其ノ十 僕が知らない2年分のあなた

 肩書きの上ではブラックホールOBとなったアフロディーテやミロであったが、その後暫くアジトに通う日々が続いた。表面上の引き継ぎは済ませたものの、経験の浅い新幹部だけではまだ心もとなかったし、きっぱりと引退してしまうには、ここ最近の東京は物騒すぎた。
 とはいっても学院を卒業して四月にもなれば、それぞれに新しい生活が待っている。その頃までには事態が収まってくれるようにと、アフロディーテは祈らずにはいられなかった。

「これが、各チーム名簿と組織表。こっちの地図と照らし合わせて……これ、ちょっと古くないか。このチームの所在地名載ってないぞ?」
 ミロは地図帳をパラパラと捲ったあと、新しい地図を揃えるようにと後輩に指図している。
「姫、上から何か聞いてはいないか?」
 アフロディーテは長机の端に座る、瞬の横に腰かけながら、買ってきた缶コーヒーをメンバー達に配った。
「内部抗争のこと? 僕達には関係ない事じゃない?」
「おいおいおい! 呑気だなあ相変わらず。因果関係というのはこういうやな時に限って、はっきりと浮き彫りになってくるもんなんだぜ?」
 横で聞き耳を立てていたミロが口を挟んだ。
「ハナダ組がチームを口説いているという話は、事実なのだろうか?」
 アフロディーテの言葉を聞いて、瞬は合同集会で見た、トウドウの車を思い出した。
「そういえば、トウドウさんの乗ってた車、紅龍会のとは違った代紋飾ってたなぁ。もしかしてトウドウさん、ハナダ組サイドなのかも。」
「なに?! お前そんな大事なことを……。」
 ミロは額に手をあてながら溜め息をつく。
「だって、事実を確認したわけじゃなかったし……。」
 そんな大事なこと、言うんじゃなかったと瞬は思った。予想した通りの反応を返すミロに、瞬は困ったように弁解した。
 今となっては、ミロやアフロディーテに極力面倒を掛けたくないというのが瞬の考えだった。この先何かが起きた時、彼らを頼れるとは限らない。無論、晴れて卒業してゆく彼らに、余計な心配事を背負わせたくないという気持ちもある。
「もしこの事に関して何か言われても、僕は関与するつもりなんて全くないから。」
 だから安心して、と瞬はミロをなだめるように言った。

 もしもトウドウたちに、下部組織として人員を求められたら瞬は断るつもりでいた。都内で戦力を求めるならば、まずは兄のチームに目をつけるはずだ。だが、狂乱怒濤は完全に自分らの支配下にあるし、なによりも、あの兄が面倒に巻き込まれるのを嫌うだろう。
 あとは……瞬は考えた。諜報部の目と耳だ。
「全てのチームの動きを把握するようにと諜報部に伝えて。各チームのヘッドに、変化があったら些細な事でも必ず僕を通すようにとも。」
「え、ハッ、ハイ!」
 幹部に配属されてからまだ日の浅い少年たちは、瞬の言葉が自分たちに向けられたものだと気付いて、慌てたように口々に返事をした。
「我々が安心して引退できるのは、いつの日になるだろう……。」
 こんなご時世に幹部を引継ぐ彼らに、少しばかり同情しながらも、アフロディーテは不安そうに呟く。
 瞬は、トウドウがあの日、自分に告げた事をアフロディーテに相談しようかどうか、少し考えたが、彼の様子を横目で伺ってやめた。シュラにはああ言ったものの、こんな状態では兄に秘密を打ち明けるまで、まだ時間がかかりそうだ。
瞬は小さく溜め息を吐いた。

     ★

 グラード学院では、新学期が始まっていた。
 アフロディーテやミロの危惧の念に反して、大した揉め事も起きず、残り僅かな学院生活の日常は淡々と過ぎていった。
 ブラックホールの幹部になる為には、それなりに器量というものを求められる。
「あれでも、優秀な人材だからな……。」
 経験こそ浅いものの、それもすぐに補われるだろう。
「取り越し苦労で終わるなら、それに越した事はないのだがな。」
 アフロディーテはかつての自分を思い出しながら、少々心配しすぎたか、と口許を緩ませた。

