其ノ八 仁義なき請求書

 ある初春の晩、一人の少年が不良グループに暴行され、命を落とすという事件があった。
 加害者は都内の中学に通う少年で、恐喝が目的だったという。
 後日行われた葬儀では、事件の日から降り続けていた小雨が参列者の涙と混ざって、冷たく地面を濡らしていた。


「瞬ってば、ひどいよな~! ひとこと言ってくれれば良いのに。」
 おいらたち友達じゃん、と貴鬼はこの日何度も言ったセリフをもう一度繰り返した。

 新学期が始まってから二ケ月ほど経ち、秋も深まりを見せる今日までのあいだ、瞬と貴鬼は、何度かこのファーストフード店で顔を合わせていたが、二人きりで話をするのは初めてである。
 姫の素顔を見てからというもの、いつ文句の一つでもたれる機会が訪れるのかと、日々うずうずしていた貴鬼が、丁度一人で下校している瞬を見かけ、これ幸いとばかりに店内に連れ込んだのである。

「だからごめんってば…」
 同じくこの日何度も繰り返したセリフを呟きながら、星矢ならともかくそんなに親しくなかったけどな、とも思ったが、自分を守ろうと仮にも敵のヘッドである男に、必死に立ち向かった貴鬼の姿を思い出し、瞬は続けて言った。
「殴られたの痛かったでしょう? あの時は、ありがとう。」
 神妙な顔つきで覗き込んできた瞬に、貴鬼は頬をポリポリと指で掻くと、
「……瞬こそ身体は大丈夫だったのかい?」
と、ぽつりと呟いた。
「うん、あれは一過性のものだからね。」
 貴鬼の様子に安心したように瞬は微笑み、二人は笑顔を交わしながら、この時、親しい友達が一人増えたのだと互いに感じていた。

「で、どうして一輝さんにも内緒なんだい?」
 貴鬼がその事を疑問に思うのは、しごく当然であったが、彼はむしろ、一緒に暮して同じ学校に通う一輝に、この事実を隠し通せているという事の方が驚きだった。おそらく、並々ならぬ努力と気遣いを重ねているに違いない、いかに一輝が鈍感だとしても。
「兄さんが知ったら怒るだろうし、それに当然辞めさせられちゃうからね。」
 わずかに面を俯して視線を逸らしながら、だが瞬はそれが単なる言い訳でしかない事を、自分でも承知していた。
 これは、我侭でしかないのだ。
 不良の道に足を踏み入れた兄が心配なこと、守ろうと思ったこと。どれも本当だった。
 だが実際は、一輝が自分の知らない世界に行ってしまうのが嫌だった、ただそれだけだったのだ。いつまでも一緒に居たい。同じ世界を共有したい。そんな子供みたいな我侭に、姫という立場を利用したのだ。
 そして、今。 
 この感情は、単なる兄への執着という言葉では片付けられなくなっていた。いつの間にか芽生えた小さな想いは、じわじわと拡がりながら、嫌なものに形を変え始めている。
 今、姫を辞める訳にはいかない。
 このポジションを、誰に譲る気も起きなかった。
「だから、この事は内緒にしててね! 絶対だよ!」
 今度は睨むようにして、貴鬼をしっかりと見つめながら瞬は言った。その眼差しは彼の兄によく似ていて、秘めた痛みも完全に覆ってしまえるほどの、強い輝きを宿している。
 ブラックホールのヘッドが友達だったという事を、誇りにさえ思い始めていた貴鬼は、そんな瞬の手を握りながら、秘密を守り通す事を固く誓ったのだった。

