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破壊と暴虐を好む雲雀は、自らの足元にかしずく男達にもその残虐さを披露した。彼は暴力の限りを尽くし、嘲笑い、流血を求めたが、雲雀の元を去る人間はいなかった。
それは山本も同じこと。普段は生きた死体のように無表情で、感情を垣間見せることも無い雲雀が、艶笑を閃かせる暴力の瞬間に臨むことを山本は好んだ。
思うままに振舞う雲雀は美しい。身を躍らせ、男達をなぎ倒し、鮮やかな侮蔑の笑みを浮かべた姿は神々しいほどだ。流麗な動きは舞いに似て、飛び散る血は花のようであった。
暴虐に高揚した雲雀は頬を染め、愉快そうに笑った。そして山本を呼び、彼のくちびるを貪った。
受け止めた身体はいつになく熱く、雲雀が確かに生きているのだということを山本に知らしめた。細くはあれど華奢ではない肢体、優美な曲線を描く背中。それらが熱く火照ったまま山本の腕の中にある。
求められるままに、それ以上の情熱を持ってくちづけを交わしながら、山本は細い雲雀の身体を抱き締めた。絡められた舌は蜜に濡れ、いっそこのまま食い千切り、味わい、自らの血肉としてしまいたい。この世に雲雀以上に愛しい存在は無い。彼は山本の全てだ。他にはいらない。何もいらない。彼の興味を、何より彼自身を失うくらいならば、世界など滅んでしまえばいい。
くちづけに耽溺する山本を突如として雲雀が突き放した。その表情はすでに冷徹さを取り戻しており、山本に対する明確な軽蔑を浮かべていた。まるで山本の利己的な願望を見透かしたように。
恥じ入った山本は自ら座を離れたが、再び雲雀の声がかかるのを待つ時間は、拷問に等しい苦役であった。
ある晴れた日に、雲雀は山本を呼んだ。しかし部屋へ現れた山本を寝椅子に寝そべった雲雀は一顧だにしない。ただ窓の外の高い空を見上げ、手慰みに何かをいじっているばかり。
身を苛むほどの雲雀の無関心をどうにかやり過ごし、山本は寝椅子に近付いた。雲雀が手慰みにいじくるのは、陽光を反射するかみそりであった。青白い金属はすでに血に濡れている。そして雲雀の繊細な指先には幾つもの傷が血の跡を引いていた。
沈黙を保ったまま山本は雲雀の脇に腰を下ろした。彼は手を伸ばし、痛々しい傷の浮いた手をとらえ、そっとかみそりを取り上げた。指先には未だ乾かぬ血が筋を作っている。赤く黒い液体は、生命の水。それは血とは思えぬ芳香で山本を誘惑した。
硬く締まった手首を掴み、山本は血に濡れた雲雀の指先を口元へと運んだ。雲雀は抵抗せず、無感動な瞳を山本に向けている。そして自分の指先が彼のくちびるに包まれても、眉一つ動かさなかった。
口に含んだ雲雀の指先は、信じがたいほどに甘かった。それは指先から零れる血の甘さだ。傷口から溢れる血液は、いかなる果物の果汁よりも甘く、地上にあるどんな美酒よりも芳醇であった。
雲雀の血は山本を酩酊させた。目眩を引き起こすほどの美味なる蜜。いつしか山本は夢中になって雲雀の指を吸い、その血を舌の上で転がしては馥郁たる香りを楽しんだ。これこそが雲雀を形成する基礎たる液体。生命そのものだ。
乳飲み子が母乳を欲するように、我を忘れて貪る山本に、雲雀は優しげに呼びかけた。その声は涙を誘うほどに慈しみに満ちて、愛情さえも錯覚させた。
慈悲深い声に誘われるまま顔を上げた山本は、目前に妖艶な微笑を見た。雲雀はそっと山本の手から自分の傷ついた手を引き抜き、見せ付けるように口に含んだ。傷ついた指先を舐めしゃぶり、揶揄するように吸い上げて。
自らの指をしゃぶる雲雀の姿は淫らであり、山本の雄を刺激したが、彼の全意識は雲雀の痴態を見ることに注がれていた。雲雀はしゃぶっていた指を引き抜き、くちびるに宛がった。指先から滲む血はくちびるを汚し、鮮やかに彩った。いつしか雲雀のくちびるは微笑を浮かべ、ゆるやかに首を傾げて山本を見つめていた。
