其ノ三 由比ケ浜ヲ忘レルナ!

「猫だ、可愛い!」
 かつて暴走族が全盛期だった頃は、ここ、江ノ島のヨットハーバーには沢山のチームが集まり、曲芸やレースを楽しんでいたという。
 だが暴走族が、純粋な走りの楽しみを忘れ、犯罪集団に変貌しつつある今日、この場所への一般車両の侵入ゲートは、夜間閉鎖される事になっていた。
「おい!チカ、こっちに隠れろ!」
 三毛猫を抱いていた少女の腕を引っ張り、防波堤の先端にある灯台の影に隠れたのは、シンという少年だった。
「何、誰かいるの?」
 少女はシンの手を振り切ると、灯台の影からひょこっと顔を覗かせた。
「ここにはもう誰も来ないって言ってたじゃん。」
 視線の向こうには、少年が数人円を描くように座り込んでいた。
「やべえな、あれは湘南サーキット連盟のヘッド達だ。」

 暴走族のメッカ湘南には、夏になると東京からも沢山の暴走族が流れ込んで来る。過去、幾度となく東京と抗争を繰り広げて来た湘南のチームは「湘南死守」の合い言葉と共に "湘南サーキット連盟" を結成したのだった。

「今日は月に一度の幹部会か……。」
 まずい場所に居合わせてしまった、と唇を噛んだシンは、以前東京のチームに籍を置いていた。

「お前はこのままここに隠れていろ。」
 シンは、少女の腕を引っ張って灯台の影に身を潜めた。
――まてよ……?
 しばらく彼らを見つめていたシンに、ある考えが浮かんだ。少年は集団の方へと耳を傍だてた。

「何か変わった動きはあったか?」
 湘南一の勢力を誇る "ルート16スター" のヘッド、サガは言った。
「ああ、東京の連中も最近は大分礼儀正しくなってきたようだ。今年に入って代替わりしたという、ブラックホールのヘッドとも顔合わせをしたが、話の分かりそうなやつだった。」
「この辺りも随分走り難くなったからな。下手にゴロをまいて大事になっても、互いに何の得にもならん。」

 とは言っても、頭同士の話し合いを無視した小競り合いは後を絶たない。些細なことでいがみ合い、ぶつかり合う事もしばしばだった。

「ブラックホールの言う事なんて、信用出来ませんよ。」
 不意に集団の前に姿を現したのは、灯台の陰から現れたシンであった。
「見た事のある面だな。お前は確か……、」
「おっと、俺は今、ヨコハマの人間ですよ、サガさん。」
 サガの険しい視線に、シンは焦りを隠しながらもそう畳み掛けた。
「今年横浜で "パンサー" ってチームを建てた、シンってやつです。」
 隣にいた男が、サガに耳打ちした。
「……そうか。お前は確か、狂乱怒濤を追放されたのだったな。」

 新宿歌舞伎町を拠点としている狂乱怒濤は、この春にヘッド交替が行われた。
 交替の際に、一輝にその座を奪われたヘッド候補――シンこそが、その少年だったのだ。

「それで横浜に移ってきたというわけか。」
「ええ。で、自分にもまだ、東京のやつらと多少繋がりがあるんですが……、」
「ブラックホールに何か動きがあると、そう言いたいのか?」
 サガの問いに、シンは、にやりと口許を歪ませた。

     ★

 深夜、携帯の着信音で一輝は目を覚ました。
『……一輝か? オレだ、シュラだよ!』
「何だ、こんな夜中に。」
 一輝は眠い目を擦りながら、迷惑そうに言った。
『あ、寝てたか、わりいな!』
 シュラの声の背後からは、騒々しい音楽と、一定のリズムを刻む重低音が聞こえる。恐らくどこかのクラブで飲んでいるのだろう。BGMに負けじとがなるシュラの声が、寝起きの一輝の耳に、より一層の不快感を与えた。

「……何の用だ。」
『今月の第三土曜だけどさ、俺たち湘南まで走るんだよ。』
「湘南?」
『おお、もうすぐ夏だぜ? 一輝、夏の青春は湘南だろう!』
 上機嫌なシュラの様子に、一輝は額に手をあてて溜め息を吐いた。
『せっかくだから、お前らも行こうぜ! 乗っけてやるからよ。』
 そこまで聞いた所で、激しいBGMが不意に途切れた。どうやら店の外に出たらしい。
『いろんな走り専門のチームが集まるんだ、お前も将来のために顔出しておけよ。』