 いつだったかシュラが、からかいながら投げかけてきた問いに、兄の名前をあげた事を、瞬は後悔し始めていた。
 これが本当の愛なのかなんて、考えたくもなかった。

     ★

「ご……五百万?!」
 自分には到底ご縁の無さそうなその数字に、瞬は素っ頓狂な声をあげていた。
「紅龍会のジジィめ、とんでもない額を吹っ掛けてきやがった。」
 ミロは吐き捨てるように言った。
「そんなカンパ金を工面しろって言ってきたの? 僕らはバイト禁止なんだよ?」
 中学生でも年令を偽れば、どこかで働く事も可能だろう。しかしたかだか学生のアルバイトごときで、そんな大金が稼げるとは勿論瞬とて思っていない。
「俺たちの下の頭数まで、計算に入れての事だろう。」
 前年度までの上納金額は、その半分だった。その上、各チームから会費を集めていたから、なんとか集めることができたのだ。
 そしてその会費制度を差止めにしたのは、瞬自身であった。
「お金の事は他のチームに関与されたくないんだ。」
 瞬はきっぱりと言った。
「ああ、分かってるよ……でもどうすんだよ~!」
 ミロは弱ったように、頭をがしがしと掻いた。
「やばい仕事なら、紅龍会が紹介してくれるってさ。全くご丁寧なこった!」
 薬物の売人か詐欺の手先か、おおかたそんな所だろう。
「後は、その辺の事務所の金庫破りくらいしか、方法はないだろ!」
 窃盗や引ったくりで捕まる少年達は「遊ぶ金欲しさ」と動機を語るが、その背景には後見人への上納金が絡んでいる事も、少なくないのだ。
「それも駄目。」
 瞬は沈着な態度で続けた。
「この件について、幹部会は必要ない、期限は?」
「来年の頭……ニケ月後だよ、姫。」

     ★

「よお、お姫さま。直々にお話って、何だい?」
 新宿の駅前にあるカフェテリアにやってきたシュラは、瞬を見つけてにこやかに歩み寄った。
「公衆の面前で姫はやめてよ。」
 瞬は仄かに頬を染めながら小声で言った。
 紅龍会から与えられたこの源氏名に、瞬は未だに馴染めずにいる。先代はもっとマシな名前だった筈だ。
 初めて瞬が紅龍会に顔を出した時、もしも狂乱の総頭ーーつまり、兄だったら―十ニ神将から名付けようと思っていた、と、その名付け親は言い、その後延々と仏教と仏像について御託を並べたあげく、じゃあ今日からお前は姫だ、 とあっさりと、どう考えても思い付きで決められてしまったのだった。
 瞬はオレンジジュースの入った紙コップのストローを、突き出した口元に当てた。子供のような愛らしい仕草に、シュラは目を細めると、その柔らかい髪にぽんぽんと手をのせた。

「それで、何かあったのか?」
 シュラは、瞬の顔を覗き込むようにして身を屈めた。
「ちょっと、ね。シュラの"顔"を頼りたいんだけど。」
「顔って何だい? ま、俺に出来る事なら全面的に協力するぜ。」
「シュラ達が溜り場にしてる六本木の……えぇと」
「ルームスか?」
「うん、それ。そこって収容人数どの位?」
 う~ん、とシュラは暫く考えてから答えた。
「各ダンスフロアーとラウンジあわせて……ざっと二千位かなぁ。」
「ふ~ん。結構入るんだねえ。」
 瞬は感心したように言った。
「そこなんだけど、年末の三十一日の晩、押さえてもらう事って出来る?」
「年末?! 急だな、おい。」
 予期せぬ相談を持ち込まれたシュラは、驚いて隣に座る少年を見つめた後、切れ長の瞳を閉じると、少し考えながら言った。
「年末はカウントダウンやってるけど、確かそのイベントはルームス主催だから何とかなると思うが……。」
 ルームスのオーナーとは、長い付き合いだ。年に一度のカウントダウンも、自分が頼めば借りられない事もないだろう。シュラはコーヒーに口をつけた。
「何か会合でも開こうってのか?」
「ううん、会合じゃなくて、イベント。」
 えーと、後は……と瞬はスケジュール帳を開いて続けた。
「最近流行ってるアーティストっていうか、ミュージシャンを教えて欲しいんだけど。」
「アーティストって、DJの事か?」
 イベントを主催するならば、ディスクジョッキーは主催者側が用意しなければならない。その晩どんなDJを呼ぶかで客層も、その入り方も随分と違ってくる。シュラはそれを踏まえた上で、この際自分の趣味を抜きにして考えた。
「一番のメジャーどころで"DJソレント"とか?」
 フロアーの空気を一瞬にして読み、その華麗なるプレイによって聴衆の魂を奪うとまで囁かれる彼は、"海魔女"の異名で呼ばれるほどであった。
 普通ならば一分間に四十五回転が限界とされているレコード盤を、八百回転させた事でも有名だ。さらにCDの売り上げについて言えば、毎回人気チャートにランクインする程の、名の知れたアーティストでもある。
「だが、人気のあるDJだとそれだけギャラも高くつくぞ。」
「どの位?」
「ざっと一晩こんなもんかな。」
指を三本立てながらシュラは、いきなり現実的ではない提案をしてしまったと、ランクを下げてもう少し身近な線を模索しながら付け足した。
「後、箱代もな。」
 ルームスは六本木の中でも、一、ニを争う規模のクラブである。
「俺の顔が利いても、一晩借りるのに五十万は必要だろうな。」

