雨宿り

(16)
どこを探しても、もういない。
身体が重くて、一歩も歩けない気がした。自分はなにをしているのだろうか。ふと顔をあげる
と碁会所が目に入った。そうだ、自分は探しているのだ。消えてしまったとわかっていても、
彼の人の跡をどうしても追ってしまう。
ヒカルは悲しくて、泣いた。もう側にいないと理解して、泣いた。あれはいつのことだったか。
(あれは、おとといだ……おととい、オレはあいつの棋譜を見て、そんで……)
ずいぶん前の出来事だった気がする。
慌しく人が過ぎ去っていく。ヒカルはぼんやりとそれらを眺めていたが、顔が濡れていること
に気付いた。雨が降りはじめたのだ。早く屋根のあるところに行かなければと思う。
だが足がどうしても動かない。いないとわかっているのに、碁会所を見てしまう。
空はもう真っ暗だった。服はたっぷりと水分を含んで重くなり、靴にも雨水が溜まっている。
自分が雨と一体化しているような気がした。
みな自分を怪訝な目で見ながら、近付かないようにして去っていく。
色とりどりの傘を見るのがつらくてヒカルはうつむいた。自分にあたる雨はますます強くなる。
それがまるで自分に対する罰のようで、ずっとこのままでいたかった。
だが急にそれが止まった。目の前に誰かが立っている。
顔を重たげにあげたヒカルは息を飲んだ。
「とうや、せんせ……」
威圧するような立ち姿に気圧されて、ヒカルは思わず後ずさりした。すると行洋がまた一歩、
ヒカルに近付いてきた。
「こんなところで何をしているのかね」
思ったよりもずっと柔らかな声だった。
「オ、オレ……」
「今日は手合いの日じゃないのかね」
学生服を着たヒカルを不思議そうに見てくる。サボったなどと言えず、ヒカルは黙り込んだ。
行洋は口をひき結んだヒカルを見ていたが、やがて背を向けた。
ヒカルはそれにひどく衝撃を受けた。全身の力が急速に失われていく心地がした。だが行洋の
力強い声がそれを押しとどめた。
「来なさい」

(17)
そのマンションは碁会所がすぐの場所にあった。
シャワーで身体を温めると、気分がかなり落ち着いた。用意してもらった浴衣を身につける。
行洋のもののためか、サイズが大きくてあまり落ち着かない。
「塔矢先生……」
ヒカルはそっとドアを開いた。かなり広い部屋だ。テーブルと、横には大きなベッドが置かれ
ている。和服姿の行洋とこの部屋は、どこか合っていない。
本を読んでいた行洋は顔を上げてヒカルを見た。静かなまなざしだった。
「入りなさい」
「あ、あの、どうもありがとうございました」
「そんなことはいいから、かけなさい。お茶を淹れよう」
ヒカルは身を小さくさせて、なかに入った。かなり緊張する。イスに座るのを見とどけると、
行洋は出て行った。ヒカルはあたりをきょろきょろと見渡した。広いが、ずいぶん簡素だ。
テーブルの上に置かれた詰碁集を見やり、すぐにそれを視界から追い出した。
ヒカルは行洋が戻ってくるまで、握りしめた手をじっと見ていた。
「飲みなさい、身体が温まる」
湯気のたっている湯のみは熱く、ヒカルは両手で握りしめて息を何度も吹きかけた。ようやく
一口飲むと、温かさが全身に広がっていくのが感じられた。
「……おいしい……」
思わず言葉をこぼした。香り高く、苦くない。お茶のことなど知らないが、これはとても良い
ものだということはわかった。
ヒカルが飲む様子を行洋は見つめている。何かを考えているのか、眉間にしわが寄っている。
飲み終わるまで沈黙が続いた。湯飲みをテーブルに置くと、ヒカルはもう一度礼を言った。
「きみは」
びくりとヒカルは肩を縮めた。それは無意識の所作だったが、行洋は言葉を切った。ヒカルは
緊張して、行洋の言葉のつづきを待った。きっとなにか言われると、ヒカルは目を硬く閉じた。
しかし言葉はいつまで経っても発せられない。
ヒカルの耳に乾いた音がした。行洋は本を読んでいた。肩の力が一気に抜けていった。

(18)
身体をゆすられ、ヒカルは目を開けた。行洋の顔が間近にあった。
「うわっ! 塔矢せんせ!? オレ、いったい……」
自分の周囲を慌てて確認した。ヒカルはベッドのうえにいた。
「きみが椅子に座ったまま、眠ってしまったから移したのだよ」
「え、オレ寝ちゃったの……?」
行洋のまえでよく寝られたと、自分が信じられない。だいたい失礼にもほどがある。ヒカルは
青ざめた。だが頬を軽く撫でられ、ヒカルは行洋を見た。その目はきびしくなかった。
「顔色が悪い。寝てないのかね」
そうだ、ここのところまともに寝ていなかった。浅い眠りを繰り返し、身体も疲れていた。
頭をぽんぽんと叩かれた。行洋はなにも言わない。ヒカルはわずかに頬をゆるめた。
雨はすでに止んでいた。びしょ濡れの制服をビニール袋に入れ、ヒカルは浴衣のまま帰った。
帰ると母親が何やら言ってきたが、ヒカルは浴衣と制服をあずけるとそのまま部屋に入った。
一人の部屋は広く感じられた。その夜、やはりヒカルは寝つかれなかった。


