ハウゼンが叫んだ言葉にはっとしたフィルシスは、その向こうを見ようとした。
不気味なハウゼンが、いつこちらに向かってくるかと、強張らせていた体が、その時、不意に宙に浮くような感じがした。
一瞬、何かわからなかったが、抱き抱えられていた。
「ラーク…!」
思わず安堵して、名前を呼んだ。
幻獣に乗ったラークだった。
「大丈夫か?」
黒馬の幻獣は、ハウゼン達が振り向いた方、シャーレンの隣に着地した。
シャーレンはハウゼンを冷たく見据えていた。
今まで自分に見せた意地悪な冷たい微笑みが、比にならないぐらい冷たい顔だった。
きっと今のが、ラークが先程言っていたような、自分に出会うずっと前のシャーレン…
自分とラークが隣に来ても、振り向きさえしない。
久々に味わう、こんな戦場の空気の中で、思って良い様なことではないけれど、シャーレンを少し遠くに感じた。
ハウゼンに向かって魔法を使ったようだった。
その隙に、ラークが自分を連れ出してくれたのだ。
だが、放たれた魔法は、一緒にいる者がそれを防いでしまった。
シャーレンはいつも変な事にしか魔法を使わないけれど、最高位の魔術師のはずだ、この世界でも、向こうの世界でも。
ラークも、その表情は不審がっていた。
「シャーレン…」
ハウゼンが殺意のこもった視線を向けた。
誰が見ても、ハウゼンをよく知らない自分でも、剥き出しの敵意があるのは明らかだった。
「お前を見たのは二十年ぶりか…」
ハウゼンは、そのまましばらくじっとシャーレンを眺めていた。
仮面の下の瞳が、何を思っているかは本人にしかわからないが、その口元は忌々しそうに切り結んでいた。
やがてくっと笑って、口を開いた。
「オレを罠にかけたつもりか?お前、行方を眩ましていたオレをおびき出すために、聖騎士を生かしておいたのだろう?
何せそいつを殺せば暗黒神様は蘇る、オレが狙わないわけないからな。
そうしておびき出したオレを始末してから、その聖騎士を殺して暗黒神を蘇らせるつもりなのだろう?」
フィルシスは思わず不安になった。
きっとそれはないと思うけれど、たまらなく不安になった。
だが、ずっとハウゼンを冷たく見据えたままのシャーレンに、真意を聞く暇はなかった。
「お前の思いたいように、思えばいい。
お前がわざと罠にかかってくれたのだとしても、会いにきてくれたのには違いないからな」
形だけは美しく微笑んでそう言ったシャーレンに、ハウゼンは瞳に憎悪を浮かばせたまま、唇の端をつり上げた微笑を浮かべた。
「…オレがどうして、お前のかけた魔術を破ることができたか、知りたかったんだろう?
もしも、お前の考え通りなら…どうする?」
侮るようにハウゼンが聞いた。
話の内容が、フィルシスにはわからないものになっていった。
「別に関係ない、邪魔をしているのには変わりない」
一際冷然と言い返すシャーレンに、ハウゼンは苛々と叫んだ。
「そんなに必死に探さなくても、直にまた会える…その時が、お前の死だがな…
地を這って、許しを請うても、オレがお前に与えるのは苦しみの果ての死だけだ」
呪う様な目で睨み、吐き捨てた。
禍々しい赤い竜が、翼を羽ばたかせ、闇夜に消える。
冷たい空気だけが後に残った。
「……」
フィルシスもラークも雰囲気に呑まれ、何もしゃべることができなかった。
ハウゼンは去った。だが、まだイグデュールがいた。
再び緊迫した空気が流れた。
「先程の話、全部聞いていたぞ、やはりお前は生かしておけん」
先にシャーレンが、ハウゼンの向こう側にいたイグデュールに冷たい視線を向けて、利き腕を構えた。
「ちょっと待って…!」
はっとしてフィルシスは、慌ててシャーレンにしがみついて止めた。
すがりつくようなイグデュールの声は忘れていない。
「邪魔しないでください」
しかし、しがみつかれた衝撃に、シャーレンの呪文の詠唱は止まった。
「今の内に逃げていいぞ」
とりあえずラークは、シャーレンに睨まれたが、イグデュールに向かって叫んだ。
「僕が言ったこと、もう一度考え直してみてね」
その隙に、イグデュールは鬼虎にまたがってその場を去った。
ふっと笑みを洩らして、フィルシスにそれだけ言い残して。
しかし、イグデュールが自分の屋敷までもう少しという所で、目の前に、毒々しい竜がそっと現れた。