 しかし、まるで明日の待ち合わせ場所でもメモするかのように、瞬はその数字をサラリとスケジュール帳に書き込んでいる。
 頭を両手に挟んで考え込んでいたシュラは、驚いて瞬を見た。
「おい、何しでかすつもりなんだよ。だいいち、どこでそんな金……。ヤバイ事だけには手を出すな! 金なら、俺がなんとかするぞ?」
「大丈夫。心配するような事は何もしないから。」
 どうやら肝心な部分を話すつもりは、ないらしい。
 シュラは自分よりずっと年下で身体の小さな、しかし我の強い部分だけは兄よりしっかり譲り受けてしまったらしいこの少年を、少し不憫に思った。

――これも全てアイツの為だっていうんだから、健気だよなあ。
「じゃあ、ルームスの方は頼んだよ。」
「お、おお。」
「シュラみたいな友達がいて良かった! 恩に着るよ!」
 瞬はすっきりした様にそう言って、オレンジジュースを飲み干した。

     ★

「おい瞬、もう昼休みだぜ!」
「あっ、え?」
 瞬はがばりと身体を起こしてきょろきょろと辺りを見回した後、大きく伸びをした。
「……あ~っ、またやっちゃった……。」
 いつから居眠りしていたのかすら、記憶にない。居眠り、というより完全熟睡状態だったらしい。夢も見ずただひたすらに睡眠を貪っていたような。身体中が痛かった。
「お前、最近どうしたんだよ。居眠りばっかでさ。」
 目を擦りながら欠伸をしている瞬に、星矢は心配そうに言った。
「んー、課題溜っちゃって。」
「課題? んなもん、今は出てないだろ。」
「……自主課題。」
 瞬が授業中に居眠りをしていても、注意する教師がいないのは、普段の行いの賜物である。
「自分で自分を追い詰めんなよな~。」
 ぶつぶつ言いながらも星矢が瞬の言葉を信じたのも、普段の彼を見ている者としては当然の反応だった。
 いくらなんでも終業の挨拶にまで気付かず寝てられるか、普通? と思った星矢自身、居眠り常習犯でもある。

 星矢は今日、珍しく早弁をしなかったようだった。いつもだったら三限か四限目の授業中に、机に立てた教科書の陰で、星矢はその日の弁当を平らげてしまうのだ。
 瞬はサンドイッチをほおばりながら、前の席の椅子を反対側に向けて、自分の机で弁当を広げ始めた星矢に言った。
「星矢の友達で、写真部の人いない?」
「あー……と、氷河と同じクラスの、紫龍ってやつが写真部だったな。」
ホラ、あの校内新聞の写真とかそうだぜ、と壁の掲示物を星矢は箸の先で指した。
「その人、紹介して欲しい!」
 パッと顔を明るくして申し出た瞬に、星矢は不思議そうに言った。
「お前からそんな事言うの、初めてだな。」

     ★

「……よし、出来た!」
「そろそろ俺達にも話してくれて良い頃だろう? 姫。」
「あ、アフロディーテ……と、あれ、どうしたの、お揃いで?」
 学院の屋上にある用具室の中、どこから運んで来たのか長机に折りたたみの椅子。そこに腰掛けて書類を眺めていた瞬は、アフロディーテに続いて入ってきた、ミロの不機嫌そうな顔を見て言った。

「期限まで一ヶ月を切ったぞ。大丈夫なんだろうな。」
 本来会計担当であるミロは、いかにも不安そうに言った。
「ブラックホール内でも、今回の事を知らぬ者はもはや居ない。皆不安がっているぞ。」
 アフロディーテのその台詞に、今週の集会で説明するって言ったのに……と瞬は小声で文句を言った。

「今年最後の晩に、六本木のクラブでイベントをやるから、それで稼ごうと思って。」
「イベント? そんなもので稼げるのか? だいいち、何のイベントだ?」
ミロの質問責めに、にこっと笑って瞬は答えた。
「ソレントっていうDJが回すんだ。名づけて"BLACK HOLE NIGHT"なんてどうかな?」
 無邪気に笑う瞬を見て、二人は一気に不安に陥った。

