お江戸幻想異聞録・神無月夜(かんなづきよ)
(其の四)
(18)
時は朝三つどき、塔矢邸に戻った光は師範代の篠崎から、いつもより遅いの
で気を揉んだと少々小言を云われて首をすくめていた。特段、寝坊をしたわけ
ではない。だが、平八郎の家から塔矢邸に戻る道すがら、ぼんやりしていて道
を一本行き過ぎてしまったのだ。
「いいですか、光之丞。最近になって光之丞が弟子たちの誰よりも精進し、力を
つけつつあることは私もよく知っています。ですが、それゆえ慢心せぬように。
ましてやこの中では年若の光之丞がのんびりと三つ時に来たのでは困ります。」
「はい――。すみません。」
昨日の若い旗本のことが振り払っても振り払っても頭に浮かび、道を歩くときも、
そしてお小言を喰らっているときもあの事ばかり考えている。
「――それに光之丞のお爺様は伝説の剣客、進藤平八郎さまです。そのお爺様
の顔に泥を塗るということはあってはなりませんぞ――。」
「これ、篠崎、お小言ももうそろそろいいであろう。」
低く柔らかい声がお小言を制したのを耳に顔をあげると、すぐうしろで行洋がさも
可笑しそうにくっくっと笑いながら立っていた。
(19)
「光。少々お遣いを頼まれてくれぬか。なに、昼過ぎでよい。ここから少々川
を下った先にあるお侍様のところへ書状を届けてはくれぬか。」
「――はい。」
「ついでに、そのお侍様と一局打ってきなさい。さきほどお使いが来て、光か
ら指南を受けたいと云うことだが。」
「はあ…。」
碁指南の申し入れなどは塔矢家にあってはさほど珍しいことではない。弟子
たちの中でも御城碁に出仕できないものや玄人番付の下のほうにある者の
中にはうまく立ち回って指南料でおおいに稼ぐ者までいる。現に明之丞なども
羽振りのよい商人や御家人宅に指南でまわりもする。しかし、なんといっても
光は弟子入りしてやっと一年、町の碁会所などで指南の真似事をしたことは
あっても、じきじきに名指しをされ、しかもその相手が侍とは珍しいこともある
ものだと思った。
「伊角摂津守殿とおっしゃるお若いお旗本だそうだ。はて、どういういきさつで
光に申し込んできたのであろうな。」
「え…。」
首をかしげる行洋と篠崎を前に、光は心の蔵がぞわりとさざ波立った。昨日の
今日とは恐れ入る。昨晩はあわただしく見送ってしまったのだが、やはり話した
いことでもあったのだろうか。
(20)
そう思うとやはり、あの金剛と伊角は同じ者ではないのかという予感がして
ならぬ。あるいは――かの金剛、たしか元は御家人、ひょっとして何らかのつ
ながりがあるのやもしれぬ。だが、今はそんなことはどうでもよかった。兎に
も角にも伊角に会いたくてたまらなかった。
かげまになりたての頃はあの金剛に淡い想いを抱いたこともないではないが、
存在があまりに近すぎ、さらに佐為に夢中になっているうちにそんなものは忘
れていた。
離れてみればいかに金剛の存在が自分の支えだったかを思い知ることにな
った。行洋と平八郎以外は光の出自を知らぬ中、必死に並みの生活に慣れよ
うと苦労しながら誰にもその辛さをぶちまけることもならない。今はこちらの世
にも慣れたし弟子たちの間で可愛がられてもいる。それに弱音は吐かぬつもり
だった。しかし、ときに心の中を冷たい乾いた風が吹くのはなぜだろうか。気が
つけばここにいるのはまがいものの己で、ではかげまの頃が本当かといえば
それはどうあっても認めたくはない。いすみなら何と答えるのだろう。
「お旗本のところへ行くのは気が引けるかね?旗本慣れしている者をつけようか。」
いつもならはきはきと返事をする光が黙り込んでいるのを見かねてか、行洋が
そう付け加えたのに、光は作り笑いをして云った。
「いえ、一人で行きます。大丈夫です。」
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――と力強く云ってはみたものの、江戸橋にほど近い、武家屋敷が居並ぶ通り
に出ると、光は急に心細くなった。繁華な浅草門からさほど遠くないと聞いてい
たが、道を一本はいればそこは武家屋敷と組屋敷ばかり立ち並んでいて、とても
同じ界隈にあるとは思えぬほどの静けさを保っていた。どれがどの屋敷かはもち
ろんわからぬ。武家屋敷を回って品物を売り歩くぼて振りに聞けばわかるだろうと、
真っ白な蕪や大根を背負った中年男を呼び止めると、男は静かな通りのさらに奥
まった場所を指差した。
はて、そこへ着いて、今度はお勝手口から呼びかけるべきか、表玄関の木戸を
叩くべきかと塀の上からみえる立派な黒松を見て溜息をつく。
こんなことなら、旗本や御家人の屋敷へ行きなれている明にでも聞いておけば
よかった。聞けば聞いたでいい顔をされないのはわかっている。相手が若い旗本と
なればなおさらだ。近ごろの明ときたら、相手が何であろうが嫉妬深いのだ。
「あのォ…もしや、棋士の進藤先生でいらっしゃるか。」
振り返ると、大柄な背格好の侍がじっとこちらを見ていた。
「はぁ…あの、伊角さまのお宅はこちらで…。」
侍はいかにも、と頷いてニタリと笑った。その目はぎょろりと鋭く、鼻は高いが天狗の
ようにでかい。髪は伊角とちがってちょいと小粋に崩していた。羽織の紐も太く長い。
背の高い色男といえばそうだが侍らしからぬ遊び人のようにも見えた。
「ほう…慎之介が云ってた碁の先生か…。びっくりしたな。まさかこんなに若いとは
思わなかった。」
若侍は光を見下ろすようにして眺めるとニタニタと不遜な笑いを浮かべた。
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「あっ、あの…。」
「ああ、俺か?俺は慎之介と同じ奉行所で働く門脇と云う。ただし、俺は慎之介
と違ってただの御家人だがな。」
そう云うと、門脇は表玄関の木戸を勢いよくガンガン叩いた。
「おーい、お客人だぜ。はやく門開けろ。」
「あ…あの…。」
木戸が開けられると、門脇はぐいと光の腕をひっぱって一緒に屋敷に足を踏み
入れ、脇にいた下男に早口でまくしたてた。
「おう、ちょうど帰りがけに碁の先生を拾ったから、ついでにお殿様んところまで
届けてくるさ。」
「えっ…あっ…あの…。」
「遠慮すんなよ。そういや、慎之介の野郎、柄にもなく楽しそうな顔して先生の話
をしてたぜ。」
「え…。」
「なるほどな。こんな可愛い先生が来るんじゃァあの堅物でも浮き浮き気もそぞ
ろってもんだな。」
「か…可愛い!?」
馬鹿にするなと思ったが、相手が侍とあっては云いかえすこともできぬ。玄関口
を素通りして、奥へとすすんでいく。
「な、かわいい先生――名前は何て云うんだ?」
「ひ…光之丞ですッ!進藤光之丞!」
「おー!名前まで可愛いなァ。光の君…なんてな!ハハハ。」
門脇は光の肩をぐいと掴んで耳元で囁いた。
「で、光の君はここのお殿様といつ契りを交わしたんだ?」
「はァ!?ち、契りって…。」
契りといえば、男色の世界で肉体関係を交わすことを云う。目を見開いた光に、
門脇はケタケタと笑った。