「ハウゼン…!帰ったんじゃ…」
いきなり眼前に立ちはだかったハウゼンに驚く。
「オレが本当に用があったのは、お前だ」
ハウゼンが、醜い火傷の跡の残る口を歪ませて、不敵に笑う。
「…僕は君とは手を組む気はない」
ハウゼンをとても信じる気にはならなかった。
用済みになれば、捨てるとも限らない。暗黒神官にしたように。
捨て駒にされてはたまらない。
それに、彼は無口な上に、目元に白い仮面を被って素顔を隠している。
火傷のような跡も、それを隠す仮面の理由も、教えてもらったこともない。
ハウゼンと同じぐらいの年月を生きてきた者は、今はもうおそらくいない。
得体の知れないその過去を知る由はない。
「それに、僕は確かに向こうの世界に憧れているけれど、それは君のように、思い通りに変えたいわけじゃない」
色とりどりの美しい風景に囲まれてみたかった。
たがハウゼンはきっとそれを壊す。
「なあ…イグデュール…」
イグデュールが無意識のうちにじりじりと後退りしていると、ハウゼンが地の底から響くように言った。
「何故街の人間をさらったか教えてほしいか」
唐突にハウゼンが話を続けた。
「生け贄だ、そうすると暗黒神様の精神が、少しの間召喚できるんだ…」
「何…!」
姿を消していた間、そんなことをしていたのか。
「お前も生け贄にしてやろうか、お前の親がしたように。お前なら、上等な生け贄になれるぞ」
「……」
イグデュールはハウゼンが去る前、まだ、同じ暗黒神官の下にいて、行動を共にしていた昔を思い出した。
ハウゼンは、何が彼をそうさせたかは知らないが、人の弱みにつけこんで、手玉にするのが上手かった。
自分の思い通りに動かすのが好きなのだ、彼の十八番の召喚術のように。
「今のうちに、オレについておけば、やがてオレが世界を支配する時、良い地位を与えてやる」
仮面の下から覗く不気味な瞳がじっと見る。
隠された素顔からは表情が読めない。
「……」
しかし今はとりあえず、おとなしくハウゼンにつくのが良いのかもしれないと、思った。
ハウゼンとシャーレンが共倒れしてくれる可能性もまだある…。
「他にもいるのか、君の仲間が…その人は誰だ…」
そう考えて、先程から気になっていた、実力だけは認めるシャーレンと互角の魔術師の正体を、恐る恐る聞いた。
「もう、予測はついてるだろう?」
再びハウゼンは歪んだ笑みを浮かべた。
「……」
黙り込んで返答を待つイグデュールに、ハウゼンは連れの者の黒いフードを脱がせた。
「…っ!」
衝撃に言葉が詰まった。
月の光に、照らしだされたのは、記憶の中と変わらない美しさだった。
腰程まであるきれいな青い髪と、紫がかった青い瞳、シャーレンとそっくりな顔立ち…
「ト…トゥリス…!本当に…」
ラークとシャーレンの一代前、先代の騎士団長と魔術師が死んだ時、
その跡を継ぐ候補に挙がるほど、優秀な魔術師だったが、その時謎の疾走を遂げた。
そして、シャーレンの実の母親…
「生きていたのか…」
イグデュールは古い記憶を遡った。
美しい顔、妖艶な肢体を持った彼女は男たちの憧れだった。
「君も好きだったのか…。だから…」
いつもハウゼンは、シャーレンを冷たく見ていたのか。
ただでさえ、召喚術のように、他を完全に支配するのが好きなハウゼンが、
自分が好きになった女の、別の男との間の子供を、好きになれるわけがなかったようだ。
「信じられない…よく君になびいたね…」
彼女は何人もの男に言い寄られながらも、誰かを愛することはなかった。
彼女が没頭したのは魔術の研究だけだ。
それが何故今更、こんなに得体の知れないハウゼンを選んだのだろう。
「あんなに魔法の研究にしか興味がなかったのに…」
そこだけはシャーレンに同情した。
彼女は一度だけ、魔法の一種、性魔術の研究のために、あの時の四天王の魔術師と体を重ねた。
その時生まれたシャーレンを、捨てようとしたのを、暗黒神官様が止めた…。
優秀な魔術師二人の才能を受け継いだ子供だったのだから。
それでもイグデュールは、自分の両親に比べたら、あんなに才能あふれる両親を持ちながら、全く尊敬していないシャーレンを疎ましく思っていた。
「そうだ、必ずオレの言うことを聞いてくれる。お前もそうなる。何故なら…」
