お江戸幻想異聞録・金剛日記
(27)
「おい、いすみ…。ちょいと来てくんねえ。」
奥で飯を食らっていた手前の前に鉄があらわれました。手前は箸を置くと、鉄
のしめすまま、結界の中の帳簿台へとまいりました。
鉄はといえば、眉間にしわを寄せてただならぬ様子、はて先月のつけがたまったり
でもした客がいるのか…。
「おめぇ、しょぼいとはいっても元は御家人の出だろ?どうも侍言葉ってえのは
苦手でよ。ちょいと読んでたしかめちゃくれねえか。」
鉄が差し出したのは、四つ紙にたたまれた文でございました。
「なんですか、これは。」
「いや、いまさっき、京から来たってえ急ぎの飛脚便だ。」
手前はあわててそれを開き、ひとつひとつたしかめながら読みました。
二度読み、そしてまた三度目を読み、しかし読めば読むほど手がふるえ、背中
につめたいものが走りました。
「…で、どうなんでぇ?」
読み終わって溜息をついた手前に、じれた鉄が聞いてまいりました。
「…あの…藤原佐為さまが…お亡くなりになったって…」
「やっぱりそうか。俺の読みちげえかとも思ったが…」
鉄はこぶしで額にあてて、とんとんと叩きながらなにやら思案しております。
手前は手前で、心の蔵がばくばくと聞こえるほどにうるさく、手にじっとりと汗をか
いておりました。
これをどう光に告げればいいものか。
それより前に、これはまことなのか。
しかし、手前ごときに確かめるすべはなく、ためすがめすふみを読んでいると末尾に
緒方精十郎とありまして、花押がついてございます。
「この緒方なんとかってえのは誰だ?」
「さぁ…うちのお客さまにもそんな方はいらっしゃらぬし。」
鉄と手前は首をひねりながら、ジッと押し黙っておりました。
鉄が何も云わずとも手前にはわかります。
これを光にどう伝えたものか。
いや…そもそも伝えていいものなのか。
(28)
しばらく思案したのち、鉄は帳簿をめくりつつ、ぼそりと呟きました。
「おい、いすみよ。このことはあいつには云うなよ。」
「ちょ…ちょっと鉄兄さん!」
「…いいか、いすみ。」
鉄は手前の首根っこをひっつかむと、息がかかるほど間近で声をひそめました。
「藤原さまとやらはご実家のある京へ上ったままそれっきり、なしのつぶてってこ
とにしとけ。あれだって阿呆じゃねえ。かげまの世の好いたの惚れたの身請け
するだの、そんなのはちーっともあてにならねえってえのはわかってるだろうよ。」
「そんな…。」
「前金はたしかに頂戴したが、いつまでもあれを遊ばせておくわけにもいかねえ。
おめえもうまいこと言いつくろってなじみ客の前へ出せ。いいな。」
「…。」
「そうでもしなきゃあ藤原さまを追って志乃ばず池に身投げしちまうぞ。それでも
いいのか。お勤めしているうちにあきらめもつくだろ。」
「…はい…。」
光をまっつぐに見ることなどできそうにもない気がいたしました。
光のお日さまのように晴れやかな笑い顔を前に佐為さまの死を伝えるのもつらい
ことなれば、うそにうそで固めてひび割れたぬり壁の心持ちがいつまでつづくのやら。
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ただ一つだけほっとしたことには、手前はもうしばらく光といっしょにいられ
るということ――寒い日には小さな手をあたため、腰湯につからせながら
あの白いうなじをなでてやれること――それのみにてございます。
「いすみさぁん!いすみさーーん!汁が冷えちまうよ!」
板戸の奥から鈴を転がしたような声が聞こえました。
「ああ…いますぐ行く。」
背中に鉄のするどい目を感じながら、手前は頬がつっぱるほどに笑い顔を
こしらえたのでございます。