魅入られたまま、山本は雲雀の頬に両手を添えた。すべらかな頬は温かく、山本の掌になじむ。赤く染まったくちびるは微笑を浮かべ、薄く開いて男を誘っていた。
くちびるが重なった瞬間、山本の意識は消失していた。雲雀のくちびるは甘く、紅のように彩った血が更なる甘美さを加えている。それはさながら鮮やかな毒のようで、自らの命を差し出そうとも、山本はくちづけを選んだことだろう。
貪りあう舌は熱く柔らかく、甘噛みや吸い上げられるたびに魂の根底を揺るがすほどの快楽を与えた。零れ落ちる唾液の一粒一粒が高貴な蜜であることを、山本は忘れたりはしなかった。摩り合わせるくちびるを食み、お互いの身体をつかみ合うようにして抱き合ったまま、山本は官能の海に沈み、二度と戻らぬことを切に願った。
どれほどの情熱をもって愛を交わそうとも、現実は常に無情だ。雲雀は山本よりよほど理性的で、冷酷である。それを証明するかのように雲雀は無情にも山本を現実に立ち返らせる。凶暴なまでの情動に身を焦がされ、行き場の無い情熱に苦しもうとも、雲雀は山本を振り返らない。傲慢で冷酷な支配者。それが雲雀であり、彼の美しい姿であるのだから。
いかなる仕打ちを受けようとも、山本の愛情は燃え盛るばかりであった。それがどれだけ身勝手な願いか充分に理解していながらも、彼は雲雀が自己だけのものになることを心から願った。虫けら程度にしか思われていないことを知りながらも、雲雀にかしずく男達を残らず消し去りたい衝動に駆られた。
山本は知っていた。自分といないときの雲雀が、他の男と過ごしているであろうことを。山本は認めたくなかった。自分もまた、雲雀の気まぐれを慰める数多の男達の一人でしかないことを。
いかなる愛情を持って接しようとも、幾度くちづけを交わし、甘露たる蜜を与えられようとも、それが決して特別ではないなどと、認めることができようものか。ましてや彼の愛情は、すでに引き返せぬ深遠にたどりついていたのだから。
憔悴と焦燥と、劣情と愛情と。それらが渦を巻いて最早何と呼べばいいのかわからぬほどの激情に心身を支配されながらも、山本は雲雀への思慕を諦めようとはしなかった。
あるいはいつか、雲雀が情を示してくれるのではと、無益な期待を抱いていたのかもしれない。あるいはいつか、雲雀が他の男達に飽きて、山本だけを選んでくれるのではと、無益な願いを抱いていたのかもしれない。だがどれも叶えられる可能性は極限に低く、故に山本は自己の愚かしさを自嘲しながらも、ただただ無心に雲雀を求めることしかできなかった。
それはとても晴れた日のこと。いつものように雲雀の要求に応え、彼のもとへとやってきた山本は、寝椅子に凭れた雲雀の隣へと腰を落とした。
どこか遠くを見つめる眼差しのまま、雲雀は微動だにしない。生きた死体、温かな人形。どちらにせよ非人間的なまでの様子は彼の美しさに拍車をかけ、山本は欲情を覚えた。
細い頤に手を添えて、山本は雲雀の秀麗な顔を自らに向けさせた。深海の闇を思わせる黒い瞳に、自分の姿が映りこんでいる。それでも雲雀の視線は山本を越えて、はるか遠くを見透かしているようだった。
これほど近くにいても自分が彼の意識をとらえることは無い。自らの不甲斐無さに歯噛みする思いで山本は目を閉じた。細い肩を抱き寄せ、くちびるを重ねる。柔らかなくちびるはいつの間にかかつての情熱を失い、ただ促されるままに山本の舌を受け入れた。
薄い舌を吸い上げ、美酒にも勝る甘露を味わい、山本は滴るような愛情を雲雀の口腔に注ぎこんだ。雲雀は目を閉じて山本の愛情を嚥下するが、反応を示すことは無かった。それは最早彼の興味が薄れていることを示し、山本は怖れにも似た焦燥が再び体内で渦巻くのを感じた。
山本は雲雀の痩躯を掻き抱く。細い首を掌で支え、息を継ぐ間も惜しんでくちづけを交わした。掌に感じる脈動。白く透けるような皮膚の下を流れる生命の本流。この細い首に歯を立てて、皮膚を食い破り、その脈動を手にしたい。流れる甘露を飲み干して、雲雀の全てを自らのものにしたい。血と肉を味わい、愛しみ、雲雀を彼だけのものに。
