雨宿り
(6)
ヒカルが自分のことを好きではないことは、すぐに知ることができた。
ではいったいどう思っているのだろうか。
聞きたいが、聞いてどうすればいいのかわからないので、聞けずじまいだった。
アキラとヒカルは碁会所が終わる時刻まで残ることが多くなった。二人きりになると、ヒカル
が身を乗り出してくる。アキラは動かないまま、自分自身に言いきかせた。これは自分の意志
ではない。ヒカルが勝手にしていることなのだ。仕方なく付き合ってやっているのだ。
触れる唇の柔らかさにしびれそうになる。
「好きだよ、塔矢」
ヒカルは笑みを浮かべてささやく。だがその響きには何もこめられていない。
「……ボクはこんなことをしたくない」
「うん、塔矢は悪くないよ」
言いながらヒカルはしゃがんだ。椅子に座ったままのアキラを上目遣いで見てくる。
先ほどまで碁石をつかんでいた手で、ファスナーをゆっくりと下ろしてくる。
アキラは見ていられなくて目をぎゅっと閉じた。
生暖かく、湿ったものに自身が覆われるのを感じた。声が出ないよう喉の奥に力を入れる。
どうしてこんなことができるのだろうか。薄目を開けて盗み見る。
ヒカルは両手を添えてアキラのモノを一心に舐めていた。すでに手のなかで大きくなっている。
興奮している自分が恥ずかしかった。
長年ヒカルを追いつづけていた。それはこんなことをするためではなかったはずだ。
そう思うのに、ヒカルを拒否することができない。手を引かれるまま、アキラはソファのある
部屋に入った。二人はそこになだれこむようにして倒れた。
ヒカルは忙しなくアキラの制服を脱がせてくる。アキラはしぶしぶといった態度を崩さずに、
手や足を動かす。アキラが全裸になると、今度はヒカルが自分の制服を脱ぎはじめる。
その伸びやかな肢体を見ると、いつもアキラの胸のうちはうるさく騒ぎだす。
認めたくないが、アキラは認めていた。
自分はヒカルに欲情しているのだと。
そして悔しいのは、ヒカルがそのことを承知しているということだった。ヒカルのまなざしは
いつもどこか自分を嘲っているようにアキラは感じていた。
(7)
ヒカルはアキラの上にまたがった。ちゃんと準備してきたから、と笑顔で言われる。
何をどう準備してきたのか、アキラにはよくわからなかった。ただ最初のときのように、後ろ
をならすことがなくなったので、そういうことなのだろう、と考えている。
「んんぅっ……!!」
わずかにうめきながら、ヒカルが自分のモノを身体のうちに入れていく。
ヒカルのモノもアキラの前で主張している。それに触れたいと思う自分をきつくいましめる。
今起きていることは、ヒカルが勝手にしていることなのだ。だからアキラは動かない。自分の
上で揺れるヒカルを見ても、手を握りしめたまま耐える。
だがヒカルは自分に触れてきて、肌のうえに熱い息を落とす。
動くたびに自分のペニスを内部でこすられ、アキラの息もあがっていく。
「とう、や……ぁ……っ!」
普段からは想像もつかないような切なげな声をあげ、苦しそうに身体をふるわせる。
アキラはいつもわからなくなる。目の前にいる少年が、何者なのかということを。
(キミのなかにいるもう一人が、出てきているのか……?)
そうとしか思えない。進藤ヒカルが、こんなことを、自分とこんなことを――――
「……オレを、見てくれよ……」
ふいにヒカルが耳元でささやいた。意識がさらわれていく。気が付くとアキラはヒカルの頭を
強く抱えこみ、唇をむさぼっていた。
ただがむしゃらにアキラはヒカルの口腔を舌でさぐった。驚いたようだったヒカルだが、すぐ
に同じように舌を差し出してきた。まるで教えるように、その先端がくすぐる。
「う、ん、ふぅ……んん」
唾液に濡れた舌が淫靡に鳴った。
間近にヒカルの顔を見たアキラは、こらえることができずに達した。
壮絶な脱力感がおそってくる。ヒカルは苦笑するように唇をゆがめ、アキラを解放した。
温かいヒカルのなかにいたので、空気が低く感じられた。
「キスしたの、二度目だな」
そう、あの雨の日以来だ。しかも今回は自分からだ。アキラはヒカルを見られずに、顔を横に
そむけた。だがその頬に手を添えられた。
ヒカルが再び唇を合わせてきた。
(8)
「やめろ……っ」
アキラはヒカルの肩をつかみ、押しのけた。触れる肌に目眩がした。
ヒカルはあっさりと離れた。首をかしげ、うかがうようにアキラを見てくる。その目はどこか
おかしそうに輝いている。笑みを浮かべたその表情に、アキラは無性に腹がたった。
「塔矢からしたんじゃないか?」
「それはっ……!!」
言い訳をしようとしたが、言葉が出てこない。アキラは唇をかみしめ、ヒカルを睨んだ。息を
吐くとヒカルはアキラの上からおりた。服を着始めている。
その様子をアキラは黙って見ていた。
「帰る。じゃあな」
素っ気なく言い放つと、ヒカルは出て行った。
いつもそうだ。怒っていようが、怒っていなかろうが、先に去るのはヒカルだ。そしてそれを
アキラはただ見ているだけだ。出て行けとも、残って欲しいとも言わない。だがその後ろ姿を