 忘れられがちだが、こう見えても一輝は中学生である。もちろん無免許運転は、ブラックホールから固く禁じられていた。
『その日は湘南連中の走りも休みだしな。仮に顔を合わせたとしても、今は休戦状態だ。揉めごとは起きないさ。』
 
 電話を切った一輝に、瞬は尋ねた。
「兄さん、いつ湘南に行くんだって?」
「すまん、起こしたか。」
 一輝は電話を枕元に置ながら、隣の布団に横たわる瞬の方へ身体を向けた。
「再来週の土曜だ。帰るのは翌朝になりそうだな。」
 ふぅん、と瞬は少し口を尖らせた。
「兄さんいつも土曜日、いないんだもん。つまらないよ。」

 一輝が狂乱に入ってからというもの、毎週土曜の晩は集会があり、家には全く帰っていなかった。
 折角の週末の晩、ひとりで作った晩御飯をひとりで食べる弟の姿を想像し、一輝の胸が僅かに痛む。彼らは幼い頃に両親を亡くし、たった二人で手をとりあって生きて来たのだ。

「ならば代わりに日曜日に、どこかへ出掛けるか。」
 一輝の提案に、瞬は瞳を輝かせる。
「本当?!」
「ああ、どこでも、お前の好きな場所へ付き合ってやる。」
 突然舞い込んできた兄からの誘いに、瞬は嬉しそうに天井を見上げていたが、その顔が、ふと曇った。
「…兄さん、事故とか気を付けてね。」
 瞬はぽつりと言った。
「ん、ああ。」
 不安そうな囁きに、一輝は眠りの世界に入りながら、低く頷いた。
                  
     ★

 窓の外は、晴天だった。
――明日は雨だっていうのに……、ああ、もう梅雨の時期だもんね、やだなあ。
 瞬の席は窓際の一番後ろだった。本当はもっと前だったが、視力の弱い生徒がいたから席を交換してもらった。瞬は頬杖をついて窓の外を眺めていた。

――あ、雀。

 最後の試験科目は数学である。既に三回見直しをしたが、三回とも同
じ解答を得ている。
 グラウンドのフェンスにとまる、雀の数をかぞえ始めた頃、終業の鐘が鳴った。

「試験も終わったしさ、今日はバーガー屋でも寄ってこうぜ。」

 退屈なテスト週間は、今日の試験をもって終了した。
 普段より少し余分に勉強しただけで、試験対策といえる程の事は何一つ行っていなかった星矢だったが、試験期間中の張り詰めた空気から解放された喜びからか、ニコニコしながら瞬に言った。
「うん、そうだね! お腹空いたしね。」
 鞄に教科書類を詰め込みながら瞬も笑顔で言った。

 二人が立ち寄った駅前のファーストフード店は、近辺の様々な学校の生徒達に利用されていた。
「あ、そうそう。お前、何部に入ったんだよ。」
 仮入部期間中に、とうとう水泳部の部室を訪れることのなかった瞬に、星矢は尋ねた。
「僕は結局どこにも入らなかったんだ。」
 瞬はベーコンエッグバーガーをかじりながら答えた。忙しいしね、と付け加えたのは、本音である。
 ふぅん…と相づちを打ってから、星矢はコーラを口にした。

「何話してるんだ? おいらも交ぜてくれよ!」
 突然二人の席に現れた小柄な少年は、隣の中学に通う貴鬼だった。
「おっ! 貴鬼じゃんか。」
 星矢はコーラをテーブルに置くと、学生鞄と上着を手に取り隣の椅子を空けた。
「あっ瞬、この間はありがとう!」
 貴鬼は星矢や瞬と同じ一年生だ。瞬とは顔見知り程度だったが、「狂乱怒濤に入隊したいから一輝との間を取持ってくれ」と、以前頼み込まれた事がある。

「今度湘南に行くんだって?」
 瞬は昨晩、兄にかかって来た電話を思い出して言った。
「そうなんだ! さすが瞬、よく知ってるな。」
 貴鬼はやんちゃそうな瞳を輝かせている。初めてのツーリングに少々興奮気味のようだ。

