- 481 名前:テュランの筏1/12:2006/11/18(土) 12:07:14 ID:A6MrKfG80
- 四日目
「今日は、二十分耐えてもらおう」
藤吾に顔向けているのは楊玲だけだった。
しかしその声は背を向けている僕にも届く。
だんだんと、ルールが飲み込めてきたような気がする。
「船長」の要求は、日々日々過酷になっていくのだ。
服の時だけは例外で、僕たちは選ぶ権利を持っていた。
けどもう身一つの今は、エスカレートする彼の命令を受け入れるか、受け入れないかの選択肢しかない。
キリンの、首を伸ばす実験のようなものだ。
高い木の枝葉を餌にして、それは毎日十センチずつ上へあがっていく。
毎日、律儀に食べていれば、一日に伸ばす首は十センチで済む。
けど我慢して食べない日の翌日は、二十センチ伸ばす苦しみを味あわなければならない。
明日は三十になるか、それとも木の枝が針になるような道具を、藤吾は黒いトランクから取り出すかもしれないのだ。
どのみち、心は後悔にしばられるだけだ。
僕は残り少ない水と食料を考え、不安をぬぐえないまま、クリフの隣にしゃがみこんだ。
わずかだが彼の顔色はよくなっている。押しつぶされそうないかだの生活で、こうして彼が元気にしているのを見るのだけが、僕のうるおいだった。
- 482 名前:テュランの筏2/12:2006/11/18(土) 12:08:00 ID:A6MrKfG80
- 「テュランめ………」
水平線から目をそらさず、クリフは唇を歪めていた。
藤吾の命令が聞こえていたのは、たずねずとも明らかだった。
「昨日も言ってたよね。それって何て意味」
クリフは僕を振り向きもせず答えた。
「暴君」
その時、日も昇りきらない海上に、楊玲の喘ぎ声が響き渡りはじめた。
僕たちは声に押し出されるように小さく、いかだの端で身を縮めた。
クリフが話し始めた時、もう話題は変わっていた。
「………あいつ、楊玲の事だけどさ」
「うん」
僕はあいまいに返事した。
楊玲に対する僕の感情は、色々複雑だったから。
「智士は、楊玲の言葉、分かるか?」
「ううん、全然だめ。母国語はお手上げ、日本語は単語で聞きとるていど」
「筆談は、どうだ?」
クリフは海水に指をひたし、乾いた緑色のタープにアルファベットを記した。
- 483 名前:テュランの筏3/12:2006/11/18(土) 12:09:19 ID:A6MrKfG80
- 「あ、それなら。漢字つづって、何とか意思疎通出来るかな………」
「俺、会話は出来るけど、読み書きの方は全滅だから」
クリフが肩をすくめるのを、僕がからかう一連のじゃれあいの後、会話は再開した。
「でも、どうして楊玲に? 何を話せばいいんだろう」
「何でもいい………とにかく、あのままじゃあいつ、心が壊れる」
「そうかな」
僕は疑問だった。
彼は自分の欲望に忠実に、暴君にしたがっているだけだ。
飢えて渇いた僕たちより少なくとも身体は満足しているはずだ。
心も………あの声を聞けば、どう思うかは言うまでもない。
僕にとって楊玲は戒めの存在でもあったし、また同時にうらやましい存在でもあったのだ。
「智士、お前だったら、突然連れて来られて、こんな場所で恥辱的な行為をせまられて………それで周りにいる誰とも、言葉が通じない。
そんな状態に、耐えられるか?」
僕は黙りこんだ。クリフの言う事はもっともだった。
僕はたぶん、楊玲のさみしさなんて、考えてもみなかった。
「分かった………」
答えながらも、僕は心にもやもやした気分がわきあがるのを、抑えきれなかった。
- 484 名前:テュランの筏4/12:2006/11/18(土) 12:10:48 ID:A6MrKfG80
- 結論から言うと、僕はベストをつくした。けどだめだった。
喘ぎ声と、いかだの軋みが止んでから、しばらくして、僕は楊玲のいる辺りに向かった。
徐々に、藤吾の方へ近づいているとは言え、赤毛の少年はまだ中間地点、マストの下にいた。
僕は歩み寄る。たぶん、ここで第一の過ちをおかした。
痛々しいであろう胸の跡を見ないように、視線を上に固定していたのだ。
異国の人間に、上段構えに近づいて来られ、パニックになるな、と言うのが無理だ。