見るたびに、いつも投げかけたい言葉があった。それが何なのかは自分でもわからない。
口を開けば、とんでもないことを言ってしまう気がした。
だからアキラは黙って見送るのだ。
(ボクはいまだに、進藤に振り回されているのか……)
アキラは膝に額を押し付けた。碁だけでも囚われているのに、それ以外でもこんなふうに心を
疲れさせられるのは嫌だった。
父に会いたい、と思った。
会っても、こんなことはとても相談などできない。しかし父がいれば、自分を強く保つことが
できる気がした。ヒカルを突っぱね、二度としないと言うことだってできるはずだ。
(お父さんに顔向けできないことは、したくないのに……)
自分は行洋を裏切っている。
父の碁会所で、こんな恥ずべき行為に及んでいる。
知ったら父はどう思うだろうか。きっと軽蔑する。そして自分に失望するだろう。
「……もう、しない。絶対にしない」
何度目になるかわからない誓いを、アキラは声に出した。
(9)
長くヒカルと関係するつもりはなかった。
早く断ち切らなければと、アキラは内心焦っていた。そう思っていたが、ヒカルの一言に自分
は動揺してしまった。
「4月にあるっていう、その予選は必ず通ってやる。それまでここには来ねェよ」
去る後ろ姿をアキラは呆然と見る。北島がなにか怒鳴っている。だがヒカルはそれに見向きも
しない。その強いまなざしが見えるような気がした。
そしてヒカルは碁会所に来なくなった。
アキラはその決心をわかっていた。だがそれでも、心のどこかでは来てくれるのではないかと
思っていた。それは期待だった。そしてあっさりと裏切られた。
何日もアキラは待った。ドアが開くたびに顔を上げるのを止められなかった。
碁会所に来ないのならば、自分に会いに来るのではないかと思った。だがそれもなかった。
自分が自惚れていたことを思い知らされた。
棋院で会ってもヒカルから話しかけてくることはなかった。
自分を見る目は厳しく、どこか挑発しているようだった。その視線は碁打ちとしてのもので、
少しも艶めいたものはなかった。アキラは特別なものを見出そうとする自分を殴りたかった。
ヒカルとしなくなって、良かったではないか。"あれ"は自分の望みではなったのだから。
しかしそう考えても、身体はアキラを裏切りつづけた。
毎夜、アキラは消えることのない熱に悩まされた。一人で自分を慰めても、情欲は後から溢れ
出てくる。ヒカルを知るまでは、こんなことはなかったというのに。
自分をこんなふうにしたヒカルが恨めしくてたまらない。アキラは憎悪にも似た感情を抱き、
激しくヒカルを嫌悪した。もう声も聞きたくないし、触れたくもなかった。欲しいのは性欲と
しての相手ではない。生涯の碁のライバルだ。碁以外の進藤ヒカルなど自分には必要ない。
そう思っているのに、アキラの身体はヒカルが欲しいと叫んでいた。
(進藤はちがうのか?)
自分だけ惑わされていることが口惜しい。棋院で見かけるヒカルは飄々としており、いつも誰
かと楽しそうに話している。その相手とまさかしているのでは、と疑う自分が嫌だった。
体調が悪い。このままでは、碁にまで影響が出てきてしまう。
アキラは奥歯をかんだ。
(10)
その決断をしたことに、悔しくて涙が出そうだ。
しかし性に関して経験の浅いアキラは、それ以外に自分の性欲を鎮める、または回避する方法
が思い浮かばなかった。つまり、進藤ヒカルを抱くという選択をしたのだ。
まずは場所だ。碁会所には来ないから無理だ。自分の家は、絶対にだめだ。両親が留守のこの
家を、そんな不埒な目的のためには決して使えない。
かと言って、ホテルにするのもためらわれた。
アキラはあごに手をやり思案した。本当はこんなことを真面目に考えたくなどないのに。
「あ、そうだ……あそこはどうだろう……」
ふとつぶやくと、アキラは父の部屋に行った。必要最低限の物しか置かれていない部屋は質素
で、生活のにおいを感じさせなかった。もっとも主はずっと不在なのだが。
ためらいながらも、アキラは机の前に正座した。心のなかで何度も父に謝る。
引き出しをあさる。それは隠されるようにして、奥にあった。
アキラは二つの鍵をにぎりしめた。
これは行洋が所有しているマンションの部屋のものだ。一つにはなにもつけられていなかった
が、もう一つには何かわけのわからない、透明な骸骨のキーホルダーがついていた。
このマンションの部屋には、数え切れないほどの棋譜と書籍が置かれている。と言うよりも、
それらを所蔵するためだけに購入したのだ。
行洋は一人でじっくり棋譜研究をしたいときや、本の執筆をするときなどによく利用していた。
アキラも何度か行ったことがあるが、碁会所からすぐの距離で、必要なものは置かれているし、
何よりも大きなベッドがあった。
アキラはまた強く歯をくいしばった。
父が碁のために使用している部屋を、自分は邪なことに使おうとしている。
いけないことだ。わかっているが、アキラはどうしてもやめることができなかった。
(これだって、碁のためなんだ……)
そう自分に言いきかせると、アキラはポケットに鍵を突っ込んだのだった。