 移動教室での授業の後、瞬は星矢と共に、一年二組の教室のある男子校舎へと続く、渡り廊下を歩いていた。
「最近貴鬼に会ったか?」
 星矢は掴んだ縦笛を、ぶらぶらと振り回しながら言った。もう片方の手には、むき出しでシャープペンシルが一本握られていた。星矢が隣の席の生徒に、よく消しゴムを借りていたのを思い出しながら瞬は「ううん」とそ知らぬ顔で頭を振った。
「あいつのチーム……なんだっけ一輝の。来年度の入隊希望者、結構いるんだってな。」
「ふうん。怪我するだけなのにね。」
 瞬のそれらしい言葉に、星矢は声を出して笑う。
「お前みたいなのの、兄貴があんなんだもん、世の中分っかんね~よな!」
 星矢が目を丸くしてそう言ったとき、渡り廊下の端で見たことのある女生徒が固まって、話し込んでいるのに瞬は気付いた。

「第ニボタン、貰うんでしょ?」
当然よね! と、またもや口々に黄色い声で囃し立てている。
「第ニボタン……。」
「え?」
 瞬の唐突な呟きに、星矢は眉をきりりと上げて立ち止まった。
「そうか……兄さんも中等部、卒業だった……。」
 立ち止まった星矢など気にとめない様子で、瞬はぶつぶつと呟きながら歩いてゆく。
 グラード学院では、高等部に上がると濃紺のブレザーを新調する事になっている。兄と同じ学ランを着て登校するのも、残り僅かなのである。
「で、なんで第ニ……。え、さっきの女子が、一輝のを? まっさかぁ~! んな訳ないだろ!」
 今度は大声で笑いながら、星矢は瞬を追い掛けると、背中を縦笛で突ついた。
「な、なんだよ……兄さん意外と人気あるんだから!」
 瞬は背中を押さえて星矢を睨んだが、その後教室に戻るまで星矢は、逃げる瞬の背中を小突き続けた。

     ★

 卒業式を前日に控えた今日、カリキュラムは午前中の大掃除だけだった。例によって在校生代表の送辞を述べる事になった瞬は、その準備もさっさと済ませて、一人校門前に立っていた。
 明日、アフロディーテら高等部三年生は勿論の事、中等部三年生も卒業証書授与程度の、軽い式典が行われる予定である。
 兄が無事に中等部を卒業出来たのは、奇跡に近いのかもしれないと瞬は思った。遅刻か早退があと一回多かったら、試験の結果もギリギリだった事だし、情状酌量の余地が無かった、とは式典準備の際に兄の担任が漏らしていた言葉だ。
「僕は兄さんの保護者じゃないのに……。」
 瞬の主張は入学当時から百八十度度裏返っていたが、兄にいいお嫁さんといい家庭など、築いてほしくなくなったのだから仕方ない。
「全うにココを卒業して欲しいのだけは変わりないんだけどなあ……。」
 そう呟きながら瞬は、遠方からやってくる兄の姿を見付けた。
「よお、今帰りか?」
 最愛にして唯一無二である弟の心労もどこ吹く風、当の本人は清々しい表情で、薄っぺらい鞄を片手に掴んだまま、瞬の肩に腕をのせた。
「兄さん、重い……。」
 瞬は自分の肩にのしかかってきた太い腕を、身を屈めながら外すと、乱れた髪を直しながら、ほっと隠れて息を吐いた。
「どうしてこんな所に突っ立てるんだ、誰か待っているのか?」
「兄さんを待ってたんだ。ほら、こうして同じ制服を着て学校に通うのも、明日でお終いだから。」
そう言っているうちにも、瞬は自分の言葉に寂しくなって、つま先を見おろした。
「……といっても、お互い教室の階が一つ上がるだけだろう。」
 何が変わるというのだ、そう呟く一輝を見て、自分の抱いている感傷など、もともと鈍感な兄には理解の範囲を越えているのだろうと、瞬は呆れながらも少々腹立だしくなった。
「……兄さん、第ニボタン誰かにあげるの?」
「なに?」
 一輝はまたよく分からない事を言い出した弟を、恐る恐る振り返ると、案の定、瞬は拗ねたように自分を睨んでいた。
「憧れの先輩が卒業する時に、第ニボタン貰ったりするじゃない。兄さんのだって、欲しいって人、いると思うけど……。」
 瞬は尖らせた口先だけで喋った。
 今日は何について拗ねているのだろうと、一輝は瞬を見つめた。
 そういえば、文化祭の時も弟は何かに拗ねていた。一輝は当時を思い出そうとした。
 好きな人……そうだ。好きな人がいるかと尋ねられたのだった。
 そして、自分に気になる相手がいると悟って、弟は少し寂しそうだったのだ。あの時もこんな顔をしていた、と一輝は思い出した。弟のそんな表情は、可愛い、といえば可愛かった。
「こんなボタン欲しいなんて奴、いるか。」
 一輝はシャツの上に無造作に羽織っただけの学ランのボタンに、そう吐き捨てた。
「……ふうん。そうかな……。」
 瞬は更に、目を細めた。
 チラリとその顔を覗き見た一輝は、可愛い、というより恐いと思った。