うろうろとヒカルは行ったり来たりしていた。
碁会所を見て、息を吐く。手には二日前に借りた浴衣が入った紙袋が抱えられていた。母親が
クリーニングに出してくれたものを返しにきたのだ。
だが入っていきたくても、足がすくんでしまう。碁のある場所に行きたくないのだ。
やっぱりやめようかと、きびすを返したとたん呼び止められた。
「上から見ていたよ。私に用かね」
「塔矢先生! あの、これ、このあいだの、えと、このあいだはありがとうございました!」
勢いよく言うと、ヒカルは紙袋を差し出した。行洋は少し目を見開いたが受け取った。
「じゃあ、あの……」
「待ちたまえ。進藤くん、今日も顔色が良くないようだが」
「え? そうかなあ……ずっと寝てないからかも……」
ヒカルは頬をこすった。行洋がじっと見てくるので落ち着かない。不意に「待っていなさい」
と言うと、行洋は碁会所に戻っていた。そしてすぐにまた、やってきた。
「来なさい。本当に顔色が悪い。このまえのお茶をわけてあげよう。あれは身体に良い」
親切な言葉にヒカルは驚いた。なんとなく、行洋は碁だけで、こんなふうに誰かを気にしたり
することのない人だと思っていた。ヒカルは行洋の後ろ姿を見ながら歩いた。

(19)
マンションにつくと、行洋はお茶を淹れてくれた。
それを飲むとヒカルはすぐに眠くなり、またベッドで眠らせてもらった。すごい効き目だ。
ヒカルはさっそく家でも飲んでみた。しかし、まったく睡魔は襲ってこなかった。何も考えず
に眠れると期待した分、落胆は大きかった。
ヒカルは闇を見つめながら、とりとめのないことを思い浮かべた。
明日は休みだ。だが本当なら――――
考えたくなくて、ヒカルは寝返りをうって目を無理やり閉じた。しかし眠りは訪れなかった。
目の下にそれとわかるほどの隈を作ったヒカルを母親は呆れたように見た。
「お茶なんて眠るまえに飲むものじゃないわよ。かえって目が覚めちゃうのよ」
だがこのお茶は特別なのだ。これは行洋がくれたものなのだ。
行洋が、自分にくれたものなのだ。行洋が、行洋が…………。
「あらヒカル、こんな早くにどこに行くの」
母親の声を無視して、ヒカルは家を出た。向かった先は碁会所だった。重いものを飲み込んだ
ような思いで、碁会所を見上げる。無性に会いたかった。だが会う理由がない。
行洋と過ごしたのは二度だけだ。なのにとても懐かしく、慕わしいものに思えた。
「進藤くん?」
後ろを振り向くと、タクシーから降りようとしている行洋と目が合った。ヒカルは笑った。
そしてそのまましゃがみこんでしまった。
「進藤くん! 大丈夫かね?」
ヒカルはうなずいた。具合が悪いわけではなかった。ただ猛烈に眠かったのだ。行洋はヒカル
をタクシーに乗せると、そのままあのマンションに連れて行った。ヒカルは部屋に入るなり、
ベッドに倒れこんで眠りはじめた。気がついたときにはすでに昼は過ぎていた。
目をあけて、本を読んでいる行洋をしばらく見ていた。そしてようやく気付いた。
自分は誰かがそばにいなければ、眠ることができないのだということに。
(オレ子供みてェだな……)
だがここ数年、ヒカルはずっと一人でいたことがなかったのだ。
行洋の気配はヒカルをとても安心させた。

(20)
行洋はヒカルの視線に気付くとすぐに近寄ってきた。
「お家の方に連絡しようと思ったのだが、電話番号を知らなくてね。とりあえず様子を見てい
たんだが、気分はどうだね」
額に手をあてられた。それがなぜだか少し切ない気分にさせた。
「大丈夫です」
「そうか。ならいい」
手が離れていく。だが視線は合わさったままだった。行洋は物問いたげに見てくる。ヒカルは
なにを思っているのかわかる気がした。今日は若獅子戦の日だ。息子のアキラが出ているのだ
から、知らないはずはない。そしてヒカルが出ることも、恐らく知っているはずだ。
なのにヒカルはいま、ここにいる。
「進藤くん」
「……はい……」
ヒカルは問い詰められることを覚悟した。だが行洋はそのことに触れてはこなかった。
「今日はいちだんと顔色が悪かったが、お茶は飲まなかったのかね」
「飲んだけど、お茶はあんまり関係なかったみたいです。オレ、ここだから、眠れたんです」
行洋のそばだから、眠ることができたのだ。行洋は息を吸い込んだ。
「……きみは不眠症なのかね」
「フミンショー?」
「なかなか眠れないタイプなのかね」
ヒカルは首を左右に振った。寝つきはかなりいいほうだった。
「では、眠れなくなるような、なにかがあったのかね」
黙ったままだったが、その瞳の色からなにかを悟ったのか、行洋はそれ以上尋ねなかった。
懐をさぐると、それをヒカルに差し出してきた。鍵だった。
「ここの部屋の鍵だ。もし眠れないようだったら、来なさい」
「……いいの?」
「本当ならきみの親御さんに相談するのが筋なのだろうがね。だが……」
ヒカルは続きを待った。だがその後を聞くことはできなかった。
なぜならまた眠ってしまっていたからだ。

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