「その事なんだけど、星矢。」
 貴鬼はトレイの上のハンバーガーを口にする様子もなく、星矢に向かって言った。
「魔鈴さんから聞いておいてくれたか?」
「あぁ、検問の場所だろ?」
 鞄から地図を取り出す星矢に、瞬は驚いて尋ねた。
「魔鈴さんって、星矢の従姉妹で婦人警官の? そんな話、横流しして平気なの?」
「魔鈴さんはダメだよ、カタブツだもん。でもその友達の、シャイナさんって人が話分かる人でさ!」
 星矢は地図上の赤い印を指差しながら、貴鬼に場所を伝え始めた。

     ★

 ゴールデンカプリコーン率いる、東京の走り屋連中が、湘南に殴り込むらしい。
 その話は、湘南中に瞬く間に広がった。

「そのシンって奴の話、信用できるんっすか?」

 "ルート16スター" 幹部の一人がサガに尋ねた。
「あぁ、先週東京のチームのメンバーを、一人拉致して吐かせた。今週の土曜、鎌倉からのルートだ。」

 湘南サーキット連盟の走りは、毎月第二、第四土曜日と決まっている。今週は第三土曜、つまり彼らの走りが休みの週だ。
 はたして喧嘩をするために来るのだろうか? と口々に疑問の声が上がる中、サガは言った。

「そいつは抗争目的ではない、と言い張ったがな。だが狂乱怒濤も引き連れて来るというからには、信用出来ん。」
「……狂乱か。そいつはキナ臭えな。」
 都内きっての武闘派集団。その名が何を意味しているのかは、誰もが理解していた。
「ブラックホールは寝返ったようだ。もはや抗争は避けられんな。」

     ★

 第3土曜日、午後6時。
 瞬は一人、自宅で夕食の準備をしていた。

「兄さん、ドライブにあの変な服着てく事ないのに。」

 変な服、とは勿論「狂乱」の金文字が背中に光る紫の特攻服の事である。だが、すぐに瞬の口許は緩い曲線を形づくった。

――明日は、兄さんとデートだもんね! 

 野菜を切る包丁の音も軽く、瞬は明日のデートコースに思いを馳せていた。

 その時、背後からニュース番組のオープニングテーマが流れた。
『……三年に一度の周期でめぐってくる暴走族グループの再編成期が今年という事もあり、警視庁は暴走族の解体に乗り出す模様です。中でも神奈川県に出来た、湘南サーキット連盟といわれるグループは、東京の暴走族グループとの衝突の可能性もあるとして、同県警は……』

 ニュースを聞いていた瞬は表情を固くした。乱暴に鞄から携帯を取り出すと、素早くリダイヤルする。
「あ、星矢? この前、貴鬼に言ってた検問の事だけど……」
『瞬! 今電話しようと思ってたんだ。これオフレコなんだけどさ、さっき警察にタレ込みがあったらしいんだ。湘南で、東京と地元のチームたちが抗争するって……まさか、一輝達じゃないよな?!』
「――大変だ!」
 瞬は電話を握りしめたまま、叫んでいた。

     ★

「ひょー、潮風が気持ちいいっすね、シュラさん!」

 湘南ツアーに繰り出した一行は、S字にカーブしながら爆音を轟かせていた。ツーリングに参加した者は、ゴールデンカプリコーンを中心とする走りチーム総勢約五十人。台数にして約四十台と、狂乱怒濤のメンバーが三十人ほどだった。

「江ノ島の灯台が見えてきたぜ!」

 シュラは後部座席の一輝に声を掛けながら、アクセルを踏む足に力を込めた。メーターはすでに百キロを越えている。改造ホーンとエンジンを吹かす音。それまでしんと静まり返っていた海岸沿いの国道も、瞬く間に彼らの放つ、無数のヘッドライトと爆音で覆い尽くされていった。

     ★

 それは、目の前のカーブを曲がった時に忽然と姿を現した。
「……! 何だ、あれは?!」
 前方の道路一杯に広がった、おびただしい数の四輪と単車が、行く手を遮っている。ゴールデンカプリコーンら一行は、仕方なしにその場で車を止めた。

「あれは湘南のやつらじゃないか?!」

 貴鬼が同乗していた、ゴールデンのメンバーである男は、ハンドルから身を乗り出して、前方の集団を睨み付けながら言った。
 無気味な沈黙が、両者の間に広がる僅か数十メートルの、冷たいアスファルトを包んでいた。

「一体どういう事だ? ちょっと話つけてくるわ。」
 シュラが車から降りようとした時だった。コツン、と何かが路面に当たった。それは道の端の茂みから飛来したものらしい。

