■□■ とある日本家庭の正しい朝の風景 □■□
「んじゃ、行ってくるから。夕飯はカレー食ってくれな!」
茶の間に顔を出した山本に、朝食の席についていた武と恭弥が揃って彼を見た。一学期の中間テストのこの時期は当然部活動も自粛されるため、珍しく武も朝が遅いのだ。一方で気候のよいこの時期は結婚式のシーズンでもあり、板前の山本は忙しい。今日も朝早くから夜中まで仕事が決まっており、早くから出かけていくところだった。
「あいよ。こっちはだいじょぶだから、いってらっしゃい」
里芋の煮物をみそ汁で嚥下した武が、座ったまま片手を上げる。それに同じように片手で応じると、山本は踵を返した。同居を始めてしばらく経つが、恭弥の反応は相変わらず薄い。クールでどこまでも動じないところが雲雀にそっくりで、それがまた山本には可愛かった。
玄関に腰を下ろし、買ったばかりのスニーカーを下ろしていた山本は、廊下が軋む音で肩越しに振り返った。そこに立っていたのは黒い着流し姿の雲雀だ。寝起きの姿そのままに、乱れた髪を直しもせず、眠い目をこすって立っている。
「何だ、寝てていいのに」
言いながらも、嬉しそうに山本は笑顔を向けた。未明に帰ってきて山本の布団に潜り込んだ雲雀は、普段ならばまだまだ夢の中の時間だ。しかしここのところ忙しくてろくに顔を合わせてもいないせいか、わざわざ起きて見送りに来てくれたらしい。それがわかるから、山本は尚のこと嬉しかった。
「……行くの」
鼻にかかった声で問いかける雲雀に、山本は笑いながら頷いた。
「朝飯は昨日の残りで勘弁な。昼と夜はカレーがあるから」
朝も早くから起きて作ったカレーは、武も雲雀も好物のはずである。そしておそらく恭弥も。
うん、と子供っぽい仕草で頷いた雲雀は、何を思ったのか裸足のままで玄関に下りてきた。リュックを肩にかけて立ち上がっていた山本は、慌てて雲雀の身体を抱きとめる。
「………………」
声をかける間も無く、山本の口は雲雀によって塞がれていた。押し付けられたくちびるは甘く、つい時間を忘れて重ねあった。差し入れられた舌を絡め取り、強く吸い上げて愛情を交わす。零れる吐息は濡れ、卑猥とも呼べる声が漏れた。すり寄せられた身体が熱く、思わず腰を押し付ける。朝にしては濃厚なくちづけだが、若い山本には嬉しいほどだ。
その場に押し倒したい衝動が脳内を占拠する寸前、わずかに残っていた山本の理性が般若の顔の大将の姿となって網膜に閃いた。ましてや壁を一枚隔てた茶の間には、食事中の子供が二人。ここで理性を喪失するわけにはいかない。
未だかつて無い努力の末に、雲雀をやんわり引き離した山本は、無理に笑顔を作って口を開いた。
「……続きは、また今度な」
言いながら声が震えないようにするのは至難の業であったが、どうにか山本はやり遂げた。そして逃げるように踵を返すと、不自然に大きな声で言ってきますと言い残し、玄関から飛び出していった。
敵前逃亡を果たした若い家主をぼんやり見送っていた雲雀は、興味を失ったように廊下へと取って返した。再び鎌首をもたげてきた眠気に欠伸を一つ。そのとき右手から視線を感じ、彼は開いたままの茶の間の戸口に顔を向けた。茶の間では丸いちゃぶ台に着いている二人の子供がいた。雲雀にそっくりの恭弥は冷めた視線を父親に向け、山本にそっくりな武はやはり父親にそっくりの不自然な反応で必死にご飯を口にかっ込んでいる。
わざとらしく視線を合わせた恭弥が言った。
「おかまいなく」
そして食後の緑茶をすする。その隣では、首から耳から顔まで真っ赤になった武が、やはり一心不乱を装ってご飯をかっ込んでいた。
二人の様子を眺めていた雲雀は、くちびるの端を歪めて妖艶な微笑を刻んだ。
「そうするよ」
挑発的な台詞を吐くと、雲雀は優位者の笑みを刻んだまま自室へと消えた。
それが山本家における微笑ましい朝の風景である。
〔おしまい〕
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