「あ……あのDJソレントがか? 本当に来てくれるのか? 」
「あれ、すごい、さすがミロ。ソレントを知ってるの?」
 僕、そういうの疎いから……と瞬は呟いた。
「私は音楽で人を殺せますって発言が問題になったヤツだろ? 知ってるも何も、超有名だぞ! 本当に彼を呼べるのか?」
「それは今から交渉に行く所。」
 とあっさり言ってのける瞬に、二人はますます肩を落とした。
「おい、アフロディーテ。お前はこの世間知らずな坊ちゃんを、買い被りすぎやしないか?」
「失礼だなぁ! 世間知らずは、どっちだよ。」
 ミロの言葉に、気分を害した様子で瞬は反論した。
「彼に来てもらう、って学園祭じゃあないんだから……。」
 これはビジネスなんだよ! ドサリと瞬は毎晩徹夜で練りに練った企画書を机に出して言った。この為に彼の音楽も、パフォーマンスも全て一から勉強した瞬である。
「シュラの知り合いでもある、クラブのオーナーの紹介だから、企画さえしっかり出来てれば大丈夫。」
「資金はどこから作ったんだよ。」
 彼の知名度からすると、ギャラもそれ相応の額が必要だろう。
「あぁ。紅龍会から借りたよ。」
「なっ、なにぃ~?!」
 二人は同時に叫んだ。
「だって、最終的に上がりを出せば良いわけだし。」
「出せるんだろうな……?」
「チケットが裁ければね。」
「……裁けるんだろうな……。」
「とりあえず、前売りは即完売だったよ。」
 瞬は企画書をパラパラと捲っていたが、ふと気付いて腕時計に目をやると、慌てて席を立った。
「まずい! 三十分後にルームスで打ち合わせなんだった!」
 シュラが校門で待ってるから、と付け足しながら、素早くコートを羽織り、鞄に企画書を押し込む。
「……シュラの車で行くのか?」
 ミロは言いながら、財布から千円札を何枚か取り出して、瞬に突き付けた。
「これでタクシーを拾え。あいつなんかの車に乗ったら、お前、即効吐くぞ。」 

「姫はいつの間にイベント屋に転身したんだ…?」
 ミロは額を押さえながら言った。
 ちゃんと領収切って貰うから、などと冗談を言いながらアジトを出ていく彼の姿は、まるで業界人だった。
「さぁな……。彼は全部ああして一人で突っ走ってしまう。俺たちは信じるしかないだろう。」
 ブラックホール発足以来、代々受け継がれて来た会費制度を止めると言い出した時もそうだった。自分達がいくら説得しても、瞬は頑としてその意志を曲げようとはしなかったのだ。
 アフロディーテは、あの時の瞬の涙を思い出して黙り込んだ。

 泣いても笑っても、時は期限に向かって刻々と過ぎていく。どうやら自分達には、そのイベントとやらを、成功させる他道はないらしい。
「その時」まで後一ヶ月。
六本木ルームスでのイベントが、巷の若者達の間で、ちょっとした話題を呼んでいる事など、今の彼等には知る由もなかった。

     ★

BLACK HOLE NIGHT
  countdown party 02-03

 そう書かれたチケットの半券をヒラヒラさせながら、シュラはカウンターに座って、ダンスフロアにひしめく人込みを眺めた。
 ブースでは今晩のスペシャルゲストであるソレントが、リズムに合わせてフルートの演奏まで披露し始める。こんなDJは、確かに今まで類を見ない。
 フロアの若者たちは歓声をあげ、音色に聞き惚れる者、または彼の美貌に、嬌声を上げる女性もいる。ここまで盛り上がったルームスを見るのは、シュラも初めてだった。
「まさか、本当にやっちまうとはな……。」
 数あるクラブの中でも最大級のフロア面積を誇るルームスだったが、開店直後の早い時間から、既に満員だった。
 いつもなら、ここで彼を知らない人間はいない程に顔を利かせていたシュラであったが、今晩だけはまるで他所者のように、カウンターの隅でちびちびと酒を啜っている他ない。
「ここまで来ると、あいつの手腕は中坊の域を超えてるぜ。」

