「…そろそろ諦めたらどうだ…!」
激痛に耐えながら、ルシュヴンは膝の上のシクロに呟いた。
「お前こそ…!」
同じように、息を弾ませながらシクロも言い返した。
お互い一歩も引かないまま、二人の血だけが流れていった。
「………?」
だが、人間よりも遥かに気配を感じ取るのに優れている二人は、同時に体の動きを止めた。
夜の空気の間を流れて、どこかで不気味な魔力が放たれている。
「何だあれは。お前も気づいたんだろ…嫌な気配がする…お前の魔力の匂いに似てるけど、少し違うな」
シクロはじっと長い耳を澄ませて、囁きかけた。
闇の住人の気配。
まだ遠くにいるが、確実にこちらに近づいてきている。
「…また敵か」
暗い面持ちでルシュヴンは呟いた。
夜目の効くシクロが、そんな表情を見ても、痛みのせいだと思うかもしれない。
だが、違った。
シクロは知らないその魔力が誰のものか、自分には分かったから。
「…続きはまた後にするしかないな。解いてやるから、君もさっさと退いてくれ」
ルシュヴンが指を鳴らすと、シクロの体に食い込んで、絡み付いていた茨が消えた。
ただ、滴る血だけが後に残る。
「……恩着せがましい言い方だな。お前だって痩せ我慢してるくせによ」
シクロがわざと荒々しく後孔から引き抜いて立ち上がると、ルシュヴンは痛みに眉をひそめた。
だが、ほんの少量しかなかった聖水に触れなくなると、ルシュヴンの爛れたような傷跡はすぐに癒えた。
乱れた着衣を整え終えると、体に血がついたまま、脱ぎ捨てていたコートを羽織ろうとしているシクロの方を見た。
「そのまま着たら、服が汚れるだろう」
コートを持っていたシクロの手首を掴む。
視線は流れる血を見ていた。
「俺がお前におねだりするまで、吸わないって事だったんじゃなかったのか?」
半分固まってはいるが、血はまだ少し流れたままだった。
人間よりも体力や自然治癒力を上回るダークエルフでも、一瞬で傷が癒えるわけではない。
傷を受けてもすぐに治癒する不死者とは違った。
「吸わないさ、舐めるだけだ。君だってその方が、血が拭えていいだろう?」
シクロの腰を掴んで、その体に目を向ける。
「結果的にはお前に血をやる事になるじゃないか、屁理屈こねやがって……く……!」
少し屈んだルシュヴンが、鎖骨に唇を寄せた。
傷口にそっと触れられると、そこから、痛みと疼きが全身へ波紋のように広がっていく。
「君は本当に感じやすいな。今まで一体、何人と寝てきたんだい?」
そっと舌を添えると、表面に浮かぶ赤い血の雫と一緒に震える肌。
「お前には関係ないって、何度も言って……」
いくら自分でも、ただ舐められるだけで腰が砕けそうになったのは、吸血鬼が初めてだと思ったが、負けたような気がするので言わなかった。
「……ッ!」
舌が肌を妖しく這いまわって、血を求めて探ってる。
胸元から腹部へ流れる血の筋を、ゆっくり舐めとられていった。
傷口を刺激されて痛むはずなのに、そこにはこの身を炙る官能しかない。
腰をつかむ手にも、そっと動く舌にも、生きている人間の温かみは無いのに、何故こんなに熱く感じるのだろう。
「ん…っ」
生き血の筋をこね回して濡れる舌。
その動きに弄ばれて、最初の晩に咬まれた場所が熱くなり始めた。
体が覚えている。
あの夜の、痺れるような痛みと快感。
あんなにも一瞬だったのに、体の中に深く深く根付いてる。
ただゆるやかに血を舐めとられているだけなのに、身体の奥がじくじくと疼いていた。
「……!」
突然の不気味な気配に中断される快楽。
「来た…」
どんどん近づいてくる魔の存在に備えるため、シクロはルシュヴンを突きとばして離れた。
気持ちよくなって、勃ちあがってしまっていた性器の疼きがもどかしくて、自分でしごいて吐き出す。
「情緒の無い事をしないでくれないか」
折角ゆっくり味わっていたのにと思いながら、ルシュヴンが不平を言った。
「そんな悠長に構えてる場合かよ」
そう答えながら、シクロは乱れまくった衣服をてきぱきと整えた。
歩いてきた道を振り返ると、追手達が遠くにいるのが見える。
人間よりも視力の良い二人は、その姿形をはっきり確認する事ができた。
「あいつらは……!」
死んだはずの昨日の追手達だった。
だが、彼らの頬の肉はそげおち、肌は灰色に変色しており、目は虚ろだった。
「何だアレ。お前まさか、お仲間を増やして俺をはめる気か?」
死体が動くなんてありえない。
