お江戸幻想異聞録・金剛日記
(17)
「動かないで。しばらくこのまま一つでいたいものですから。」
「佐為…。」
「光の中はあたたかいですね。」
「そう云う佐為は熱いよ。」
「ふふふ、待ち焦がれましたからね。」
「ねえ、そりゃあわかったからもう…っ…」
佐為さまが小刻みに動き始めると、光もそれ以上言葉を継げなくなり、やわ
らかい息のみが漏れます。
「光…やはりお前さまの顔を見ていないと落ち着きません。」
「佐為…」
佐為さまは一度、離れると、光をやさしく仰向けに寝かせ、いとおしむように
両脚を撫で上げました。ほっそりとした白い脚。それを持ち上げてもう一度、
濡れた菊座に入ります。
「ん…くっ…」
「苦しいですか、光。」
(18)
その問いに光はふるふると首を振り、脚を抱えている佐為さまの腕に手を添え
ました。
「もう…振袖も鼈甲のかんざしもいらねえよ…南蛮のお菓子もいらねえ、絹
の帯もいらねェ!何もいらねェから…佐為と…」
「光…」
「若衆部屋なんていたくねェよ…ねぇ、何でもするからさ、佐為といっしょに
なりてぇ!――だめ?」
「ええ、そうしましょう。…志乃ばず池の弁天様にお願いして、それから…」
佐為さまが揺すりあげるたびに、切ない囁きが漏れました。まっつぐに佐為さま
を見つめる光の目からぽろりぽろりと涙がこぼれ落ち、佐為さまはうつくしい緑髪
が乱れるのもかまわず、光をかき抱きます。
(19)
佐為さまの白い背中にしっかりまわされたうす桃いろの手。
娼妓や陰間にまことなどありはしませぬ。
いくらひいきの旦那に身請けしてもらえるとささやかれたところで、まことは
千に一つもありやしません。
いくら佐為さまがお城のお偉い方々に囲碁を指南なさる身とはいえ、売れっ子
の時分に身請けするなどしょせん、無理というもの。
指南で碌を十分にいただいている上にひとり身とはいえ、金をもてあました
大店の旦那とはわけがちがいます。
それにそのようなご身分の方が陰間あがりを傍に置いておくとなれば、醜聞
には事欠きませぬ。光とて、かむろの頃より身の回りの世話は金剛が一切合財
引き受け、あの細い体と真っ白な指では井戸水一つ汲むのも苦労というもの。
叶わぬ願いとわかりながら云う光がいじましいのか、佐為さまはなんども頷いて
弁天参りを誓ったのでございました。
(20)
※注釈
陰間…ウィキ先生にも詳しい記述がございます。「おかま」の語源はかげま→「かま」という説もあるらしい。
茶屋…一般的には喫茶店ですが、近松などの色恋物語に出てくる「茶屋」とか「茶店」はだいたい茶屋の名を
借りたラブホ。茶屋といってもいろいろでして、喫茶店だけでなく料理茶屋から色茶屋までいろいろあります。
表向きは数奇屋づくりのふっつーのレストラン、実はあんなことこんなことできますよってのが色茶屋で、
陰間茶屋もこの色茶屋の一つといえるでしょう。
湯島…湯島天神付近には徳川家の菩提寺、寛永寺をはじめとして寺が多数あった。江戸時代にはじまった
檀家制度のおかげもあって、僧侶がえらく財力があり、一方で女性とまぐわうのは禁止だったため、勢い陰間
遊びにいくらしい。「好色一代男」なんかの記述を見ると、男も女も百人斬りしたぜ!っていうのを
自慢にしてるあたりからして、僧侶でなくてもホモでなくても男色に走るのはエロを極めたい人には必須だったようで。
細見…ガイドブック風のものだったようです。
なお、幕府が公認している吉原とちがい、陰間茶屋は「岡場所」、つまりは違法です。
陰間茶屋の実態というのは、どうもわかってない部分多すぎ。あらわれた期間が短いうえに、岡場所だし。
(21)
※注釈2
御城碁…ヒカ碁15巻でも秀策先生の御城碁棋譜が出てきますね。
今風にいえば、内閣総理大臣杯みたいなものじゃないだろか。優勝すると賞金ももらえたし、その会長みたいなこと
をする「碁所」は50石の給料も幕府から出たうえに将軍お目見え以上です。現在の貨幣価値にすると600万円ぐらい。
朱銀二分…今の貨幣価値にすると1万円ぐらい。香一本が一時間ぐらいもったらしいので、それだけ見ると
お安い感じですが、茶屋にも場所代、食事代払ったうえに、チップ(花代)もあるから、なんだかんだで最低5万円ぐらいは
かかったかと。ちなみに昼夜丸抱えが最低でも金三両、現在の貨幣価値に換算すると15〜25万円ぐらいで、
吉原の中級芸者に匹敵する額です。だからショタ遊びはセレブじゃないとできません。
さくら餅…将軍吉宗が起源となったお菓子で、最初は葛粉、のちに上新粉や小麦粉で作られるように
なったようです。ただ、この当時、砂糖はウルトラ高いので、餡玉はさして甘くなかったと思われます。
ただ、粉の皮に甘酒を入れていたでありましょうから、ほんのり甘い上に桜葉の塩漬けという相乗現象で甘く感じたかも。
煮茶…その名の通り、番茶や釜煎り茶を煮出して漉したもの。いうなればエスプレッソ?江戸時代はこっちのほうが
どうも主流だったようです。
志乃ばず池…現在は「不忍池」と書く上野の池ですが、寛政年間の古地図見たら、「志乃バズ池」と書いてあった。
ちなみに当時の不忍池は出合茶屋(つまりラブホ)いっぱいです。湯島にラブホが多いのもその名残か。