楊玲は手に入れたばかりの水と食べ物を抱え、威嚇めいたうなり声をあげる。
「あの」
二、三言強い調子の見知らぬ単語が、楊玲の口から飛び出した。
「大丈夫?」
彼は胸に二品抱えたまま、座ったままで後ずさりした。
僕はクリフの案を思い出し、筆談を試みようと床をさした。
が、考えてみればいかだのど真ん中だ。
端まで何歩か歩かなくてはならない。海水をひたした指さえも乾く、この暑さで。
考えた挙句、自分の舌でしめらす事にした。
セレクトした漢字は「友」だったが、二画目の途中で文字はうすれた。
しめらし方が足りなかったのだ。
思いきり不審な視線で見あげ、楊玲はさらに一歩下がった。
ここまでだろう、と僕は思った。
今はこれ以上強引に出ても、いい結果は生まない。
「何かあったら、力になるから」
僕はそれだけ告げ、クリフの元へ戻った。
- 485 名前:テュランの筏5/12:2006/11/18(土) 12:12:15 ID:A6MrKfG80
- 「タイミングが、悪かったんだと思う」
反省点を口にして座りこむ僕に、クリフは何も言わなかった。
黙って手を伸ばし、僕の髪を撫でる。
「食べている時で、しかもこんな状態で、僕は略奪人か強盗かって感じで、見られても仕方ないっ………」
心に思った事を話すうちに、何故かボロボロと涙がこぼれおちた。
「僕たちは、楊玲の身体を満たすものを何もあげられないっ………
でも、言葉は通じなくても、心は伝えたいと思ってるのに………」
なんで、自分がこんなに泣いたのか、後になってもよく分からなかった。
頭に乗ったクリフの手の平が、温かくて優しかったからかもしれない。
そして反面教師にしている楊玲の姿が、いつか自分に重なる時が来るのを想像して、恐ろしくなったのかもしれない。
「こんな、こんな状態っ………」
クリフは何も言わず、つむじと前髪の間で、手の平を往復させた。
僕はただただ貴重な水分を流しつづけた。
- 486 名前:風と木の名無しさん:2006/11/18(土) 12:12:53 ID:kMANStIFO
- 待ってましたよ…御前のその一言待ってました。GJデス!
- 487 名前:テュランの筏6/12:2006/11/18(土) 12:14:11 ID:A6MrKfG80
- 最悪の事態になった。
ボトルに残ったわずかな量では、僕の渇きは満たなかった。
中途半端に水を与えられた細胞が、おかわりを催促して、激しく暴れる。
それでも意思を総動員して半分残し、眠るクリフの唇をひたした。
指先を数度すべらせただけでは、昨夜のようなつやは戻ってこなかった。
僕は空のボトルを閉め、タープの中にしまった。
手つかずの食料パック半分が残っているが、こんなに口がパサパサの状態では、とても喉を通らないのは分かりきっていた。
水。ただそれしか考えられない僕の頭に、嫌味たらしく波音が入りこむ。
明日になったら………過酷さを増した責めが待っている。
キリンは死にものぐるいで首を伸ばさなくちゃならなくなる。
頭上に浮かぶ細い月は、雲ひとつない夜空で、間もなく頂天にのぼろうとしていた。
薄闇を透かして、見る。黒くどんよりとたたずむトランクを。
あの中には僕のすべてを癒すものが入っているというのに、
こんなに近いのに、どうして手に入らないのだろう。
そんな事をぼんやり考えながら、僕は足音立てずに歩き出した。
いかだは広い面積をもつが、それでも二桁も歩かない内に、辿りついてしまった。
トランクの上に右腕の肘をつけ、頭をもたせていた藤吾が目を開く。
- 488 名前:テュランの筏7/12:2006/11/18(土) 12:15:21 ID:A6MrKfG80
- ………いつか、自分に重なる時? 今すぐ切羽詰っているのに、何をのんきな事を………
過去の自分を自嘲しながら、僕は小さくささやいた。
「水を」
「まだ五日目には入っていない」藤吾は時計を見ながら言った。「二十分だ」
差しだされたクリップを震える手で受け取り、僕はぎゅっと目を閉じた。
「智士君、だっけか。君は意思が弱そうだからこれを使ったほうがいい」