 暴走族が主催なんて、流石に今まで聞いた事ないが、面白いのではないか。瞬を紹介した時に、最初は面喰らっていたオーナーが、すぐにそのような承諾をくれたのも、瞬の持ってきた企画があまりにも完璧だったからだ。

「末恐ろしいやつだよなー、可愛い顔して。」
 トラブル防止の為にブースの傍に配置された、一輝含む狂乱怒濤のメンバーを見つめながらそう呟いたシュラは、以前見たことのある、バーカウンターの女性に笑いかけた。

「瞬! 写真が撮り終わったみたいだぜ!」
 フィルムを振りかざしながら、貴鬼がスタッフルームに入って来た。
 ミロやアフロディーテ含む、一部の人間にしか出入りの許されていないこの控え室の中、瞬とアフロディーテは、照明や音響の担当者と共に、最後の微調整を終えた所だった。
 この日ばかりは瞬も覆面を着用していない。もちろん一輝達狂乱のメンバーや、ブラックホールのメンバーたちも皆、普段着である。よって人込みに紛れてしまえば、胸に下げられたスタッフのプレートを除いて、その姿は一般客とまるで区別出来なかった。
「じゃあ、紫龍に急いで現像するように頼んで。後は手はず通り頼んだよ。」
「分かってる、任せとけよ!」
 貴鬼はウィンク一つすると、飛ぶように走り去った。

「貴鬼に何を頼んだのだ?」
 まだ自分の知らない計画があったのかと、回収したチケットを整理していたミロは尋ねた。
「うん、入場料だけだと足りなそうだから、写真部の友達に、ソレントのスナップを撮ってもらう事にしたんだ。」
 紫龍には、ソレントとフロアーの客が一緒に写るようにと注文しておいた。
 コンテストで受賞するほどの腕前なら、きっと上手く一枚のポートレートに収めてくれただろう。後は会場を出ていく客に声を掛けて代金を払ってもらい、後日控えた住所に写真を送る……。
 我ながらいいアイディアだ。瞬は肩をすくめて小さく微笑った。これで今晩働いてくれた他のチームのメンバー達に、バイト代を出す事も可能だろう。
「ソレントって良い人でね、事情を話したら写真の売り上げは、全部僕たちにくれるって。」
 事務所には内緒だよ、と彼は一枚一枚に手書きのサインを入れる事まで約束してくれたのだ。

「姫、もうすぐ日づけが変わる。」
 アフロディーテは壁に掛かった時計を見上げて言った。
「うん。今年は本当に、色んな事があったね。」
 瞬は疲れ切った身体を伸ばしながら、やれやれ、とばかりにソファーの背もたれに寄り掛かった。

 ダンスフロアでは照明が暗転した中、スクリーンに大きく映し出された数字が、カウントダウンを始めていた。
「Wカップとソルトレーク、……あれは自爆テロかな。」
 スクリーンでは、細切れに一年間の報道写真も同時に映し出されている。これもブラックホールの考えた演出なのだろうか。
「こうしてみると、今年は色々あったんだなあ。」
 シュラの言葉に、既にほどよく酒の廻ったバーテンの女は言った。
「以前誰かに聞いた事があるわ。宇宙が誕生してから百五十億年を一年のカレンダーに縮めると、人間が登場するのは、大晦日の 午後十時半なんですって。」
「なら、ほんの一時間半前に俺達は生まれたばかりか。もしも神々が実在するなら、彼らにしてみたらこんな事件なんてものも、ある瞬間に凝縮された、それこそほんの宇宙の塵みたいなもんなんだろうなあ。」
 シュラの言葉に女性は微笑むと、手もとのグラスをシュラのそれにコツンとぶつけ、同時に、時計の針が午前〇時を指した。

 ハッピーニューイヤー、素敵な年になりますように!
 盛大な歓声とシャンペンシャワーがフロアを埋め尽くす。
 新年の幕開けを抱き合って喜ぶ者、グラスを交わして祝いの言葉を口にする者。
 ソレントのファンもルームスの常連も、終電を逃してふらりと入ったサラリーマンも、カウントダウンの場所を求めて少し前に潜り込んできた若者も。カップルも外国人も、そして暴走族も。
 誰もが皆、この時を同じ場所で迎えた喜びを分かち合い、立続けに始まったソレントの新曲であるという"デッドエンドクライマックス"によって、フロアーはまさに、最高潮に盛り上がった。
「やったな、瞬。こりゃ大成功だぜ。」
 シュラは立ち上がると、その場にいない少年のため、高くグラスを掲げた。