     ★

「こういうの、なんてのかな。流石にこっ恥ずかしいとは思わないか?」
 式典の後、昇降口から校門まで、生徒がずらりと二列に連なって作った花道を通りながら、ミロが言うとアフロディーテの、その整った横顔が口を開いた。
「ミロ、この場に乗じて私も言わせてもらうが、この六年間は本当に……」
「わあ、だからそういうのヤメロ!」
 卒業証書を片手にじゃれ合う二人の長髪美男子は、いやでも目についた。下級生達は、グラード学院内でも特に下級生や女生徒に人気のあった彼らの、ゆるくカールしたプラチナブロンドが、風で静かに透けてゆくのを、惜しむかのように眺めていた。

「先輩、ボタン下さい!」
 少女は挑むように気迫を発散しつつ、キッと目の前の人物を凝視していた。見つめられた少年は思わず後ずさった。
 場面は転じて男子校舎三階、卒業生の門出で人気のなくなった廊下に一人腐っていたのは、目立つという点ではこちらも引けを取っていない、一輝である。
「あの、ずっと好きだったんです……私、一輝先輩の事……。」
―――手先の器用な人。
 一輝はその女生徒の顔を思い出した。文化祭準備の際、素晴らしく美しい花弁を造っていた女子である。
 手先の器用な人は一輝が一歩下がると、にじり……と一歩半近寄った。
 一輝が遥か遠方の廊下の曲り角に目をやると、そこには二人の女子たちが、こちらの様子を伺っている。恐らくは手先の器用な人の友達だろう。ここで彼女にひどい振るまいでもしたら、後々あらぬ噂をたてられるに違い無い。
 一輝は世の女性なるものを一括して"面倒な人種"だと認識していた。同時に、目を細めて睨んだ弟の顔が脳裏を掠めて、一輝は無言でごくり、と咽を鳴らした。
 暫く考えた後、第一ボタンを留める糸を片手で引き千切った一輝は、ボタンを少女に渡した。
「すまんが、これで勘弁してくれ。」
 他に言いようがあったであろうが、一輝なりに優しい言葉を選んだつもりだった。
 少女はボタンを受け取ると、ぺこりと頭を下げて走り去った。

「あれ、ボタンがない。」
 式典後、帰宅した兄の学ランの胸元から、第一、第ニボタンが無くなっているのを、瞬は目敏く見つけた。
 ほらやっぱり、というように一輝を見上げて、そしてそっと溜め息を吐く。
「ほれ。」
 一輝が片手を突き出してきたので、瞬もつられて手を差し出した。両手で受けたものは、学院の校章が刻まれた、古びたボタンだった。
 まだ比較的綺麗な自分のボタンより二年分多く、細かく傷がついていて、それは瞬の手の平で鈍く光っていた。
「お前にやるよ。」
 見ると、兄は照れたように、明後日の方角を見ている。
 瞬は暫くボタンを眺めてから、もう一度一輝の学ランの前端、ボタンのとれた跡を眺めた。乱暴に引きちぎったのだろう、解けた糸がまだ残っている。
「……どっち?」
 瞬は疑わしそうに、一輝を見上げた。
「第ニボタンだろう、お前が昨日言ってたのは。」
「……本当?」
 さらに目を細めた弟に、一輝は、事前に第ニボタンを取っておいた、自分の周到さを呪った。
「うるさい奴だな。大体、どっちでも同じだろう! なんなら残りのボタンも全てくれてやる。」
 他のボタンまでをも取ろうとする、一輝の腕に掴み掛かりながら、瞬は強く抗議した。
「ひどい! 第ニボタンじゃないと、意味がないんです!」
 こうなったら自棄だと言わんばかりに、一輝は瞬の手を振り払い、ボタンを毟り取ろうとしている。そんな兄に本格的に応戦しようと、貰ったボタンを制服のポケットに丁寧に仕舞いながら、
 瞬は、込み上げる嬉しさを我慢できずに、小さく笑った。



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