その欲望は凶暴なまでの力で山本を誘惑した。だが、彼はそれ以上に雲雀を失うことを怖れた。雲雀を手に入れることと雲雀の喪失。それは不可避の連鎖であり、喪失は山本を殺すだろう。自らが死ぬことは怖くない。雲雀のいない世界に取り残されることのほうが何よりも恐ろしい。
脳裏に浮かんだ恐怖を打ち消そうと、より一層山本は雲雀を求め、くちづけを交わした。夢中で貪るあまり、歯があたり、くちびるが切れた。けれど舌に滲んだ血液は生命の水ではなく、ただの鉄錆に似た苦いものだった。
くちびるに感じる痛覚に、山本はようやくくちづけを終えた。自分の血がなすりつけられた雲雀のくちびるは、いつかと同じ艶やかさであったが、あの日に味わった神の園の雫ではない。山本の血に濡れたくちびるを舌で舐め取る雲雀の仕草は、崇高な美でありながらも、頽廃を含んで毒々しいほどだった。
尚も自分を見ようともしない雲雀の様子に、山本は彼の気まぐれの終わりを感じ取った。それは山本を狼狽させるのに充分で、彼はどうにかして自分の抱く無私の愛情を理解してもらおうと躍起になった。
しかしそれは雲雀の興味をより一層失わせる結果しか生まない。雲雀は寝椅子に凭れ、軽蔑と同義の無関心を持って山本を拒絶した。美しい彼に、それはあまりにも似合いの姿であった。
最早雲雀の関心が還らぬものと悟りながらも、山本は諦めきることができなかった。理不尽な怒りと、失望と、落胆と、何が彼を突き動かしたのかわからない。山本は再び雲雀の身体を抱き寄せ、くちびるを寄せた。
暴力を行使してでも排除されることを覚悟していた山本は、何ら拒絶されることなくくちびるが重なったことに内心で驚いた。それこそが雲雀の気まぐれであったろう。彼は山本のくちびるについた血を舐め取り、弱者への慈悲を思わせる仕草で彼の背を抱いた。
山本は夢中になって雲雀のくちびるを貪った。最早反応の薄い、情熱を欠いたくちづけであったが、山本は諦めようとはしなかった。雲雀の中で山本がすでに風化した存在であったとしても、彼の愛情は衰えてはいない。雲雀を希求する願望は尚のことを深まり、離れてゆく今だからこそ燃え上がり、そして荒れ狂った。
幾度も幾度もくちづけを交わしながら、山本はどうすれば雲雀を手に入れることができるのか必死になって頭を巡らせた。他の男にやることはできない。何があっても彼が欲しい。
気の狂うような焦燥は涙となって山本の目を濡らした。その雫に気づいた雲雀はくちびるを離し、不可解なものを見る目つきで山本を見た。それはこの日初めて雲雀が山本を見た瞬間だった。
雲雀は背を伸ばし、山本の頬に流れた涙を舐め取った。雲雀の熱い舌が頬を拭うあいだも、山本は目を閉じなかった。目の前の輝くような肌が、近い未来に永遠に手の届かぬ場所へ行ってしまうことを知っていたからだ。愛しい彼の全てを記憶するためにも、山本は目を閉じなかった。
ふと山本の目が雲雀の喉もとに翳りを見つけた。首筋に浮いた影だろうか。だがそれは雲雀が身体を離しても消えなかった。
ある種の予感に突き動かされて、山本は雲雀の首に手をかけた。首を傾けさせ、影を払拭し、尚も消えない翳りに目を凝らす。
雲雀の首筋に浮いたのは、まるでくちづけでできたような赤い跡。何より淫らに咲き誇る、肌の上の徒花。いつか遠い日、山本も同じように彼の首筋につけた、愛情の痕跡。けれどそれは、山本が残したものではなく。
理解は激情を呼び、一瞬にして山本は自分が怒りに囚われるのを感じた。それまで行き場を失っていた愛情のすべてが、怒りへと塗り替えられ、ただ雲雀に向けられたのだ。
そして山本は、赤く染まる視界の隅に、いつか雲雀に差し出した自分の刀を認めた。
山本は生まれて初めて、理性が断ち切られる瞬間を見た。
〔終幕〕
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