     ★

「うちのメンバーは、もう帰すぞ?」
 控え室の分厚い扉に寄り掛かりながら、一輝は気の抜けた声で尋ねた。
 午前五時。
 最後にゲストを店から見送った一輝自身、心身共に疲れきっていた。壁一面に設置された、大音響の巨大スピーカーの前に一晩中立たされていたせいで、耳鳴りがした。
「……誰もいないのか?」
 一歩足を踏み入れた、薄暗い室内には人の気配がなく、奧へと歩みを進めると、壁際に配置されたソファに膝が当たって立ち止まった。
 見下ろすと、毛布を深く被ったまま、ソファに横たわる少年の姿が目に留まる。
 音を立てないよう注意しながら頭の方へ近付いてみると、クッションに散った髪と毛布の隙間から、疲れたような青白い肌が視界に入った。
「姫?」
 その姿をよく見ようと、一輝が身を屈めて手を伸ばした時だった。
「そこから離れろ!」
 控え室の扉を開けたアフロディーテは、廊下の僅かな明かりに照らし出された光景に、咄嗟にそう叫んでいた。
 驚いた一輝は、伸ばしかけた手を止め、後ろを振り返ると無言で数歩下がった。そして深く息をを吐く。

 大体、今回のイベントの主旨すら自分達は聞かされないまま、突然呼び出されて、突然働かされたのだ。
 年末といえば、豪勢なお節が無理でも、正月らしい料理を作ったりテレビを観たりしながら、毎年兄弟でゆったりと過ごしていた。それがこんな疲労困憊状態では元旦の初詣すら、行けるかどうか危ういものである。
 一輝は急に腹が立った。
「もう帰るぞ。」
 ワントーン低く、かつ抑揚のない口調になった。
 しかしそんな一輝の不機嫌な色は、暗闇に紛れてまるで見えてません、とばかりにアフロディーテは、無情な台詞を淡々と言い放った。
「いや、フロアとトイレの掃除を、それぞれ分担して手伝ってくれ。」
「あのなあ! 俺達がなぜそこまでせねばならんのだ。」
 確かに狂乱怒濤はブラックホールの右腕として結成されたものだ。決して小間使いという訳ではなく。
「東京中のチーム存続のためだ。こうして働けるのも、ありがたく思え。あ、お前らのバイト代も出るそうだから、安心しろ。」
 かつあげする不良はゴマンといるが、小遣いを出す不良なんて聞いた事がない。アフロディーテは瞬を見下ろして、フッと笑った。
「まったく……この人は生真面目だから。」

「チーム存続のためとは、何の事だ?」
「ああ、説明していなかったな。このイベントの収益は、そのまま上にまわるのだ。」
 たった一晩で生まれた金は、紅龍会から請求された額を裕に上回っていた。一時はどうなることかと思ったが、と、アフロディーテは安堵の笑みを浮かべた。

「紅龍会の事か。このバカ騒ぎは、そのために計画したものだったのか。 」
 一輝は表情を固くした。
 自分達の稼いた金が、暴力団の資金源になる――。良い行とはお世辞にも言えぬが、後見人を無視してチームを存続させるなど、もはや不可能な世の中だということを、過去の経験から一輝も気付き始めていた。
「面倒見の代償として、こうして時々カンパを求められる。今までは他のチームから会費と称して、その金を回収して来たのだがな。」
 室内の間接照明だけを付けると、アフロディーテは瞬の眠っているソファーの端に浅く腰掛けて言った。
「姫が就任した直後に、あるチームのメンバーが、恐喝目的で乱暴した少年を、死なせてしまうという事件が起きたのだ。」
 アフロディーテは瞬を見下ろした。薄暗い照明の為、その横顔には深い影が落ちている。
 その事件は、一輝の記憶にもあった。自分が狂乱怒濤に入ることが、決定してしまった頃の話だ。そして一輝がヘッドに就任した後、会費制度は既に無くなっていた。
「その会費とやらが、事件の引き金になったというわけか。」
「あぁ、被害にあった少年が、丁度姫と同じ歳だった事もあって、姫はえらく悲しんで……。」
 アフロディーテは瞬の眠るソファーの端に腰掛けると、その重く閉じられた瞼を見つめた。

