其ノ五 片羽バタフライのストレートパンチ
グラード学院中等部1年2組の生徒達は、約一ヶ月間にも渡る夏休みを目前に控えているためか、この時期になると授業にも身が入らない、という教師たちのぼやき通り、落ち着きがなかった。
彼らの意識は光り輝く太陽と、海だ祭りだ、かき氷だといった風物詩に向かってすでに羽ばたいているのか、毎日そわそわと浮き足立っていた。
「それでは、水泳大会の競泳選手の立候補者はいますか? 朝のホームルームでも話した通り一人三種目まで、水泳部員は一人一種目だけです。」
ぽつり、ぽつりと手が上がり、黒板に書かれている内の希望の種目に、各自の名前が書き込まれていく。
「瞬、オレは自由型の200メートルにしといて。」
水泳部員で水泳大会の実行委員にも組み込まれている星矢は、学級委員長であると同時に、星矢と同じく今大会の実行委員でもあり、また現在行われている話合いの、議長でもある瞬に言った。
「他にはいませんか?」
種目別に書かれた表の空欄は、まだかなりある。
瞬が教室を見回すと、後ろの席と雑談をする生徒、目を伏せてしまう生徒ばかりで、夏休み初日に行われるこの水泳大会に寄せられる、生徒達の関心の程度が窺い知れた。
瞬は平泳ぎとクロール、バタフライ50メートルの欄に自分の名前を書き込むと、振り返って続けた。
「25メートルの残りの種目については後で決めます。ではクラス対抗水中騎馬戦と、ビート板リレーに立候補する人。」
今度は抽選になりそうな程に、沢山の手が上がった。
★
プールサイドの仮設テントの中で、机に置かれたマイクの調子を確かめていたアフロディーテは、目の前を横切る瞬の姿を目に留めた。
「あれ、アフロディーテも実行委員なの?」
Tシャツに短パン姿の瞬は、真っ白なコンクリートに反射する真夏の日光に、眩しそうに目を細めながらパタパタとテントの影に入った。
「ああ、ウチのクラスの水泳部と学級委員のやつが、連続で出場する事になったから、その間の雑用係として、な。」
額の汗を拭いながらそう言ったアフロディーテは、数日前から準備を手伝っていたのだろう。普段は透けるように白い肌が、ほんのりと赤く日焼けしている。
外見の華やかさからか、美人とされる人がよく誤解されるように、彼もまた、冷たそうだとか我がままそうだとか、陰で噂されているらしい。
それが全て誤解だ、とは言い切れないが、実は結構面倒見が良く、責任感もある事を瞬は良く知っていた。
「お前、そんな事より……」
「瞬! これはなんだ?!」
アフロデーテが、中等部のプログラムを開きながら言いかけた言葉と、プログラムを片手にどこからともなく駆け込んで来た一輝の言葉が、重なった。
「兄さん!」
兄の姿を見つけて、瞬は嬉しそうに微笑んだ。
一輝はアフロディーテに気付いて、少し表情を固くしたが、アフロディーテは頓着無い様子で目を伏せた。
「……瞬、この男と知り合いなのか?」
「うん、先輩、の知り合い。」
曖昧な返答に、もしや弟を口説いたのはこの男かと疑った一輝であったが、瞬がきちんとTシャツと短パンを身に付けているのを確認して、とりあえずは安堵した。
露出度の最も高いこのチャンスを逃すまいと、写真部でもない連中が、カメラを持参しているのを先程見かけたからだ。
「で、どうしたの? 兄さん。」
慌てて登場した兄の片手に握りしめられているプログラムに目をやりながら、瞬は尋ねた。
「はっ! そうだった。何なんだ、この、お前の出場スケジュールは!」
この、と言いながら一輝は三種目並んで印刷されている項目を指差した。いずれの種目にも、瞬の名前が記されている。
「あっ、連続なんだ~。知らなかった……。」
「お前、こんなに泳げたのか?」
プログラムをまじまじと眺めている弟に、まさか昔のようにクラスでいじめられているのではないかと案じて一輝は尋ねた。
「うーん、多分泳げるとは思うんだけど。僕のクラスあまり立候補する人、居なかったんだよね。……でも連続はつらいなあ。」
「瞬……。」
どうやら、自分の思い違いだったらしい。
軽く俯いたその表情は、瞳の周囲を縁取る長い睫が影を落として、中学生にしては、少し大人びて見えた。胸元には実行委員の印である、ブルーのリボンが安全ピンで留められている。
一輝はそんな弟の姿に目を細めると、柔らかい髪に手を置いた。
「えー、マイクのテスト中ー。」
そして、アフロディーテはそんな彼らをよそに、せっせと機材調整を進めているのであった。
★
「わ、氷河すごいっ! 全然浮いてこないよ!」
200メートルメドレーに参加している氷河は、スタートの後、揺らめく水面の遥か下で、綺麗なドルフィンキックを披露していた。
しかしそのスピードは恐ろしく速い。
「氷河は潜水が得意なんだよ。肺活量が人間離れしてるんだ。」
スタートとターンの後、25メートルプールの半分も浮いてこない氷河は、既に他のコースの選手を半周抜いていた。
星矢は手元のストップウオッチで計時しながら「おっ、記録更新!」と興奮している。
「……でも、公式の大会だと、二掻き一蹴り以上の潜水は失格なんじゃないの?」
五回目のターンの後、水中で悠々と平泳ぎをしている氷河に、瞬は眉を顰めながら、ぼそりと言った。
「なんだよな~。その規則さえなけりゃ、オリンピックだって夢じゃないのに!」
ゴールと同時に打ち出されたタイムは、アジア記録を抜いていた。
「まあ、人一倍才能がある人間は、どこかで信じられない欠点があるって言うじゃん。規則だって、この先絶対に変わらないって保証はないし。」
あっけらかんと笑いながら、記録用紙にタイムを記入する星矢の様子を見ながら、瞬はグラード学院の水泳部に実績がない理由を悟った。
「ルールの改正を待つ前に、フォームを変える努力をした方が早い気がするケド……。」
その声はゴールした氷河への、クラスメイト達の歓声と拍手に掻き消されていた。
★
「まずい、痛めたかな。」
平泳ぎ一位、クロール二位という好成績を納めた後、瞬は続けて始まる、バタフライ50メートルのスタート台に立っていた。
水泳に関してはほとんど初心者の瞬であったが、ここまでは気力で押し切る事が出来た。しかし無理をしたためか、左腕の筋が少し痛む。
「用意。」
審判の声と同時に、辺りの空気がピンと張り詰めた。この瞬間だけは外野も黙り込み、視線はスタート台で構える六人の姿に集中している。
――何とかなるか。これで終わりだし!