「……石?」

 次の瞬間、バラバラと沢山の石つぶてが、目の前にはばかる、サガ達の車めがけて投じられていた。
 石は彼らのシャコタンのボンネットをへこませ、窓ガラスに亀裂を入れる。それを皮切りに、サーキット連盟たちの群集が、一斉にこちらに向かって押寄せてきた。

「おおおいっ、誰だよ! ちゃちゃ入れてんのは!」
 シュラは頭を抱えて叫んだが、すぐに嫌な予感がして後部座席を振り返ると、一輝はすでにドアを半分開けている。
「オイ、待て! ゴロまきに来たんじゃねぇんだ! ……って、どうしてお前らはドライブにドスなんて持って来るんだよ~っ!」

 はだけた特攻服の下に巻かれたサラシ。そこに挟まれている、刃物を見たシュラは泣きたい気持ちになった。

「こんな物使わんさ。いざという時の護身用だ。」
 服の中に潜ませていた木刀を取り出しながら、一輝は口の端を上げた。

 弾かれた鉛玉のように、車から飛び出す一輝を見て、誰かが叫んだ。
「ヘッドが出たぞ、後に続けえー!」
 一輝に追随するかのように、狂乱怒濤のメンバー達は、一斉に
車道に躍り出た。
 それを追う形で、凶器になりそうな物を手当りしだいに掴んで車を乗り捨てる残りのメンバー達。
「てめえ、なめくさった真似しやがって!」
「ぶっ殺してやる!」
 罵声が飛び交い、あっという間に目の前は戦場と化した。

「クソッ!」
 シュラも舌打ちしながら車を出ようと、ドアに手を掛けた、その時。携帯電話の着信音が鳴った。
「こんな時に……!」
 車内に投げ捨てようとした携帯の着信画面には、B/Hの文字。電話を受けると、アフロディーテからであった。

『シュラか?! 今何処にいる!』
「アフロディーテ! こっちは湘南と始まっちまったよ、一体どうなってるんだよ!」
 シュラは焦っていた。敵の数は半端ではない。まともにやりあって、勝ち目がないのは火を見るより明らかだ。

「俺達も今、そちらに向かっている。だが、警察もすでに気付いてるぞ、早く撤収するんだ!」

 車中でアロディーテは叫んだ。助手席には、瞬が携帯から漏れる、シュラの声に耳を傍だてていた。
『もう無理だ! 誰かが湘南のやつらに向かって投石したんだ。連中は俺達が仕掛けたと思ってる。ああ何で狂乱の奴ら連れて来ちまったんだろう!』
 その後ドゴォン、と物凄い爆音が耳を突き、通話は途切れた。

「……あの事件と同じだ。」
そう呟いたアフロディーテを、瞬は涙目で見つめた。
「昔、この付近、由比ケ浜で同じような事件が起こったんだ。これは、誰かの陰謀だな。警察に垂れ込んだのも、大方そいつの仕業だろう。」

 神奈川と東京との険悪な関係は、その由比ケ浜の事件をもって決定的なものとなった。忌わしい事件を思い出させられ、アフロディーテは無言で車内の冷房を止めた。

――早く、早く! どうか間に合って!

 瞬は震える両手を膝の上で握りしめた。
 アフロディーテの四輪を先頭に、ブラックホールの集団は国道の路面にヘッドライトの光りの渦を作り出していた。
 彼らは蜜蜂の羽音をブンブンと奏でながら、しかしあくまでもクールな走りに徹していた。

     ★

「あれは、なんだ……。」
 アフロディーテの運転する車は、緩い曲線を描く海岸沿いを走っていた。ウインドウが映し出したものは、カーブの際に見え隠れする、オレンジ色の炎である。
「車を捨てろ、離れるんだ!」
 シュラがそう叫んだと同時に、さらにもう一台のシャコタンが火を吹いた。静かな波音を奏でていた海岸通りは、一転してまるで地獄絵図さながらである。

 次々と襲い掛かる相手を殴りつけていたシュラは、後方で、待ちに待った一声を微かに聞いた。
「ブラックホールが来たぞ!!」
 勢い良く車から飛び出した瞬は、アフロディーテが引き止めるのも聞かずに、抗争の真っただ中に、その身を投じた。