 会費制度を廃止する。泣き腫らした瞳で、瞬はそう言った。
 それが、ブラックホールのヘッドとして彼が下した、最初の決断だった。
 瞬の制服からは、雨の匂いに紛れて微かな香のかおりが漂って、きっと葬儀に忍び込んだのだろうと、アフロディーテは直感した。

「就任した途端、あの事件だ。さぞや荷が重かったろう。」
「………。」
 言葉を失くしたまま、一輝はその場に立ち竦んでいた。自分と、彼との間の僅かな隙間が、世界を二分しているかのように思えて、その場を動くことが出来なかった。そうした自分の無力さが、更に一輝をやりきれなくさせた。
 近付くことも、励ますことも、慰める事も出来ない、そういえばまだ言葉を交わした事すら一度も無かったのだ。
 すぐ目の前で、疲れ果てたように眠るこの少年を、守りたいと一輝は強く思った。兄という立場を越えて、一人の人間として誰かにこうした思いを抱くのは、生まれて初めての経験だった。
――自分は、この少年を。
 一輝は唇を引き締めた。
 胸の奥が、軋むように痛みを訴えた。

     ★

 ボロ雑巾のようにこき使われた一輝が自宅に戻ったのは、午前七時過ぎだった。
 そっと寝室のドアを開けると、二つ並べて敷かれた布団の片方に、弟の姿があることに気付いて、一輝は枕元に歩み寄った。
 いつもは早くから目醒めている瞬であったが、昨晩は夜更かししたのか、一向に起きる気配がない。
 暗闇の中で死んだように眠っていた、あの暗い寝顔に反して、弟の安らかなそれは無防備に朝日に照らされていた。一輝はその天使のような寝顔を覗き込み、安心したように笑みを作った。
 瞬の身体を膝の上に抱き起すと、その頬に、自分の手のひらを添えた。
 こんな風に、触れられる場所にいてくれたら良かったのだ。腕の中の弟のように、苦しい時は苦しいと、一度でいいのだ。もしも、自分を頼ってくれさえしたならば。
 一方的な自分の庇護欲に、一輝は自嘲気味に口の端だけで笑うと、その柔らかい頬に顔を落とした。閉じた瞼に口付けると、浅い寝息にも気付く。規則正しい呼吸を繰り返すそこを、そっと覆うと唇を滑らせ首筋を吸った。
 まるで熱に浮されているかのように行為に、しばらく没頭していた一輝は、やがて湧き上がった苛立ちに任せ、細い身体を手折りそうな程に、力を込めて抱き締めた。
「ううん。」
 吐息に混ざった呻き声に、一輝は我に返ったように顔を上げた。瞬は眩しそうに眉根を寄せた後、瞼を薄く開くと、焦点の合わない瞳でぼんやりと一輝を見上げた。
「……にいさん。帰ったの?」
 一輝は答える事が出来なかった。かろうじて腕の力だけは、無意識に緩めていた。
「にいさん、明けまして、、、? 兄さん煙草臭~い!」
 慌てて自分の腕から逃れようとする瞬の言葉に、一輝はついさっきまで自分のいた場所が、煙草の煙が充満した密室であった事を思い出した。
 シャワー浴びてきてよ、と言い残し、再びスヤスヤと寝息を立て始めた瞬の布団を直すと、一輝はバスルームへと向かった。

 自分があの少年へと向ける気持ちが、思っていたよりもずっと激しい熱を孕んでいたことに、一輝は他人事のように驚いていた。愛する弟にあまりにも似ていたが、弟という存在とは全く異なっていた。
 シャワーのコックを捻ると、まだ温まりきらない水流が迸ったが、一輝は構わず頭から被った。氷水のような冷水に、一瞬息が詰まって、軽い目眩に襲われながらも、疲労と寝不足で痺れていた脳髄が、深い霧が晴れゆくかのように、次第に覚醒し始めるのを感じていた。
 姫が、好きだ。
 確かめるように、自分の想いを言葉にしてみた。
 シャワーの温度が上昇するにつれて、冷えきった身体にも、ゆっくりと血が巡り始めるのを感じながら……、
 けれど、一輝は気付かなかった。
 早朝のバスルームが、まだほんのりと、湯気と温もりを残したままであった事に。



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