与えられた服に袖を通し、アンジェは住み慣れた家を後にした。
とりあえず、少なすぎる私物を古い鞄につめる、何か言っていった方がいいかと思ったが、何も言わずに出て行くことに決めた。
もしアンジェが―売春婦がラファエルに嫁ぐなんて事を知ったら、この町の住民がラファエルに小金をせびりくるかもしれない、そんな事は絶対にゴメンだ。
姿を消せば死んだと思ってくれる―それにもしもの為にココは帰ってくる場所として残しておきたい。
隣を歩くラファエルは先ほどから一度もアンジェを見ようとはしない。
「………」
「………」
幸せな結婚、と言うものが自分のものにならない事はアンジェははじめから知っていた。
こうやって体を売る人間を―本気では愛してくれる人がいない事などとっくの昔に知っている。
でも、今、アンジェはラファエルのためなら都合のいい女に成る事などなんでもない。
ラファエルは綺麗だ―今まで見た何よりも輝いている。
「……おばあ様に逢う前に……手首をどうにかした方がいいな」
「……手首?」
ラファエルの手首がどうかしたのだろうか?と覗き込むとため息と共に、お前のだ、といわれた。
そう言われ見てみると、先ほど縛られた紐の跡が赤々しく残っている。
思わず手を胸元にやって隠すが、今更変化はないだろう。
「結婚って……そんな簡単なもの、なんですか?……ラファエル様は貴族でしょう?」
「……私が当主だからな……おばあ様には『言葉』があるから大丈夫だとは思うが……それと」
「はい?」
「ラファエルでいい、偽りとはいえ、夫婦となるのだからな」
「……っいいえ……。そんな事は出来ません」
「……売春婦にしては言葉遣いがなっているな。生まれはは?」
「……わかりません。………でも3歳から15歳までは……教育は受けていました」
「……ならなぜ……こんな所にいる」
アンジェは少し口ごもった。
不安げに男を見上げると、その瞳に気づいたのかラファエルは言いたくないならいい、と言った。
だがアンジェは逆に其の言葉に勇気付けられたように言葉を続けた。
「……母に、売られて……よ、幼女趣向の男の人の所にいて……15になった時に、追い出されて……」
「―それでも……お前は『神』を信じているのか?」
「……夜は怖かったけど、男の人は私に教育を施してくれました……この町ではおばあさんが助けてくれて……今は、あなたが居る……」
「私はお前の神ではない」
「………あなたがそう言っても、私は信じるだけです」
絶望の中、希望を暮れる存在がアンジェの『神』だ。
昔栄えた宗教は、唯一神だったが、アンジェの中では天に住まう神と、傍に居てくれる神様と二人居る。
もしかしたら、同一なのかもしれない。
信じている、というより縋っているといった方が正しいのかもしれない。
ちらりと横を見ると、男は眉根を寄せ不機嫌そうな表情だ。
その表情にアンジェは思わず自分が余計な事を言ったのかと不安になる。
しばし二人無言で歩き、やがて待機していた車が見えてきた。
ラファエルが一歩踏み出すと、アンジェの為に車のドアを開く、その行動をビックリしたようにラファエルを見る。
「慣れておけ」
普通に言われ、アンジェは恐る恐る中に足を踏み入れる。
すぐにラファエルが乗り込むと行け、と一言で車が発進する。
「ラファエル様……」
「なんだ」
「ラファエル様の、御名って………天使さまからですよね?」
「よく知っているな……」
「それぐらいなら……四大天使の名前しか今の時代には伝わってませんし」
「今は知っている方が珍しい……この名は女王陛下から賜った」
「女王陛下から!」
アンジェは思わず車の中で声を荒げてしまう。
女王陛下なんて―アンジェは顔も見たことがない。
この国をすべる、神が居ないこの国では崇められる存在。
手の届かぬ人に―目の前の人は名を賜ったと言う。
「私の瞳は、珍しいだろう?……だからだ」
そう言ってラファエルは己の瞳を指差す。
その神秘的な翡翠色の瞳にアンジェは見惚れる。
「天使さまだなんて……女王陛下は神を信じているのですか?」
「まさか。ただの戯れだろう……現に他の三天使の名を継ぐ者もいる」
「……そう、ですか………私好きだったんです、古代神学を習うのが」
