雨宿り
(26)
日本に帰ってきたのは、アキラが少し気になったからだ。
弟子たちが気にかけてくれるとはいえ、さすがに長い間放っておくわけにはいかない。アキラ
はしっかりしていても、まだ中学生なのだ。
アキラはいつもと変わらなかった。強いて言えば、大人びた表情をするようになった。
きっとどんどん自分から離れていくだろう。喜ばしいことだが、淋しくもある。
部屋のなかを片付けながら、ふと手を止めた。引き出しのなかを見る。やはりない。
行洋はなかのものを全て出しはじめた。だが空になっても、それは見つからなかった。箪笥の
なかも探し、押入れのなかも探した。
あまりにも真剣になりすぎていて、アキラがいたことに気付かなかった。
「お父さん? 探し物ですか?」
「いや、まあ、うむ。何か用か、アキラ」
立ち上がるとアキラに近付いた。目の前に立って、息子の背が伸びたことに気付く。
「お父さん、碁会所の近くにマンションがありますよね」
内心ぎくりとしながら、行洋はなんとか平静を装ってうなずいた。
「あそこの本で見たいのがあるので、鍵をお借りしています」
「そうなのか」
なんとなく不快に思ったが、そう思う自分を行洋は戒めた。
「しかし鍵は二つあったはずだが、両方とも持っていったのかね」
「あ、ええ……そうなんです」
歯切れ悪くアキラは答える。だが行洋はあまり気にとめなかった。とりあえずどこにあるかが
わかって、安堵したほうが大きかったのだ。
「わかっていると思うが、あそこには重要なものがたくさんある。扱いには気をつけるように」
「はい、お父さん」
アキラのまなざしから、自分を師として尊敬しているのがうかがえる。だが行洋はそれを昔の
ように誇らしく受け止めることが難しくなっていた。
だがそうなったことに、後悔はしていない。
外は曇り空で、重たい雲が覆いつくしている。雨は降るだろうか。
行洋は数ヶ月前を、まるで幻を見るかのような気持ちで思い浮かべた。あの少年を思い出すと、
いつも雨の匂いを感じる。
(27)
ヒカルを招いたのは、深い思慮があってのことではなかった。
ただ何となく、放っておけなかっただけだった。自分の好敵手の知り合いだというのも、理由
に入っていたかもしれない。とにかく打算があったわけでは決してない。
だからそうなってしまったのが、とても不思議だった。
新初段シリーズで相対したヒカルは、元気の良さそうな少年だった。息子と違ってとても活発
なのだろうということは容易に想像できた。
だから久しぶりに見たヒカルが、どこか影の薄い少年に見えたときは驚いた。
縦に伸びた背に、身体が追いついていない印象を受けた。なによりも顔色が悪かった。ここの
ところ寝ていないと言う少年は、自分のそばで眠りつづけた。
それはまるで辛いことから逃れたいようにも見えた。
行洋にも同じような経験があった。それはもう本当に昔のことではあったのだが。
寝顔はどこまでもあどけなく、無防備だった。戯れに髪や頬に触れても気付かなかった。この
少年を見守るのが役目のような気がした。
行洋はヒカルが来る時間に合わせてマンションに行った。その時間帯の誘いはすべて断わった。
ヒカルといても特になにかを話すわけではない。だがその時間は行洋にとって、とても大切な
ものであるのは確かだった。
しかしある日突然、ヒカルは来なくなった。
最初は用事でもあるのだろうと思った。だがそれが二日、三日と続くと気になって仕方がなく
なった。約束していたわけではない。いつこうなってもおかしくなかった。
そんなことははじめから承知していた。
しかし実際にヒカルが来なくなると、行洋は自分でも驚くほど動揺していた。
ヒカルの碁に興味を惹かれていた。だがそれ以上に、ヒカル自身も気になっていた。
行洋は眠ることができなくなってしまった。
どんな対局を前にしても、不眠になってしまうことなどなかったというのに。
その日の雨は激しく、空気は肌にまといつくように重かった。
行洋は碁会所で指導碁をしていた。身体は疲れていたが、それをおくびにも出さない。
窓の外は雨でけぶっており、遠くの景色は見えなかった。だが碁会所を見上げる、その人影を
見つけることはできた。
(28)
行洋は窓の下に目を凝らした。
傘もささずに、呆然と立ち尽くしている人物の顔は見えなかった。
だが行洋は傘を引っつかむと、なりふりかまわず碁会所を出て行った。傘を広げ、その少年に
差し出すようにして駆け寄った。
「進藤くん!」
少年はうつろな瞳を自分にむけた。ひどくやつれているように見えた。行洋は思わずその細い
身体を引き寄せた。腕のなかの少年はとても冷たかった。