「……あの、バカ!」

 シュラは白い特攻服を見つけると、後ろへ引き返そうとするが、身動きがとれない。咄嗟に一輝の方へ目を走らせたが、遥か遠方の前線で、片っ端から相手を殴りとばしているその男は、ブラックホールの存在にすら、気付いていない様子だった。

「争いをやめろ、これは罠だ!」
 瞬は精一杯声をふり絞ったが、それも雑踏と、罵声と、轟音に飲み込まれて行く。
「ブラックホールのヘッドだ! サガはどこだ!」
 さらに奥へと走りながら、瞬は繰り返した。

「ブラックホールの姫だ!」
 誰かの叫び声に、一輝は振り返った。倒れている者、揉み合っている者の間を走り抜ける、小さな人影。転がった車から立ち登る炎に照らされたのは、あの白い特攻服。――
「姫?」
 一輝が近付こうとした時だった。
「うおおお!」
 瞬の背後から凶器を持った男が突進してきた。
「姫、危ないっ」
 誰かが叫んだが、刃物は既に瞬の腕を切り裂いていた。
「……のヤロウ!」
 遅れてやってきた、無数の白い集団の一人が、男を殴りつける。

「オイ、しっかりしろ!」
 一輝は人混みを掻き分けて、蹲った少年を抱き起こした。純白の特攻服は腕から流れ出る血で、みるみる赤く染まっていく。一輝はサラシを解くと、傷口を固く縛った。
「――っ」
 覆面の上から覗いた瞳は、苦しそうに眉根を寄せながら閉じられた。

「ブラックホールの姫だ! やっちまえ!」
――オォォォ!
 一輝は少年の身体を抱き込むと、ドスのきいた雄叫びを発しながら、襲い掛かる人影を次々となぎ倒し、我を忘れたように走った。
 安全な物影に到着し、ブラックホールのメンバーにその身を引き渡すと、すでに視線の先は混乱の極みへと据えられている。
「待て、警察が向かっている。今すぐに身を引くのだ!」
 彼らの引き止める声も、もはや一輝の耳には届いていない。あちこちに倒れた人間と、単車と炎との間を分け入るその背は、まるで悪鬼のごとく紅く照らし出されていた。

 騒動が納まったのは、それから十分ほどしてからだった。
『警官隊が向かっているぞ! 両者とも争いはやめろ!』
 散乱するスクラップに、車体をぶつけながら乗り込んだ宣伝カーが、ボリューム一杯にしてそう叫んでいた。走行中に誰かが発見し、拝借したものだろう。その声に、やっとこの場にいる全員が、ブラックホールの存在に気付いたのだった。

「ブラックホール! やっと現れたな!」

 心無しかふらついた足取りで、群衆を掻き分けながら出て来たのは、サガであった。
「サガ、我々は喧嘩など仕掛たつもりはないぞ!」
 アフロディーテはサガに向かって言った。

「今更ハッタリかましてんじゃねえよ!」
 周囲からは罵声が飛び交い、血気盛んなメンバーたちは、今にも飛びかかりそうな勢いだった。

「前回の幹部会で、こちらの真意は伝えた筈……。この争いの発端は、何者かの投石だと聞いたが、それは確かか?」
「ああ、その通りだ。」
 サガは僅かに落ち着きを取り戻してきた様子で応えた。
「それは、俺たちじゃねえぜ! 俺はちゃんと話を通そうとしたんだ。その矢先に投石があった。言っておくが、先に動いたのはお前たちの方だぜ。」
 シュラは、うっすらと血の混じった唾を吐き捨てながら言った。

「第三者が、仕組んだ事だと言うのか?!」
「今日夕方警察に、この抗争についての垂れ込みがあったそうだ。それが証拠だ。始まってもいない抗争を、事前に察知出来た者……そして、私たちが警察に潰されておいしい思いをする者……。心当たりはないか?」

「――― "パンサー" はどこだ?!」
 サガは顔色を変えて叫んだ。その瞳は怒りで燃え、紅く血走っていた。
「サガさん、やつら、全く見当たらないっす!」
「――っ、ハメられた!」
サガはガクリとその場に膝をつくと、悔しそうに声を絞り出して言った。
「す、すまん……。」 

 群衆は一斉に撤退に向けて動き始めた。
 もはや鉄のかたまりと化したスクラップを数人がかりでやっと転がし、道をあけた。動ける者は怪我人を運び、エンジンのかかる車にありったけの人を詰め込むと、次々と発進した。

