お江戸幻想異聞録・神無月夜(かんなづきよ)

(其の参)

(12)
 その後、光が平八郎宅に着いたのは空も暗くなりかけているときで、半月ぶ
りに「わが孫」を迎える平八郎翁は光を見るなり、ほうと息をついた。
「光、ずいぶんと遅かったではないか。」
平八郎は相当に焦れていたらしい。光が冠木門を引くなり、あわてて屋敷の板
戸を開けて飛び出し、目を大きく見開いていた。
「ごめん、じいちゃん…。明と碁会所で打っていた。」
「そうか。さ、早くあがりなさい。」
 平八郎宅の磨きこまれた黒板の上を歩いていくうちに、突如、さきほどの船宿
で明が光の中に放ったままの精が突如、ツーッと腿を伝って流れ落ちた。
(…やべえ!)
着物の前をぎゅっと掴み、腹にくっと力を込めた。床に流れ落ちないよう、摺り足
でよたよたとすすむ。下帯をつけない習慣もそろそろどうにかしなければならない
と思った。
「どうした、光。具合でも悪いのか?」
怪訝そうに振り向いた平八郎に光は無理に笑い顔を作った。
「ああ、長い間座っていたら、足がしびれちまって。」
「なんだ、だらしがないのう。」

(13)
船宿からここまでてくてく歩いている間はなんともなかったのに、なんだって
こういうときにかぎって出てくるのか、まったく忌々しい。これ以上、流れ落ち
ぬよう意識をすると、急にそこが熱を持っているようにも思えた。
「今日はな、おまえに会わせたい若いお旗本がいらっしゃるのだ。」
「え…?」
「最近、うちの道場に来るようになった方でな。碁も強いぞ。なにしろ、あの椿
があっさりとやられおったからな。光のことを話したらぜひとも会いたいとおっ
しゃってなあ。お若いが大変できた方だ。」
 平八郎は何かにつけ、道場に出入りする若い者を光に紹介したがる。それ
は同じ年頃の知己を増やしてやろうという平八郎なりの気遣いなのだが、正
直なところ、光にとってあまり嬉しいことではなかった。細かいことに拘らない
師範代の椿は別として、大抵のものは色白で小柄な光を見ると、目の奥に
どこか軽く見るような、または好奇に満ちた色をにじませるのだ。
 光が強ければ一つ剣を交えてねじふせることもできるのだろうが、悲しいか
な光はいくら上達したとはいえ、剣の腕は並程度、碁盤の上ならいざしらず、
竹刀ではたいしたことはない。
「や、大変お待たせしてかたじけない。うちの孫でござる。」

(14)
座敷の上座に向かい合うような格好で背中を向けて座っている姿が見えた。短い
羽織を着た背中はすがすがしいほどに伸びていた。肩の高さはとなりにいる椿と
同じぐらいだから、おそらく六尺ちかくはあるのだろう。だが、椿より細身で、旗本
らしい気品に満ちている。髪もきちんと整えられ、着ているものも地味な、短めの
羽織だ。かといって下級武士とはあきらかに違って、それはのりがぴったりときい
て張りがあった。
 若い旗本はさらさらと畳を擦る音を立てて体の向きを変えると、きっちりと両手を
膝の上に置いて光を見上げた。
 光はあわてて旗本の前に座すと、とりあえずはゆっくりと頭を下げる。
「進藤平八郎が孫、光之丞と申します。」
「は――。お初にお目にかかります、伊角慎之介にございます。」
どこかで聞き覚えのあるやわやわとした声に、光ははっと顔をあげた。
目の前にいるのはやさしく涼しげな瞳をした、鼻筋の通った細面の男。
「え…?」
光は暫くポカンと口をあけたまま、穴があくほど目の前にいる者を見ていた。着てい
るものや髪は少々違っているものの、人当たりのよい表情といい、整った顔立ちと
いい、それは光にずっと寄り添うようにしていた金剛、いすみと瓜二つだ。しかも、
名前まで同じときている。
 そういえば、茶屋では誰もがいすみ、いすみと呼んではいたが、果たしてそれが
真の名なのか姓なのかは光も気にしたことすらなかった。