いつからここに、こうしていたのだろうか。
行洋は温めようと、ヒカルの身体を力いっぱい抱きしめた。
「進藤くん」
呼びかけるとヒカルは小刻みに震えはじめた。
「オレ、塔矢先生に会っちゃいけないって思ったんだ。だけど……」
声はかすれていた。泣いているのかと思って顔を見たが、ヒカルは顔を歪ませてはいたが瞳は
にじんではいなかった。だが頬を伝う雨が涙に思えた。
ヒカルは自分を見上げながら、何か言いたげに口を開いた。しかし何も言わなかった。まるで
言葉など持っていない、空っぽの存在のように感じた。
何かを吹き込まなければ、と行洋は思った。
傘が二人の顔を隠した。
行洋はヒカルの頬に手をあて、その唇に口付けていた。ヒカルは目を少し見開いていた。その
瞳は揺らぎ、それからわずかに光を帯びた気がした。腕を痛いほどつかまれた。
「塔矢せんせい……っ」
しがみつくヒカルを行洋はもう一度抱きしめた。
そのとき、行洋の胸のうちに何かが込みあげてきた。そのときはそれが何だかわからなかった。
だが今ならはっきりと言える。それは愛しさだった。
(29)
マンションの部屋に入るなり、行洋はヒカルを浴室に連れて行った。
湯船にお湯を入れながら、シャワーを服の上からかけた。一刻も早く身体を温めなくては。
「早く脱ぎなさい」
ヒカルはもたもたとしている。指がうまく動かないようだ。行洋はヒカルの制服を剥ぎ取り、
冷えた身体をさすりながらシャワーをあてた。
「塔矢先生の着物濡れちゃうよ」
「かまわん」
雨ですでに濡れていた。それに今はヒカルのほうが大事だった。
「先生、オレあと自分でできるよ」
ヒカルが頬を少し赤くして、まつげを伏せた。そこでようやく自分の行動を振りかえった。
なんとなく気まずい雰囲気が流れる。
「あ、お湯があふれてる」
湯船からお湯が流れ出し、行洋は慌ててとめた。気付かないなんてどうかしている。
「入りなさい」
「え? でも先生も濡れてるよ。先に……」
「いいから、入りなさい」
行洋は少し苛立った声を出した。ヒカルはひるんだが、去ろうとする行洋をひきとめた。
「けど……」
遠慮することはないのだと言いかけて、行洋は口をつぐんだ。違う。ヒカルは自分を気遣って
いるのではない。心細そうな表情は、一人にしてほしくないと告げている。
「……一緒に入るかね」
湯船は二人が入っても充分の広さがある。だが行洋は半分冗談のつもりだった。しかしヒカル
は即座にうなずいた。行洋は身体がしびれるのを感じた。
ヒカルは貼り付いていたシャツと下着、靴下を脱いだ。行洋も着物を脱いだ。
二人はお互いの身体を見ないように目をそらしながら、湯船に身体を沈めた。湯が滝のように
勢いよく流れていき、湯気が浴室を暖めた。
人心地つき、初めて二人は目を合わせた。
(30)
息子ともずっと一緒にお風呂に入っていないのに、この少年と入るのは変な気がした。
白かった顔が温められたために上気している。湯の屈折のために歪んで見える身体に、行洋は
なぜか気もそぞろになる。
しかし真っ直ぐに自分を見つめてくるヒカルの視線から、行洋は逃げなかった。
ヒカルが戸惑っているのが、瞳から読み取ることができる。だが何を思っているのかまでは、
さすがにわからない。先に目をそらしたのはヒカルだった。
「せんせい……」
「何だね」
ヒカルは口元まで湯に浸かった。ぶくぶくと泡をたてている。少し余裕が出てきたようだ。
うかがうように、上目遣いで自分を見てくる。そして左右に視線を走らせた。だが顔を出すと、
身を乗り出して行洋に近づいてきた。
行洋は目のやり場に困った。ヒカルの胸があらわになり、薄い色をした胸の突起が見えた。女
ではないのだから、やましく思う必要などないというのに。
「オレ、また先生に会いに来てもいい?」
まるで一大決心をして口にした言葉だと言うように、ヒカルは深刻な表情をしている。
行洋は口元をゆるめてうなずいた。するとヒカルも顔を輝かせた。
その表情を見ていて、行洋は先ほどのことを思い返して表情をこわばらせた。
「進藤くん、さっきはその、すまなかったね」
「え? なにが?」
ヒカルはきょとんとしている。行洋は邪気の無い顔を見てさらに罪悪感を覚えた。
「きみにしたことだよ」
首をかしげていたヒカルだが、思い当たったと言うようにうなずいた。そして照れくさそうに
笑みを浮かべた。行洋の胸のうちが小さな音をたてる。
「オレ、イヤじゃなかったです」
「……私もだよ」
そう言うと二人はくすりと笑った。そしてそうするのが自然なことのように、身体を寄せた。
今度の口付けは、とても温かなものだった。