紅空
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鼻の奥がツンときたんだ。まぶたもピリピリと微かに痛い。息苦しいし、目の前がだんだんぼやけてくる。そういや昔、心理学の授業の時間、教授はこんなことを言ってた。
「人は悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しいのである。情動は自分の行動の知覚・認識により……」 でもね。コロンブスの卵みたいなこと言ったって、今の気持ちはごまかせないよ。 からっぽの部屋。私だけの部屋。大きな窓の部屋。 ……あの人が「窓は大きいほどいい」って言って、苦労して見つけたんだっけ。 だけどあの人はもういないんだな。どこいっちゃったのかもわからないけど。 泣いた。部屋を掃除した。いろんなものが出てきて、また泣いた。ゴミ袋を縛って、大事なものがこんな惨めな姿になったと思って、ついつい泣いた。コーヒーをカップに入れて、クリームを入れる。砂糖の数はあの人と同じだと思った。涙が一つ二つコーヒーに落ちた。 何回も鼻をかんだ。いっそのこと、思いっきり泣こうと思って、シャワーを浴びながら泣いた。気がついたら、バスタブの湯の中に涙を零していた。 「人は悲しいから泣くのではなくて……」 おなかがすいた。泣いた分だけ自分の中が空っぽになった気がする。冷蔵庫をあける。牛乳。卵。はちみつ。 ……ホットケーキを作ろう。ホットケーキミックス、棚に入れてたっけ。ボールにホットケーキミックスの粉を入れる。牛乳を入れる。卵も……。あ、そうだ。最近、お腹が重いからココアも入れちゃおう。あの人はそんな理由があるとも知らずに食べてたけど。あの人は……。 簡単にホットケーキは焼ける。バターをたっぷり乗せる。カップを暖めて、紅茶をいれる。ブランデーどこにしまったっけ? 探すのも面倒だから、はちみつを入れてみる。最後に、ホットケーキにたっぷりとはちみつをかける。 大きな窓の外は、すごくいい天気だ。大きな空に小さな雲が気ままに気ままに漂っている。 思いっきり口の中にホットケーキをほおばって、紅茶を入れたカップを持って、窓のところに行く。紅茶を一口飲む。なんだかやんわりあったかい。ブランデーの代わりに入れたはちみつのせいかな。 遠い遠いところであの人は何をしてるんだろう? 結局、私はあの人のことがわからなかった。 大きな窓のある部屋の中で、あの人はいつも逃げ場所を探していたのかもしれない。 あの人は、だってこの大きな窓から外に出ていったんだから……。 カップの中には、窓の外の青空が見える。 紅色に染まった空は、私の息が作った微かな波紋に揺れている。 涙が落ちた。大きな波紋が空を揺すった。 ちょっと塩の味がしないか心配しながら、紅茶を飲む。 はちみつの甘さが口の中に広がる。 いつだって、はちみつは甘いんだな。 ……ミツバチは今日もどこかの花を渡り歩いているのかもしれない。 ……あの人はどこか遠いところで、穏やかに誰かを傷つけているのかもしれない。 ……私は、紅茶色の青空を見つめて、遠くにいるミツバチを思った。 涙の味。蜜の味。紅茶の色。青空。小さな雲。大きな窓と、そこに住む小さな私。 みんな混ざって、波紋に揺れる。 ……大丈夫。きっと大丈夫。 はちみつは、きっといつでも甘いんだから。 |
随分以前、村上由香さんの「はちみつ」という歌をモチーフに作った話。
その頃やっていたサイトで公開していたんですが、こちらに持ってきました。
今なら、もっと違う話を書くかな……。
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