続きは、闇の音にまぎれるようにひっそりと、イグデュールの耳元で囁いた。
先程のハウゼンを出し抜こうという考えが、消えてしまったようにイグデュールの表情が、怯えの混じったものに変わった。
「さあ、お前にも来てもらうぞ…」
ハウゼンの、火傷の跡が残る醜い手が、イグデュールの震える腕をつかむ。
「何、恐がることはない…お前はあいつらが生まれてくる前からの、ずっと長いつきあいだ。
悪いようにはしない。それに、世界はいずれオレが支配するんだ…」
いつの間にか周りは、ハウゼンが召喚したらしき、漆黒の獣が囲っていた。
「さあ、次は、騎士団の所にでも行ってみるか。騎士団長はお優しい。
敬愛していた先代騎士団長から受け継がれた、自分の部下が去ってしまうのが、平気でいられるはずがない…」
乾いた空に、くすくすと不気味に笑う声が響いた。
虎の幻獣に乗って、瞬く間に去ったイグデュールに、シャーレンが舌打ちした。
「手なんか繋いで、仲良く私を倒して、今度はあいつのペットになるんですか?」
不機嫌そうに、冷たくそう言ったシャーレンに、フィルシスは犬のような三角の耳をしゅんとさせた。
「違う…」
フィルシスはシャーレンにしがみついたまま、俯いた。
「そう言ってやるなよ、こいつはお前と違って、心の広いやつなんだから、仕方ないだろ」
そんなフィルシスを見て、ラークがそう言った。
シャーレンに対してだけは、甘える子供のようなのに。自分ではわかってないのか。
「そんなに心が広いなら、私があいつを一人ぐらい始末しても許してくれますよね」
シャーレンがぼそっと呟いた。
「……」
機嫌の良くないシャーレンに、黙ってしがみついたままのフィルシスを見て、ラークは手助けしてやった。
「お前も、そんな子供みたいにしがみついて、やっぱりシャーレンが好きなんじゃないか」
はっとしてフィルシスは、恥ずかしくなって、慌ててしがみついていた手を離した。
そんな行動を、シャーレンがとても楽しそうに見ていた。
「で、これからどうするんだ…?」
「あいつの潜伏場所が、どうしてもわからない以上、向こうがまた来てくれるのを待つしかないな」
吐き捨てるようにシャーレンが答えた。
「ハウゼンの土俵で戦うことになりかねないのか…」
少し真剣にラークは呟いた。
ただでさえ、ハウゼンは四天王の召喚術師で、強力な魔物を喚び出せるという厄介な相手なのに。
それでも、ハウゼン自身は虚弱そうな外見どおり、そう強くなく、彼だけならまだ良かったが、シャーレンと互角の魔術師がいる。
「お前の聖剣が頼りになるな」
「……」
ラークに軽く肩を叩かれて、険しい面持ちでフィルシスは頷いた。
だが、自身の複雑な気持ちに目を向けすぎていて、シャーレンが一瞬だけ、ほくそ笑んだのに気づかなかった。
「ハウゼンも、もう殺したくないって?
でも、やらなければ、お前が殺されるんだぞ、今度の相手はイグデュールとは違うんだぞ」
フィルシスの心中を察したように、ラークがはっきりと言った。
「分かってる…」
「きっとその時は、惨たらしい殺し方をするんでしょうね。自分に逆らった者への見せしめに」
「……」
またぼそりとシャーレンが呟いた。
意地悪く言うたびに哀しくなるのを、ラークの前で強がって耐えるフィルシスが、可愛らしくて仕方ない。
「そうならないように、頑張れよ」
色々な励ましの意味を込めて、ラークはもう一度、軽くフィルシスの肩を叩いた。
「問題は、いつハウゼンが仕掛けてくるかだな…どこにいて、何をしているんだ…」
「…あいつは世界を支配したいと言っていただろう。
暗黒神は蘇らせるには違いないだろうが、蘇らせたのは自分だと、暗黒神にもこの世界の全ての人間にも、知らしめたいはずだ。
その準備でもしているのだろう、そうしなければ、蘇った暗黒神の気をひこうとする者達が殺到するからな」
シャーレンは、暗黒神官がフィルシスを暗黒神の目の前で殺そうとしたことを思い出した。
ただ、今までハウゼンは隠れていたのだから、神官のように、この世界の者にはまだ十分に知られていない。
「なるほどな、それともう一つ、気になることがあるんだ。
団長の霊が、俺にハウゼンに気をつけろと言ったのはどうしてだ…?