 無言で立ち尽くしながら、しばらくその光景を眺めていた一輝は、はっと我に帰って辺を見回した。その視線の先に、物影に身を潜めながら一人、負傷した腕に手を当てて、抗争現場を見つめている姫の姿を捉えた。
 一輝は彼の方へ近づこうとした。だが、すぐに数人の白い人影が少年を取り囲み、運んでいく。

「…………。」
 一輝は踏み出しかけた足を止めた。差し出そうとした右手は、虚空を掴んで降ろされた。

     ★


 翌日、事件は大きく報道されていた。

"暴走族数百人が乱闘? 因縁の湘南対東京の疑い
過去の抗争が原因か 由比ケ浜を忘れるな"

『瞬か? オレだ。わるいが、しばらく帰れなくなった。今日の約束は、少し延期だ。』
 瞬は努めて平静を装って、兄からの電話に明るく相づちを打った。病院に運ばれ何針か縫った後、先程自宅に送り届けられたばかりだった。
「はぁ、これでなんとか隠し通せそうだな。」
 痛みと疲労のせいで、吐き気がする。
 ズキズキと脈打つ腕を庇うように布団に倒れこみ、鎮痛剤の促すままに、瞬は重い瞼を閉じた。

     ★

「いやあ、本当に参ったよ。湘南はもう懲りごりだ。」
 シュラは頬に大きく出来た、青痣をさすりさすり苦笑した。
「こいつらときたら、本気で喧嘩上等なんだもんなあ。」
 一時は生きた心地がしなかったぜ、と隣に居る一輝を突つく。

 彼らは今後の対策を練るために、ブラックホールの集会所と称される、今はもう使われていない、空き地の物置き小屋に集まっていた。
 今回の事件の火種が、狂乱怒濤のヘッドを巡る争いからきたのだと知り、一輝は驚愕していた。

「……姫は、彼の具合はどうなんだ。」
 一輝はアフロディーテに尋ねた。
「ああ、大事には至らなかったよ、安心しろ。」
 アフロディーテは微笑みながら答えた。
「にしても、姫の度胸には頭上がらないすよ。」
 ブラックホールの幹部の一人が言った。一輝は初めて目にする顔だった。
「あの修羅場で、自分がヘッドなんて、タンカ切れねえっすよ、ふつう。」
 敵地で、しかも劣勢の抗争の最中で、である。
 下手したら殺されかねないからな、と呟かれた声に一同静まりかえった。
「見た目より、ずっと肝が据わってますから、あの人は。」
「恐いもの知らずとも言うな。」
 とアフロディーテは苦笑する。

「おい、お前何か物騒な事、考えてるんじゃあないだろうな。」
 先ほどから、古寂びた長テーブルをじっと見下ろしていた一輝に、シュラは声を掛けた。

「喧嘩には段取りが必要なんだったな、アフロディーテ。」
 一輝は顔を上げて言った。
「パンサーのシンをやる。」
「それは駄目だ。」
 アフロディーテはきっぱりと首を横に振った。

「パンサーはハマのチームだ。やつはルート16のサガが締める。連中のメンツがかかってるんだ、今頃血眼で捜しているだろうよ。」
「しかし、これは俺とヤツのいざこざだ。」
 一輝は拳に力を込めた。こんな馬鹿らしいことの為に、多くの犠牲を出してしまったのだ。

「一輝、ここは大人しくしとこうぜ。湘南との兼ね合いもあるんだからよ。」
 シュラがなだめるが、一輝は立ち上がって言った。

「姫に怪我させたんだ。理由には充分だろう。」
「オイ、一輝。俺は確かに姫を守れとお前に言った。だが、そういう意味じゃないぞ。狂乱が勝手に動くと迷惑を被るのはブラックホールなんだからな!」
「一人でも俺は、やる。」
 一輝は静かに言った。といっても、腹の底に煮えたぎる炎を隠しているような、剣呑とした静けさだった。

「どうかしてるぜ、姫、姫って。お前惚れたんじゃねえだろうな!」
 シュラの言葉は無論、場当たり的なものだったが、一輝はシュラの胸ぐらを掴み、勢いよく壁に押し付けた。
「………。」
 鋭い視線に射抜かれたシュラは、ごくりと生唾を飲み込んだ。そのまま数秒睨み合っていたが、不意に手を放すと一輝はその場を立ち去った。

「喧嘩するために生まれてきたようなやつだな、あいつは。」

 シュラは襟許を直しながら、呟いた。



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