お江戸幻想異聞録・金剛日記
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大きな襖が音もなく引かれ、青々とした畳の向うで墨色の袴をつけた男が折り
目正しく正座してこちらをうかがっております。
「遠いところをわざわざお越しいただき、かたじけない。」
手前と光はあわてて頭を下げ、ご挨拶差し上げました。
「私は芹澤一斎と申します。急なお願いにて失礼いたしました。」
芹澤さまは年のころ四十かそこら、鬢つけ油のつやもあざやかな髪はきれいに
整えられて、お召し物もまるで洗い張りしたすぐ後のようにこざっぱりとしており
ます。相当な伊達男だというのは一見にしてわかりました。
するどい両方の眼はなんとはなしに冷たく、ふくろうを思わせましたが、物腰は
いとやわらかげにて、絵師と聞いてよほどの偏屈かと思っていた手前は少々、
拍子抜けしたものでございます。
幅五間はあろうかという広々した間のやや中央には炉が切られ、鉄釜が湯気を
上げておりました。
芹澤さまは目を伏せがちにした光をしばらくジッと見ていらっしゃいましたが、
咳払いを一つすると、目の前にある煎茶の急須と盃ほどにちいさな茶碗を引き寄
せました。
「いや…不躾に眺め回してしまって申し訳ない。その…思った以上におきれいな方
でしたので。」
「は…?…オレが…ですか?」
「ええ。」
芹澤さまは臆することなく勺で釜から湯をくみ、手馴れた様子で茶をお点てになっ
ていらっしゃいます。びっくりしたのは光で、ちらと手前を見た頬はうっすらと朱に
染まりました。
『このひと…オレをきれいだってさ…』
唇がそうかたどって目をぱちぱちとしばたく様子に、つい手前は笑みを浮かべ小さく
頷きました。
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光は愛らしい子でございますが、云われてみればなるほど、近ごろの大人びた
顔はひっそりと咲く大輪の芍薬のようでございます。
「お茶を一服いかがですか。」
芹澤さまから差し出された茶碗は手の中にすっぽりおさまってしまうほど、ゆっくり
と口をつけますと、口の中に濃い香りと甘やかな味が広がりました。
「おいしい…。」
「それはよかった。」
茶を褒めてはみたものの、手前も光も言葉とて続かず、手持ち無沙汰に、畳の上
に重ねられた和紙の束に目を落としました。
「ああ、急いで片付けたのですが…散らかったところにて申し訳ない。」
「あ…それ…見ても?」
光が身をのりだしますと芹沢さまは微笑まれ、そろりと紙の束を持って光のすぐそば
にいらっしゃいます。
「下絵が多いのですが…」
上等な和紙には墨で描かれた花や草に混じって、色をつけた美人画が何枚もござ
いました。あるものは腰をちょいと折って朝顔を愛で、あるものは茶をささげもち、
あるものは口に袖をあてて伏し目にしております。どれもあでやかなうつくしさで描
かれておりまして、光はほぅと溜息をつきながらそれらを眺めておりました。
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「これ、全部先生が描いたのですか?」
「はい。」
「わあ…きれい…。」
そう云った光に芹澤さまは少々困った顔をなさいました。
「お褒めいただけるのは嬉しいのですが…近ごろは牡丹を描いても桜を描いて
もちっともうれしゅうございません。ましてや女の絵など。」
「はぁ…。」
「ですがある日、版元に出向いた帰りに…光之丞殿、あなたさまとすれ違いま
した。」
芹澤さまはそこで一旦、言葉を切ると静かに光の瞳を覗き込みました。
「ようやく私が描きたいものに出逢った気がいたします。」
「え…?オレ…?」
「はい。描かせていただけますか。」
「あ、あの…なんでオレ?」
「なぜとおっしゃられても…私にもうまく説明がつきませんが…いままで幾多
の女も男も描いてまいりましたが、これほど描きたいと思ったことは。」
「あの…描くってオレの何を?」
「すべてでございます。」
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間髪いれずお答えになる芹澤さまに、光はたじろいでおりました。
「もしかしてあぶな絵とか…その…艶本にも載ってるようなやつも?」
「おいやですか。」
芹沢さまは真剣なまなざしを光にむけました。風が吹いたのか、明るい障子の
向うでは木の葉がさやさやと凪ぎ、どこか遠くでとんびがのんびりと長く啼いて
いるのが聞こえました。
あぶな絵は手前も何度か見たことはありますが、ようは交合(とぼし)の図、
一見、生真面目で清廉に見える芹澤さまもなんのかんのといいわけをつけて光
を抱き、それを絵にしようという心づもりなのでありましょうか。
光は口元に袖を寄せ、しばらく考えたのちにぼそりと答えました。
「わかった。――先生の好きにしていいです。」
結局、こうなるしかないのはわかっておりましても、うっすらと喜色を浮かべ
た芹澤さまを前に手前はがっくりとうなだれました。
とぼしのとの字も知らぬといった顔をしてこの先生も一皮むけばただの旦那に
しかございません。
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「そうですか。受けていただけますか。」
「はい…オレ、絵のことはわかんねえけど、先生の絵、好きだし。」
「ありがとうございます。そう云っていただけるのは光栄にございます。」
芹澤さまは手前が落ち着かない顔をしているのを気にしてか、こちらにも向き
なおって深く一礼なさいました。
「いすみ殿――光之丞どのの名は明かさぬゆえご安心を。」
「あ…はい。」
芹澤さまはすうと息を吸うとパンパンと手を叩きました。
「村上、すぐここに筆と硯の用意を。」
「はッ。」
さきほどの弟子が筆がいくつもささった筒と色とりどりの墨を持ってまいります。
さっそくことに及ぶ気かと手前は腰を浮かせかけました。
「では、手前は外でお待ちしておりましょう。」
「いや、いすみ殿はできればこのままいらっしゃってください。」
「は…はぁ…。」
わけもわからず座りなおし、芹澤さまを見ますと、芹澤さまはうすい唇をきっと
真一文字にひきしぼって筆をおとりになりました。