お江戸幻想異聞録・金剛日記
(其之三)秘密
(22)
「しかしまた…あの碁打ちのお公家さまも思い切ったもんだねェ。」
加賀屋鉄之介、通称・鉄はきせるをぽん、と煙草盆に打ち付けるとさも可笑し
そうに笑いました。
「あらァさつきの季節だったかねェ、光を昼半抱えにさしてくれって云って連れ
て行った先がしのばず池の弁天様参りだとよ。そのあとの光のはしゃぎようと
いったら。あの碁打ちの旦那が身請けしてくれるって騒いでたなァ。
そんなもん、どうせ乳繰りあいのたわごとだろうと思っていたら、ふた月まえに
藤原さまとやら、小判の束持って身請けの算段をしたいときたもんだ。」
鉄はまたぞろ煙草をきせるに詰めると、火種にかざしてぷぅぷぅ吹き、手前は
ぼんやりとそれをみつめながら、嘘かまことかといった想いに囚われておりま
した。もし、まことなら、早いうちに光は手前の手を離れることになります。
「光はうちの売れ子だからそうそうには手離せない、って云ってやったら、額を
こう…すりつけてよ、そこをなんとかって云いやがらぁ。元はお公家の藤原さま
にそうやられちゃあたまんないわなァ。で、いくらいくらと云ったら、あいわかり
ましたってんでおかえりなすった。京へ行って戻ってきたときに全部おしはらい
します、なんつってよ、どうやって金を集める気か知れねえが、とりあえず前金
はもらったんでさァ。」
(23)
藤原佐為さまは少々かわり者の碁打ちでいらっしゃいますが、誰にでもやさし
く、うちとけやすい性分、囲碁を指南なさっている金持ちのお旗本を頼って金策
をつける気でたのでありましょうか。あるいはお公家さまの末裔と聞きおよびま
すが、ご実家に財がおありなのでしょうか。
「ま…こっちァ金さえ貰えばなんでもいいってもんよ。それに光のやろう、藤原さま
が来てからってものどうも勤めに身が入っちゃいねえ。ちょうどいい厄介払いって
もんさね。」
鉄はフンと鼻を鳴らしながらさも憎々しげに申しておりましたが、佐為さまの額を
畳に擦りつけてのお願いに、鉄が折れたのを手前は存じております。鉄の申した
額も相場より相当に安いものでしたし、店でも一番の売れ子を花盛りの十五前
にして手離す手もございません。
惚れたもの同士一緒にしてやりたい、それまで幸薄かった光を幸せにしてやりたい
と云う心ゆえだったのでございましょう。
(24)
「なぁ、いすみ。おめぇ覚えてるか…あいつを連れてきたときのことをよお。
親兄弟みんな大火事で亡くして墨田の川原でぴぃぴぃ泣いてたのを俺が
拾ってきてよ…。まるで泥から引き抜いたばかりのごぼうだったなァ。
小さくてやせてて…ま、もとはタダさね。」
「そうでござんすね…」
手前は光を手ばなす辛さを考えまいと、へらへらと笑って合点いたしました。
「で、藤原さま、そろそろ来るはずだよなァ。あれからもうひと月と半だ。」
「ああ…なんでも京の都へ行きなすって、帝の前で一局打つんだそうですよ。
それで一月ほど留守にするからってお云いになりまして…」
「へえ。そうかい。ま、碁打ちってえのもてえへんなもんだな。」
(25)
昼の四つどきとあって、光は湯屋へ行っておりました。湯屋から帰ってくれば
昼飯を食らい、身支度をととのえて呼び出しを待つことになります。
ですが、佐為さまから前金としてひとかたならぬ金を受け取っているがゆえに、
ちかごろの光はなるたけお座敷に出なくともよきよう、鉄がいろいろ取り計らって
いるようでございます。
かわりに、ほうきの使い方から袴や召し物のたたみ方、帳面のつけ方、いつ光
が市井のくらしをするようになっても困らぬよう、手前がひまを見てひとつひとつ
教えておりました。
「ただいま。」
木桶に手ぬぐい、ぬか袋を入れてさらりと木綿の浴衣を着た光が戻ってまいりま
した。
ほんのり紅に染まった頬と長いうなじ。これもあとわずかで見納めかと思うと、
手前は胸の詰まる思いでございます。
(26)
「おかえり、光。飯ができてるから食いな。今日は芋煮にとうふ汁だぜ。」
光はにっこり笑ってへぇっ、と声をあげると部屋にあがっていきました。
手前が奥の板間へ入ると、光がお櫃から飯をよそいながら楽しげに小唄を
唄っておりました。
「なんだい、えれぇ上機嫌じゃねえか。」
「ふふ、佐為さまもうすぐ帰ってくるしね。あ…いすみさんも食うだろ?」
「ああ。」
「京の都ってどんなもん食うんだろ。そういやぁ佐為も江戸に来た頃はしょうゆ
の味に慣れなくて苦労したって云ってたなァ。」
「へえ、そうかい。で、佐為さまはいつごろ来るって便りあったのか?」
「ねぇよ、そんなもん。飛脚で二十日はかかるっていうから、ふみもそうすぐに
は来やしねぇよ。」
「でもよ、あれからひと月半も経ってるっていうのにまだけえってこねえって
のは、何かあるんじゃねえのかい。」
佐為さまが京へお立ちになるという前の日のことは手前もよく覚えております。
夜半にいらっしゃると、佐為さまは茶屋のいちばん小さい座敷に光を呼び、
ただただ、涙にくれて光を抱きしめたまま、次は身請けに来るから、と云いのこ
していったのでございます。