■□■ 据え膳喰わぬは猛獣の恥 □■□
雲雀は山本を見ていた。
腰を落ち着けて半年以上が経過し、すっかり馴染んだ山本家の居間で。雲雀は山本を見ていた。
目の前に跪く男。左膝を立て、背を丸める山本は、実年齢よりも若々しい容貌をしている。表情は明るく楽しげで、薄く笑みさえ浮かべ、今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気だ。
うやうやしい手付きで山本が扱うのは、小ぶりの爪切り。彼の目前に広げたられた新聞紙に投げ出されているのは、山本のではなく、雲雀の足。綺麗に切りそろえられた爪に、丁寧にヤスリをかけている最中だった。
雲雀は山本を見る。確かな感触の指先が触れる自分の足と、心底楽しそうな山本の表情。自らの足以上に手間をかけ、愛情を込めて整える爪を、まっすぐ見つめる眼差し。緩んだ表情ながらも、整った容貌のためにだらしなくはない。雲雀を前にすると必ず浮かべる表情の一つで、鋭くもなるであろう瞳には、いつだって溺れるほどの愛情がたたえられている。
楽しげで真剣な山本は、ふいにくちびるをすぼめ、ふっと雲雀の足の指に息を吹きかけた。やすりでついた細かな粉末を吹き飛ばしたのだ。優しげなそれは、二人きりの密室の中で、雲雀の感じる部分に息を吹きかけるのと同じものだった。
「できた!」
子供のように一声上げて、自分の終えた仕事に満足気に微笑を浮かべる山本に、雲雀はじっと視線を注ぐ。視線の絡み合った山本は、密やかにくすぶり始めた雲雀の欲情に感付いたのか、戸惑いの表情をひらめかせた。
「ん?」
気の抜けた問い掛けを無視し、雲雀は身体を起こすと、畳の上に両手をついた。四つ足の獣の姿でゆっくりと近付くと、山本がわずかに上体を仰け反らせる。その程度で逃げられるわけもあるまいに、山本の狼狽が雲雀を楽しませた。
妖艶な猛獣を思わせる仕草でにじりより、雲雀は山本にのしかかった。肩に手をかけて押し倒そうとするが、普段は大喜びで従う山本が、珍しく頭を横に振った。
獲物の癖に生意気な、という意味を込めて片眉を吊り上げると、困惑を通り越して情けない表情の山本のくちびるが、声に出さずにある単語をつむいだ。
こ
ど
も
子供、という日本語を読み取った雲雀は、首を巡らせて部屋の向かいを見た。ちゃぶ台を挟んだ向こうでは、存在さえ気に留めていなかった二人の子供が、雲雀と山本を見つめていた。
一人は食べかけのせんべいを手にしたまま呆然とこちらを見つめる山本の息子。
一人は興味深くかつ侮蔑したようにこちらを眺める雲雀の息子。
山本から『きょん』という小動物めいたあだ名を無理矢理頂戴した雲雀の息子は、興がそがれたようにわざとらしい溜息をつくと、隙を見せない動作で立ち上がった。
「え? あ?」
恭弥が立ち上がったことで放心の呪縛が解けたのか、武はすっとんきょうな声を上げ、雲雀と義兄を交互に見た。それから忠告をくれるわけもないのに手にしたせんべいを見、慌てて立ち上がる。恭弥は一歳年少の義弟のことなど意に介さず、さっさと居間を出て行った。
「オ、オレも!」
とっくに視界から消えた恭弥の残像に向かって叫ぶと、転げそうになりながら武も居間を飛び出していった。
その様子を眺めていた雲雀は、再び首を巡らせて山本に向き直った。これまた呆然としていた山本も、つられて雲雀に向き直る。膝に乗り上げるようにして山本の首を抱いた雲雀は、
「いなくなったよ」
言うなり口の端を上げて艶やかに笑い、今度こそ山本を押し倒した。
〔完〕
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