主に考えられるのは、悪霊が取り憑くか、ネクロマンシーの呪文で蘇らされるか、そして、夜の世界の魔物が新しく命を吹き込むかだ。
「僕はあんな悪趣味じゃない」
理性の欠片も感じられないような姿を見て、ルシュヴンも顔をしかめた。
「人の血を吸う時点で充分悪趣味だけどな。で、あれは結局どういう事だ」
少し苛立たしげにシクロが聞く。
「あれは…血の契りを交わした吸血鬼とは違う。
確かに彼らも生き血を求めるが、ただの醜い亡者だ。
主人の魔力がなければ存在すらできない。
吸血鬼の誰かが、彼らの死骸を生ける屍に変えたんだ」
「お前の知り合いのおっさんか?」
「…正確には違う。僕と同じように、あの男が吸血鬼にした別の男の魔力を感じる」
イノベルク…
あの男はいつだって、自分を唆し、自分の周りのものを消していった。
家族も、大切だった人も…
あれからもう、今は哀しみも絶望も感じなくなる程、時が流れたけれど。
今度はシクロを消そうとでもしているのだろうか。
自分がこいつを気に入ってるとでも、勘違いしているのだろうか。
ただの獲物だ。
それはシクロにとっても同じはずだ。
「ああ、だから、お前と似てるが、少し違う匂いなんだな。で、あれも日光を浴びない限り死なないのか?」
「いや、彼らの魂を呪縛しているあの魔力を打ち破れば…」
あの男の事を考えるのは止めて、目の前の事態に集中する。
「でも、お前よりあっちの魔力の方が強い気がするぞ」
「その男は僕よりもずっと前から、吸血鬼だからな」
デュイ…
自分が吸血鬼にされる前から、あの男に付き添っていた。
あの男は、吸血鬼が陽光や聖水を浴びればどうなるかを自分に教えるために、デュイの左腕を日の光に晒した事や、聖水を体にかけ癒えない傷をつけた事もある。
彼の本心など知った事ではないけれど、あれ程傷つけられて、何故あの男に仕えていられるのだろう。
「じゃあ、お前じゃその男の魔力を打ち破れないじゃねえか」
「彼らを呪縛している魔力は強大かもしれないが、彼ら自身は脆いはずだ。
君は、あの物騒な聖水を持っているだろう」
先程の痛みを思い出して、ルシュヴンは嫌な顔をした。
「聖水じゃなくて、お前が物騒なんだよ」
ぼそっと呟きながら、シクロは聖水の小瓶を取り出した。
「それだけしか無いなのか?」
彼らの弱点である神の祝福を受けた水でも、三人相手には少量過ぎる。
「まさか他に隠し持っていたりしないだろうな?」
「どちらにしろ、たくさん手に入ったら、真っ先にお前にぶっ掛けてやるよ」
「それはそうだろうけどね。でも今は、僕よりも厄介なのがいるじゃないか。そんな少しだけでどうするんだ」
「お前、あいつらを倒せないくせに偉そうだぞ」
品の良い立ち居振る舞いのまま、そう言うルシュヴンの高圧的な態度に、シクロは文句を言った。
「とにかく奴らの動きを止めて、日が昇るまで逃げときゃいいんだ。さあ、薔薇をいくつかよこせ」
だが、どうしようもないわけでは無かった。
言いながら、シクロ蓋を開けた。
聖水の瓶に、ルシュヴンから受け取った赤い薔薇を挿す。
しばらくして、瓶から抜いた。
青々とした茎の表面を、銀色に輝く雫が包み、そっと滴り落ちる。
「俺があいつらに投げるから、当たった瞬間に昨日みたいに茎で突き刺せるようにしろよ。
聖水に浸したこの薔薇なら、やつらにとっては凶器になるだろ」
ルシュヴンが頷くのを見て、シクロは茎の方を三人に向けて薔薇を構えると、ダーツのように投げた。
同時に、エルフの使う魔法の一種、風の精霊の力を使う。
疾風のように鋭く真っ直ぐな軌跡を描いて、茎の先端は瞬く間に屍鬼達の心臓に触れた。
その瞬間に、ルシュヴンは魔力で薔薇の茎を硬く鋭く尖らせて、彼らの胸に突き刺した。
「やったか…?」
地面に倒れた三人を見ながら、シクロが呟いた。
「倒れたが、魔力が消える気配はないな」
ルシュヴンも、相手の様子を観察した。
まだ、しぶとく蠢いているのが見える。
いくら完全な吸血鬼ではないとはいえ、さすがにあれだけでは聖水は足りないようだ。
「まあいい、たとえ生きていても、しばらくは動けないだろ。今の内に逃げようぜ」
「……」
歩き始めたシクロの横顔を見た。
自分はただ、その血が欲しいだけ。
手を貸して生かす理由も、ただそれだけだ。
「昨日蘇ったばかりなら、空を飛べる程の力はまだないだろう」
ルシュヴンはシクロの手首を掴んだ。
「何?」
いきなり掴まれて、少し驚いたシクロが聞き返す。
「飛んで行った方が速い」
そのまま夜の空に舞い上がる。
輝く月を背景に、闇の中を駆けていく。