ジャラリと音がして、僕の手の平に冷たい感触のものが追加された。
薄い月の光をあびて、鈍く輝く手錠だ。
「な、なにを、なんで………」
「二十分間。途中で故意でも自然にでも外れたら、最初からカウントし直す」
左手首の時計を見せびらかすように、藤吾は続けた。
「彼、楊玲君だったっけ? 彼は三回外した。今日は二回」
藤吾の指さす先には、タープにくるまって眠る楊玲の姿があった。
僕の背筋を冷たいものが通りすぎていった。
………楊玲の声がやけに長く感じられたのは、気のせいではなかったのだ。
「後ろ手に拘束するのが、おすすめだ。
前では心理的枷にしか働かない」
「っ………こんなもの、いらない」
僕は手錠を投げた。床から拾いあげた藤吾は、丁寧に埃を払い、トランクにしまう動作を見せかけ、途中で止める。
上衣の前ポケットにそれを落としこみ、僕の上半身に視線をそそいだ。
「カウントはこちらでしよう。では、見せてくれ」
- 489 名前:テュランの筏8/12:2006/11/18(土) 12:16:15 ID:A6MrKfG80
- 僕の心にあったのは「朝になる前に」「誰かが起きる前に」済ませてしまいたい。
それだけだった。
急かすものがなければ、僕はただ手を震わせ、恐ろしい凶器を胸にはさむなんて出来ないまま、夜を明かしてしまっただろう。
闇の中で目を透かす。自分の胸にぷくりと浮きでた桜色の突起を見下ろす。
左手で周辺を押さえながら、右手でクリップを開き、ゆっくりと近づけていく。
鋭利で冷たい金属の感覚が、敏感な先端の上下を包み………こまずに噛みついた。
「っ、ひぃ!」
全部の神経が左胸に集ったような痛みだった。
左手はもはや支えていられず、右手は噛みきられる苦悶に暴れた。
紐でつながったクリップのもう一片はだらりと下がり、左胸に食いこむそれのおもりとなった。
「い………っ、っく」
身をよじったせいか、それとも両手が胸のあたりをかきむしったためか、軽い金属の音を立てて、床に落ちた。
「まだカウントもはじまっていない」
藤吾は短く呟き、拾いあげたそれを僕に手渡した。
僕は手の平で鈍く輝くクリップを、たった今噛みついてきた凶器を、海に投げ捨てたい衝動にかられた。
想像の中で僕はなんども投球フォームをとり、闇の海のはるか遠くに投げてやった。
あわてふためく藤吾を見て、溜飲を下げた。
けれど現実の僕は、震える手で、右でもない左でもないと迷いながら、
忌まわしいクリップを敏感な突起に噛みつかせる位置を探っていた。
- 490 名前:テュランの筏9/12:2006/11/18(土) 12:17:26 ID:A6MrKfG80
- 二度目は、手がこわばりすぎた。
突起の表皮だけを噛んでしまい、すぐに外れてしまった。じんわりと内出血するような痛みだけが残った。
三度目は、目をつぶっていたのがまずかった。
肌色の皮膚部分まではさんでしまい、痛みはそれほど強くなかったものの、藤吾にいらだちの舌打ちをさせてしまった。
彼はポケットの手錠を取り出しながら近づいてくる。
怯えてしまい、逃げるなんて思いつかなかった。
藤吾は僕の両腕をとり、背中でひとまとめにする。
肩の関節に鈍い痛みが走り、僕は悲鳴をあげた。
が、そんなの意にも介さずカシャン、カシャンと手錠の機能が発動する音が響いた。
手馴れた様子で藤吾はそのまま、胸のクリップをあやまたず、しっかりと噛みつかせる。
右と左の胸に一度に痛覚が集中し、目の裏で何かがはじけた。
「っ………くぁ、ああっ」
自分では暴れようとする意思はないが、勝手に胴体が左右に揺れる。
両胸の突起をつなぐ紐がぶらぶらと合わせて揺れた。
腕にも無意識に力がこもっているのだろう。
鎖がガチャガチャと鳴り響き、手首が鉄の輪にすれて痛かった。
「カウントを開始する」
トランクに腰かけた藤吾は、時計の盤面を眺めたあと、別のポケットから小さな機体を取りだした。
胸への責めに喘ぎを押し殺す僕は、それが何だが悟り、大きく目を見開いた。
楊玲の声を大きくも小さくも調整した………刺激を与える、リモコンだ。
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