった。それから枕元にしゃがみ込み、にこにこと笑いながらその寝顔を眺めている。
どうやら父親は、眠っている雲雀さんも大好きなようだ。
〔おしまい〕
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