「……!」
いきなり宙に浮いて、驚いたシクロは無意識の内にルシュヴンの腰にしがみついてしまった。
それは速すぎて、飛んでいるのかどうかも分からなかった。
足元の景色が、風のように後ろに流れていく。
今この瞬間までの自分は、夜空を駆ける事も、誰かに連れられる事も、そんな時間が来るとは思いもしていなかった。
それは、とても不思議な感覚だった。
川を越えた所で、ルシュヴンは着地した。
「そんなに怖かったのか?高い所が怖いなんて意外と子供だね」
自分の服を握っているシクロを見て、からかうようにそう言った。
だが、百年程、誰にもそんな風にされていなかったルシュヴンは、内心少し照れるような、自分でもよく分からない感情がこみ上げ、戸惑ってしまった。
「お前がいきなり飛ぶからだろ!」
シクロは自分の仕草に驚くと、慌ててルシュヴンから離れた。
無言のまま、木の側に座り込む。
「俺は寝る。今日はもうだるい」
「何……」
確かに先程の行為で、疲れるのは分かるが、血を狙っている自分の横で寝るなんて。
シクロから言ってくるまで吸わないとは言ったが、そんな約束はあって無いようなものだと、本人も承知しているはずだ。
いや、まさか、本当に信じていたりするのだろうか。
「………」
無防備な今なら、最初の日にそうしようと思っていたように、一瞬で血を吸いきれる。
今までも、ただの獲物と思った相手は一瞬で終わらせた。
何日もかけてゆっくり吸って、快楽の世界の中で終わらせてあげたのは、気に入った者だけだった。
それとも、もしもこのまま、長い間一緒にいる事になれば、気に入ってしまうのだろうか?
「………ぐ…う…あぁ…ッ」
地を這ったまま、もがき苦しむ三人の下僕達の前に、彼らの主人が現れた。
「申し訳ございません、わたくしの力が足りなかったばかりに…」
憐憫とも見下しともとれる表情を彼らに向けながら、デュイは呟いた。
「いや、まだいいんだ…今の内に、ああして協力しあっておけば良い…。そして、一番最後に全てを……」
三人の胸に刺さっている薔薇を抜きながら、黒髪の吸血鬼が呟く。
「羨ましいかね?」
目を細めて、すぐ側にいる眷属に語りかける。
「いえ……」
表情を変えないまま、デュイは呟いた。
嘘だったが、側に置いてもらえるだけで十分で、我侭を言って主人を困らせる気にはならない。
「彼らはまだ、力が足りないんだ」
無表情のまま、デュイから視線を外し、イノベルクは再び呻いている屍鬼達を見た。
「お前がもっと与えてやりなさい、デュイ」
「え……」
そう言われてデュイは、昨日まで人間だったのに今は、まるで化物の様相を見せている三人を凝視した。
鋭く尖った黄色い歯、長い爪。
暗い闇の中で、真っ赤な目が爛々と輝いている。
こんなものに、主人以外のものに、自分の血を吸わせるのだ。
「私の命令が聞けないか?」
「いいえ…」
射るような視線にたじろいで、跪いたデュイを見て、イノベルクは冷えた笑みを浮かべた。
「では、お前達。食事の時間だ」
三匹の下僕に指で合図すると、デュイに群がり始める。
「あ…ッく……!」
服の上から容赦なく咬み付かれる。
理性の無い彼らの咬み方は獣のようだった。
布も肉も、それごと喰い千切り、溢れた血を荒っぽくすする。
「ん…く……あぐ…」
脇腹や内股、色々な場所に咬みつかれ、血を啜られ、悶えるデュイを、彼の主人は面白そうに眺めていた。
「きちんと教えられたようだな」
血の海の中でぐったりとしているデュイの体は、至る所が咬み千切られていた。
傷が癒えていくのに身を任せているデュイの頭を、屈み込んだ主人の大きな手がなでる。
「ご主人さま……」
ほんのたまに優しくしてくれる。
他には誰も、そんな人はいないし、いなかったから。
だから、ずっと側にいて仕える事が、自分にできるたった一つの、精一杯のお礼。
激痛の中で思い出す。
暗闇の世界に独りきりでいた事。
誰にも知られずに、一人きりで静かに消えていくのだと思っていたけれど、救い主が光をくれた。
それが、冷たく残酷な吸血鬼でも。
「明日もしっかり餌をやるんだぞ」
形だけの優しい微笑み。唇の間から二本の牙が覗く。
だけど、それでも良かった。
主人のする事全てを分かっている上でも、全てを受け入れられる。
「…仰せのままに……」
先程の激痛を思いだしながら、デュイはぐったりと頷いた。
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