ハウゼンにつこうとするやつが出てきて、騎士団が分裂するという意味か…?」
ラークは、先代の騎士団長からの、召喚術師に気をつけろという伝言を思い出した。
あれから、自分なりに考えもしたが、どういう意味なのか見当がつかなかった。
「わからん…。だが、ハウゼンにつく者が出てきたとしても、気をつけろなんて言うか?」
シャーレンも、明確な答えは出てこなかった。
むしろ、先代の団長は神官に忠実だったのだから、ハウゼンの味方をしても、不思議ではないのに。
「でも実際に、ハウゼンにつくやつらは出てくると思うし、俺にはそいつらを止められるとは思えない…」
今はシャーレンが、フィルシスに手を出させないように脅しをかけているけれど。
だが部下達は、ハウゼンのことも同じぐらい恐れていて、敬ってもいたはずだ。
どうせなら、同じ野望を持つハウゼンにつくに違いない。
「……」
ラークの言葉を聞いて、フィルシスはそっと目を伏せた。
自分のせいで、こんな自体が引き起こったのだから。
「そんな顔、するなよ。お前が悪いって言ってるわけじゃないって」
はっと気づいて、困ったようにラークが言った。
「…うん…ありがとう…」
それでもフィルシスは暗いままの表情で頷いた。
「どうせ何をしても誰かは不満に思うのだから、私のことだけ考えなさい」
今度は、シャーレンはフィルシスに向き直って、はっきり言った。
「……うん…」
今度は一瞬だけ微笑んで、頷いた。
自分がいなくなったら、シャーレンは悲しんでくれるんだ…。
「じゃあ、今日はもう何も進展は無さそうだし、俺は一旦戻る」
結局はシャーレンの言葉に一喜一憂するフィルシスと、それが楽しそうなシャーレンに、苦笑してラークが言った。
「ああ、気をつけてな」
「お前らもな」
そう言って、黒い馬の幻獣に乗ると、ラークは騎士団の宿舎に帰って行った。
シャーレンと二人きりになると、フィルシスは言いたい事がたくさんあった。
何から話せば良いか、わからなかった。
「…あの人…」
思い出したくない記憶を辿る。
「あなたの生まれた街を滅ぼした、ハウゼンです」
心の中を読まれたように、シャーレンに先に言われた。
密偵だったシャーレンが、それを知らないわけがなかった。
「仇を討ちたいと、思いますか?やっぱり私を恨みますか?私が密偵をしていたから、あなたの故郷は滅んだのですからね」
フィルシスはハウゼンの近くにいた時は、幼い頃の恐怖で、頭がいっぱいだった。
だが、離れると、忘れていた感情を思い出した。
身を裂くような憎しみ…
あたたかな故郷を、優しかった街の人を、大切な家族を奪っていった人…
思い出さずにはいられない、ハウゼンに向かっていって、返り討ちにあった大人達…
襲ってくる魔物に喰われていった婦人達…
瓦礫に埋もれていった自分と同じ年頃の子供達…
無残に殺されていった家族の姿を…
それでも、自分もこの世界の大切な人を手にかけたのかもしれないから、
もう仇を取ろうと思ったり、憎んだりしてはいけないと思っていたけれど、頭では分かっていても、心は苦しかった。
誰かを恨むのは、辛い。
「……」
それでも、最後まで、自分を逃がすために、盾になって死んでいった、あの優しかった街の人や両親が、
今、自分の心が憎しみで染まって、苦しむことを望むだろうか。
また新たな、誰かの憎しみを生み出すような、仇討ちを望むだろうか。
きっと、そんなこと、望まないでいてくれる…そう信じたかった…。
例え仇だったとしても、誰かを殺したいと思うような自分になるのは嫌だった。
誰かを殺すために、聖騎士になりたかったわけではないんだ…。
誰かを幸せにするために、聖騎士になった。
「わからないよ…」
どうして運命はこんなに皮肉に絡み合うのだろう。
もしも、故郷が滅びなかったら、家を継いでそのまま過ごしていただろう…
聖騎士にはならなかった…
ローナに…聖騎士団のみんなには、きっと出逢えなかった…
聖剣に選ばれて、こうして向こうの世界を救えなかった…
シャーレンに、出逢わなかった…。
そもそも、聖剣が純粋な心の持ち主を選ぶのなら…