(15)
なぜ、その金剛が――いや、金剛にそっくりな者が目の前にいるのだろう。
「光之丞殿のことは進藤先生から伺っております。どうぞ、よろしくお願いい
たします。」
伊角は目を細めてあたたかく笑いかけた。もちろん、好奇な目をするわけでも
なく、蔑む色もない。
椿が持ち前の割れるような声でつけくわえた。
「慎之介殿は最近、江戸に来た方でな。長らく剣術をやっていないので、一か
らやりなおしたいと俺の知り合いを頼ってきなさった。」
「最近…?」
「ああ。俺はすぐに進藤先生をご紹介した。俺はただの浪人で、先生のかわり
をさせていただく師範代だからな。」
椿と伊角はちらと目を合わせて微笑みあった。二人はうちとけあっている様子
で、浪人の椿相手に伊角はすこしも奢るそぶりを見せない。おそらくはかなり
謙虚な性質なのだろう。
「進藤先生と椿先生にお会いできたこと、真に運がようございました。いやはや
それがし、江戸は右も左もわからぬばかりか、知己もおりませぬ。椿先生がな
にくれとなく面倒を見てくださるおかげで、それがしのような田舎侍も恥をかか
ずに済みます。」
「伊角殿、その先生ってえのはやめてくださいよ。」
「はぁ…。」

(16)
伊角がはにかむように少し笑い、それからちらりと光を見た。
他人の空似だろうか。それとも、伊角は光の変りぶりに気づかぬのだろうか。
あるいは――知っていて素知らぬふりをしているだけなのだろうか。黒い羽織
に紺色の地味な袴をつけた姿がよく似合っている。
「あの…。」
声が掠れていて、光はいつになくのどの渇きを覚えた。
いつか、倒れてうごけなくなっていた光を背負ってくれたいすみ、静かな座敷
で微笑み飯をよそってくれたいすみ、そして、惜別のときには目に涙をためて
部屋の前で立ち尽くしていたいすみ。それらが走馬灯のようによぎっていく。
「あの…どこかでお会いしたことが?」
若い旗本はほんのすこしだけ目を見開き、暫くの間考え込んでいたが、やがて
申し訳なさそうに目を伏せた。
「さァ、飯だ飯。」
椿がそう云ってかたわらにある酒瓶を伊角の前におき、ニヤリと笑ったのが見えた。

(17)
だが、伊角は丁重に頭を下げると酒の誘いを固辞した。
「せっかくですが、それがし、そろそろお暇せねばなりませんゆえ…。」
「えっ、慎之介殿…そりゃあまた…。」
椿が困惑して苦笑いをする前で平八郎がはたと膝を打って声をあげた。
「ああ、そうですな。伊角殿はお旗本でいらっしゃる。椿、おまえは知らぬか
もしれないが、御家人と違ってお旗本は晩にはお屋敷に戻らねばならぬの
だ。晩に届けなく他家に外泊したことがお上に知られでもしたら、たいそう厳
しい処罰を受ける。いや、伊角殿、手前も気づかず申し訳ございませんでした。」
伊角は微笑みながら恐縮すると、さっと立ち上がった。光もあわせてはじかれた
ように立ち、じっと伊角を見詰める。
 晩といったって、今はもう晩にさしかかっているではないか。しかも、お供すら
連れず来たようで、それは世の慣わしからするとほぼ型破りといってもいい行為
であった。
「進藤先生、今度はそれがしの屋敷にぜひ。今日は光之丞殿とお会いできただけ
でうれしゅうございます。」
三人は慌しく、家の門まで伊角を見送ると、深々と頭を下げた。
「あ、あの…オレ…そこまでご一緒します!」
そう叫んだ光は椿に引き止められる。
「いや、慎之介殿は俺が送っていくから。浪人とは云えどこの椿、一応、長持は
持っているからな。旗本のお付に見えなくはねえだろ、ハハハ。」
たしかにその通りだった。椿は一応、羽織袴も長持も身に着けてそれなりに侍ら
しくは見える。地味とはいっても仮にも旗本の伊角に、町人まるだしの光がくっつ
いて歩いたのでは何を云われるかわかったものではない。光はしぶしぶに頷いた。
「それでは、また日を改めてお伺いいたします。」
伊角はすずやかな笑顔を浮かべて一礼し、椿を伴って足早に去った。

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