ピストルの音と共に、瞬は力強くスタート台を蹴った。
水しぶきと共に、緊張は一気に解けた。瞬は無我夢中で水を掻いた。
しかし、今までの疲労と、腕の痛みで身体が思うように動かない。鉛のように重い手足と、それを取り巻く水の固さに愕然とし、あっという間に呼吸が苦しくなる。ターンを終えた頃には、バタフライのフォームすら保てている自信が無かった。
左右の選手の影は、とっくに自分の横をすり抜けている。かろうじて前方にゴールの壁をみとめると、瞬は前進する事だけに意識を集中した。
やっと地上に足を付けると思いきり息を、吸った。遠かった歓声が、突然間近でワアッと耳を覆った。
「よし、着いた!」
声に仰ぐと、金色の水滴がぽとり、と瞬の頭上に落下した。逆光に目を細めながら、額に手をかざして見ると、目の前に、日焼けした手が差し出される。
肩で息をしながら、けだるい両手を付いてプールサイトに上がり、差し出された手を取ると、その先には氷河の笑顔があった。
「……僕、やっぱり素質ないみたい。」
ゴールした瞬の第一声に、氷河は少し笑うと腕、痛めてるだろ? とバスタオルを肩に掛けながら言った。
「さっきのクロール、腕を伸ばし過ぎてた。もっと身体全体を動かしながら水を掻かないと、肩に負担がかかる。」
「身体、全体?」
「そう! ストレートパンチを繰り出す時も、肩だけの力じゃ大した破壊力にならないだろ? 腰からの回転を加えて威力を増さないと。クロールもそれと同じだ。」
「ストレートパンチかあ……。ふーん。」
瞬は何度か頷くと、極上の笑顔で氷河を見上げた。
「なんだかすごく分かった気がした! 」
髪からぽたぽたと落ちる水滴が、笑顔が、氷河には黄金色に輝いて見えた。
しかし、バスタオルから覗く健康的な素肌に気付いた氷河は、視線を逸らすとアイスノンを瞬の胸元に押し付けた。
「冷やしとけよ。」
それだけ言い残すと、氷河はあっという間に姿を消した。
★
「おい、見ろよ。一輝のやつ、やる気満々だぞ。」
普段学校の行事には我関せずを貫き通していた、校内一の不良が、何故か目を爛々と光らせていた。
「あいつがやる気を出してくれたって事は、次の試合……勝てるんじゃないか?!」
赤いハチマキをぎゅっと縛る、さながらランボーだかコマンドーだかのようなその勇姿に、三年生たちの期待と興奮は、いやおう無しに高まっていった。
「次は、二年生対三年生の水中騎馬戦です。」
テントの下の持ち場に戻った瞬は、中央に置かれたマイクで場内アナウンスを流した。
最後の種目は惨敗だったけれど、瞬は競技を終えた満足感で満たされていた。あとは、楽しい夏休みだ。
氷河って、いい人だったな。たまには水泳部に顔を出してみても、いいかもしれない。そんな事を考えている時だった。
試合開始の笛の音からものの数秒後、プールの中央に、大きな人だかりが出来ていた。
「兄さん?!」
人ごみの中心には、審判が止めるのも聞かずに、二年生の海パンを引っぱる一輝の姿があった。
それに負けじと一輝の海パンに手をかけた二年生は氷河である。
「一輝! 取るのはハチマキだ、そんな物脱がすな!」
「うるさい! 貴様、足を引っ張るな、俺を降ろせ!」
テントの中で、わなわなと肩を震わせながら瞬は、騎上で暴れる一輝の姿を、上目づかいに捉えた。
「……アフロディーテ、ストレートパンチは、身体全体を使うんだよね?!」
そう尋ねられたアフロディーテは、一輝の身を案じるかのように、黙って肩を竦めた。
「瞬……落ち着けよ、な?」
横で星矢が宥める声も、心無しか怯えている。
瞬は、西日の射し始めたプールサイドへと、肩で風を切りながら、つかつかと歩いていった。
結局、水中騎馬戦は三年生の反則により、お互いのハチマキを一本も取り合うことなく二年生の勝利で幕を閉じた。
そして瞬の目の前で、とうとう百八回目の悪行を繰り返してしまった一輝は、その後プールを血の海に染めたとか、染めないとか。