自分はほとんどシャーレンに育てられたのに…
あの時、あんなに優しくて、自分や他の聖騎士、宮廷魔術師、そしてローナを支えてくれたシャーレンを見て、
自分もそんな風になれたらと、思っていたのに。
そんなことを打ち明けたら、シャーレンは何と言うだろうか。
それでも、シャーレンが暗黒魔法を使えなければ、自分はあの時きっと、死んでいた…。
そんな運命を、恨んでいいのか、わからない。
だからもう、恨み辛みを考えたくなかった。
ただ、これからも側にいて欲しい。自分を好きでいてくれるなら、それで良かった。
「シャーレン…あの人が言ってたこと、嘘だよね…」
弱々しくフィルシスは聞いた。
シャーレンを疑うことになってしまう質問だけれど、つい口をついて出てしまった。
「まだ、そんなこと言うんですか?ハウゼンのことは信じるのに、私のことは信じないんですか?」
シャーレンは、わざと哀しそうな表情でそう返事した。
だが内心微笑んだ。
それは自分がどう思っているかを、心配している証拠だから。
「…!ごめん…」
言ったことを、ひどく後悔して、フィルシスはまた白い耳をしゅんとさせた。
「分かればいいんですよ」
さっと笑顔に戻る。
かわいいと呟いてシャーレンはフィルシスを抱きしめた。
寄り添って来る、頭をなでた。
「シャーレン…」
「今度は何ですか?」
なでられて、少し落ち着くとフィルシスは、ハウゼンのことですっかり忘れていたことを思い出した。
「じゃあ、最初から、あの人をおびき出そうとしてたんだ…」
「ええ、そうですよ」
今までのことを、シャーレンはフィルシスに話し始めた。
「以前あなたが、あの匂いがすると答えた街…ハウゼンが立ち寄ったと思われる街は、狂信者の多い街でした。
ハウゼンは彼らをこっそり連れ去っていた」
「うん…」
「あの時、街を回った時、私は魔術で罠をかけました。ハウゼンが来たら、そこから動けなくなるように。
でも、その魔法は破られていたのですよ。おそらく破ったのは、先程ハウゼンが連れていた者…」
魔法を解除できるのは、仕掛けたのと同じか、またはそれ以上のレベルの魔術師でないとできない。
破ったのはおそらく、騎士団長の霊が言っていたように、先程何故かハウゼンと共にいた、口にするのも忌々しいあの女だ。
ただ、そこはフィルシスには伏せた。
「で、そういう訳で魔法も効かないし、信頼できる暗黒騎士達が、街以外を捜索しても見つからないし、
罠だと思われてもいいから、試しにあなたを一人で外にいさせようということになりました。
暗黒神を蘇らせるには、聖剣を使えるあなたの命が必要だから、ハウゼンはあなたを必ず狙うはずですからね」
フィルシスは、今になってやっと教えてくれたシャーレンの話を、しばらくよく考えた。
大変な事件になりそうなのはよく分かった。それでも腑に落ちないことはある。
「それなら…最初から、囮になってと言うだけで、良かったじゃないか…賭けなんてする必要、なかったじゃないか…」
フィルシスは消えそうな声で、シャーレンをじっと見上げた。
「そうですね、全然気づきませんでした」
優しく微笑んで、フィルシスの頭をなでる。
「嘘だ…!」
「仕方ないでしょう、ハウゼンに会うのは、あなたはきっと嫌がるだろうと思いましてね」
「嘘だ…わざとだ…」
目を伏せてフィルシスは黒衣を弱々しく握った。
そんなに親切な気持ちはあるのに、どうして行動は優しくないんだろう。
涙がぽろぽろこぼれた。
「わかってるなら、それで良いじゃないですか」
シャーレンは拗ねるフィルシスをなだめるように抱きしめた。
腕の中でじっと甘えるフィルシスをしばらく抱いてその手をひくと、夜の道を歩きだす。
「ほら、帰りますよ」
「うん…」
フィルシスは、寂しい幻術と恐ろしい記憶を思い出した。
隣でシャーレンの手を握る。
しっかりと握り返してくれるのを感じて、本当に一緒で良かったと思うのに。
時々虫の鳴く声が聞こえる以外、静かな夜は、何の変哲もないように思えた。
ただハウゼンが、赤い竜に乗って、暗い上空から、その様子をじっと見ていたのを、三人は気づいていなかった。