「習う価値もない、ソレらを信仰していた事事態がもうすでに過去だ」
切って捨てるようなラファエルの言い方にアンジェの顔が少し曇る。
神は死んだ、と遠い昔誰かが叫んだ言葉は―今は常識だ。
否―死ぬ事すらなかったのかもしれない、存在が無であれば。
「信じる信じないはお前の自由だ、アンジェ……だがな―お前がお前自身の神であり、支配者でいろ」
「支配者……?」
「従順な妻でいろと言ったが、お前の意思まで封じてない。……イヤだと思えばまだ引き返せる」
「……どうして、私なんですか?」
「…………お前が―神を信じているといったから、かもな」
「…………」
「それに、下手な貴族の娘と結婚するより、随分楽だからな」
「なぜです……?お嬢様方の方がラファエル様には釣り合うんでしょう?」
「見た目が美しいだけの女が同じ家に住まうだけでも、寒気がする……そこらへんの娼婦よりも浅ましい女ばかりだ」
まるで貴族の姫を憎んでいるような言い方にアンジェは少なからずショックを受ける。
華やかな世界だけを想像しているアンジェにとって、娼婦よりも浅ましい、なんて考え付かなかったのだ。
ラファエルはそれ以降口を開こうとせず、アンジェは不自然な沈黙を耐えながら目的地に着くのを待った。
***
「お前には呆れます」
「おばあ様が言われた事でしょう?」
「だからって……本物を連れてくる事はないでしょう!?」
ため息をつきながら老婦人はお茶を飲む。
ラファエルは飄々とした表情で椅子に座っている。
アンジェだけが不安にそうにそんな二人を見つめている。
「大丈夫ですよ、陛下だって我が家の醜聞をお聞きだ、なんとか脚色でもしてください」
「だからこそ、ですよ。……貴族の方とは贅沢は言いませんが、せめてもう少し教育がある方であればね」
「それなら、彼女、12年間は教育を受けていますから」
「え?」
「詮索はなしです、おばあ様。彼女に養子先でも見つけて……そうだな、カマエル叔父なら承諾してくれるでしょう。……世間体はそうしときます……」
「そうね……カマエルはお前を息子のように思ってますから……ねぇ……アンジェさん、と仰ったかしら?」
「あ、はいっ」
突然話を振られ、アンジェは震える声で返事をした。
座っているだけだというのに、威厳に満ちた老婦人を前にしてアンジェはかなり緊張していた。
車を降りて、メイドに向かいいれられ、巨大な屋敷に足を踏み入れたときからアンジェはまるで夢の世界にいるようだ。
メイド達は皆―自分をどこぞの貴族の姫だと思っている。
それが心苦しくも、こそばゆい。
「辛くなるのは、あなたですよ。お金が欲しければ差し上げましょう、あなたは自分が何をなさっているのか理解してないよう見えますから」
「おばあ様」
「ラファエル、わたくしは彼女と話しているのです」
「わ……私は、もし……ラファエルの祖母様であるあなたが私が役不足だと仰るなら、お金なんていりません。……もしも可能なら、私は……ラファエル様のお傍に居たいです」
目の前の老婦人のようにてきぱきと答える事ができない自分が恥ずかしい。
なるべく丁寧に喋ろうと思っているのに、貴族のレディ達には到底適わないだろう。
「まるで、捨てられた子猫のようね……。ですが、ノザウェル当主の奥方となるのです、それなりの教育は施させていただきますよ」
「……はいっ」
「わたくしだって、プライドだけが高い可愛げのない子が義理の娘になるより、あなたのように健気な子の方が随分気持ちが楽ですわ」
「おばあ様が凝り固まった考えの人物じゃなく安心しました」
「数年前なら絶対に許されない事よ……。最近の貴族の方が乱れているしね。……カマエルにはわたくしが話しておきます、ラファエル、アンジェさんをお部屋にお連れして」
「アンジェで構いません」
「ならあなたも、ファヌエルとお呼びになって」
「ファ……ファヌエル様」
「めずらしいですね、おばあ様が名前を教えるのは」
「あら、名と言うものは大事にしてくれる方へあげるものよ。……アンジェはわたくしの名を大事に呼んでくれるでしょう?」
ファヌエルはそう言って慈愛にみちた瞳でアンジェに微笑みかけた。
その笑みにアンジェは少しづつであるが緊張が解けてくるのを感じた。
10th/Jul/06