お江戸幻想異聞録・金剛日記
(46)
飯を終えて光の部屋へ行けば、光はさっさと紅の襦袢に手を通して後ろ髪など
なでつけております。
手前は衣もの掛けに用意された黒に金の縫い取りもまぶしい振袖をとりあげ、
光に着せかけます。
帯を一度、だらりに結ってみましたが、思いなおして固い吉弥結びになおしました。
「なんだよこれ…まるで御殿女中じゃねえか。こんなんじゃ脱ぐに脱げねぇや。」
光は振り向いて手前を睨みつけました。
「衿ももうちょいと抜いたほうがいいんじゃねえのかい?昨日の旦那もほめてくだ
すったよ。うなじがたまらねえって。」
フンと鼻で笑いながら、手前をちらちらと覗います。
(47)
「ああそう。いすみさん、焼き餅焼いてんだ。知ってるよ。いすみさん、オレ
が抱かれてる間、ずーっと襖のかげからのぞいてるの。ほんとはおれが
旦那に抱かれるの、気に食わねえんだろ?」
「……。」
光は舌を出すと、真っ赤な唇をぺろりと舐め、色づいた目で手前を見ます。
「オレとやりてえんだろ?かげまと金剛ができてるなんてよくあるしさ。いいよ、
いすみさんなら。」
手前は頭にカッと血が上り、気がつくと光の横っ面をひっぱたいておりました。
「…なんだよ…。」
頬を押さえたまま、光はぎらぎらと睨みつけておりました。
「…いすみさんなんか抱きたいくせに抱けない屁垂れじゃねえか!」
(48)
胸に刺さる言葉にくるりと背を向け、手前は振袖を入れていた畳紙を片付けま
した。
手前はたかが金剛でございます。腰湯をつからせながら、撫で上げたうなじの
香りをこっそり嗅ぐだけでございます。鉄の顔色をうかがい、まことを伝えたく
とも伝えられないこの身、何度小さな唇に、うす紅の頬に口付けたいと思った
ことか。旦那衆にかわって光を思い切り抱けたなら、佐為さまにかわって光と
いっしょになれたなら。
「…さ、そろそろ時間だぜ。気の早えお客さまが来るころだ。」
「いすみさんの…腰抜け…」
手前はそっと部屋の襖をしめました。どこかから日高の甲高い声がいたします。
そして今日も長い長い一日がはじまるのでございます。
(49)
その夜、お越しになったのは一柳天海さまでした。
一柳天海さまはさる大きな寺のえらいお坊さまでいらっしゃります。たいへん
おやさしい方でその日もどっさりと手土産を持参してお越しになりました。
座敷を開けば、一柳さまはつやつやとした丸顔を崩してお笑いになりました。
「おお、光之丞、いつもながらうるわしいが、今日はまた一段と…」
膳にはお坊さまらしく、酒もなまぐさものもございませんでしたが、傍らの高杯
には黄金色に輝くもの、さまざまに美しい模様のあるものがうずたかく積まれて
おりました。
一柳さまは高杯をひきよせると、光に差し出しました。
「これはかすてぃらと申す南蛮渡来のお菓子、お前さまも聞いたことはあるじゃ
ろう?こちらは落雁と申すお菓子じゃ。ささ、好きにお食べなされ。」
めまいがするほどに眩しい菓子を前に、手前はごくりと生唾を飲み込みました。
光は皿に盛られた菓子をとると、南蛮菓子の端をかじりました。
(50)
「どうじゃ?」
「あまい…さくら餅の甘さとは…ちがいます…」
「ほほう、光之丞はさくら餅が好きか。千両かげまと云われたお前さまが一つ
六文のさくら餅とはのう。」
一柳さまは体を揺すってお笑いになりました。ちらと光をうかがうと、光の目が
潤んでいるようにも見えました。
ですが、光は南蛮菓子を口に放り込むと、一柳さまに晴れ晴れと笑って見せた
のでございます。
「さて金剛、こちらは練り羊羹にて、持ち帰りなされ。」
桐の箱が目の前におかれ、それを合図に手前はつと立ち上がってお座敷をあと
にいたします。
一本で朱銀一つとも二つとも云われる練り羊羹が箱にいくつ詰まっているのか、
桐箱はずしりと重うございました。