お江戸幻想異聞録・金剛日記

(73)
「それではさっそく…光之丞殿、楽になさっていてください。」
「はい、あの…」
光はもじもじと着物のはじをひねりねじりしながら申しました。
「先生、その…光之丞どのっていうのは…」
「はい。」
「どうも慣れないんで…えぇと…。」
その言葉に芹澤さまは静かに筆を置き、微笑まれました。
「それなら…愛しい方はどうお呼びに?」
「え…ええっ?」
「愛しい方がいらっしゃるのでしょう。」
心の臓がびくりと波立ちました。光はうつむいたまま、一方で芹澤さまはそん
な光をどことなく楽しげに見ていらっしゃいました。
「…愛しい方って…オレが好きな人?」
「ええ。」
光はそわそわと体を動かしながら、そっと呟くように云いました。
「…あいつは光って…呼んでる…。」
光の瞳がゆらめきました。膝に置かれた手がカタカタと震えております。
芹澤さまは満足気に深くうなづきました。
「さようでございますか。光――なるほど。」
「べつにあいつだけじゃないけど。いすみさんだって、おやっさんだって…」
「さようで…。ならば、私が光と呼んでも?」
光はなにやら云いたげにしておりましたが、結局、こくりとうなづきました。

(74)
「では光…。少々、首を傾けていただけますか。」
身をすくめていた光がそろそろと首を傾けました。障子からこぼれおちる陽に
照らされた白いうなじがまぶしく、芹澤さまは筆をにぎりしめると紙の上にさ
らさらと描き始めました。
そのすぐ後ろには弟子の村上がきちりと座してものも言わず師の手を見ており
ます。芹澤さまの云われるよう光が向きを変えたり座りなおしたりする間、と
きどき風のそよぎや木の葉のざわめきが聞こゆるほかは、筆が紙の上をすべる
音のみが聞こえます。
まぶしいほどの陽の輝きに包まれてのどかな様子ながら、どこか糸がぴんと張
り詰めたような心持がいたします。

ふとカタリと筆を置く音がしまして、芹澤さまは描きあげた絵をながめ、眉根
を寄せながら首をひねっていらっしゃいました。
「ううむ。これではない。」
誰に云うでもなくつぶやくと、くしゃくしゃと紙を丸めてしまいました。そう
してまたさらさらと何か描きつけました。
「…違う…。これも違う。」
なにやらぶつぶつ云いながら描いては丸め、描いては丸めするうちに、芹澤さま
の眼に厳しい光が宿り、額にはうっすらと汗を浮かべていらっしゃいました。

(75)
「――うむ。まずまずの出来だな。」
そう呟いて大きな半紙を取り上げたころには、障子には真っ赤な夕日が照り映
えておりました。
「――今日のところはここまでにて…。お疲れになったでしょう、光。」
「う…ううん。」
光はあわてて首を振りました。
「これ、村上。夕餉の支度はできているか?」
「はい。あちらに夕餉を用意してございます。」
村上の案内する先について部屋を出る手前どもに、芹沢さまはまた深く頭を下
げました。
さすがに光も疲れたらしく、離れの部屋に通されると、崩れ落ちるように座って
とんとんと肩を叩いております。

傾きかけた陽の中には黒塗りの膳があわせて六つほど並べられておりました。
「わあ、なんだかすごいね、いすみさん。」
そう云って光が座った前には魚や季節の菜がきれいに並べられ、かたわらには
いくつかの水菓子まで添えられております。
「料理茶屋みたい…。」
光が手前の耳元でささやいてくすりと笑いました。

村上が音もなくあらわれて膳の上に汁物椀を置いていきます。
「それでは、ごゆっくりお召し上がりください。」
一礼して襖が閉じられますと、光の顔がほころびました。

(76)
「いすみさんと二人でこんなお膳を食べるのって初めてだよね?」
「そうだな。」
二人で箸を取り、あたたかい夕餉を口に運びます。菜は市井のありきたりなも
のばかりですが、手間を惜しまず作られておりまして、なにやらほうっとする
ような味がいたします。
「うわー。料理茶屋と違っておいしいや。」
「へえ。料理茶屋の膳てのはうまくないのか?」
「えぇ?旦那にお酌しながら食う飯の味なんて覚えてねぇやい。」
うれしそうにかぶらや芋煮を突つく光に手前もほほえましい心持になります。
いつもなら部屋で一人飯を食らうのはまだいいほう、ほかのかげまたちとさっ
と飯を済ませることのほうが多うございます。売れ子の光を妬み、追い落と
そうとする目を受けながら飯を食らい、お座敷にあがれば旦那衆に酌をしなが
らちまちまと小鳥のように菜をつまむのみにて、心安らぐ飯などありませぬ。
佐為さまと一緒の膳のみが数少ない機会でしたが、それも今となってはござい
ません。
「そうだ、こんどからいすみさんもオレの部屋で一緒に食えばいいんだ。」
「ばか、そんなことをしたらまた鉄兄さんが甘やかしすぎだって怒るぞ。」
「日高に一枚めをとられたってオレ、まだ二枚めだぜ。おやっさんだってがた
がた云ってもオレには逆らえねえだろ…ふん。」
こうしたところはさすがかげまといいましょうか、なかなか一筋縄ではいきま
せぬしたたかさでございます。

(77)
「まったく…今は二つめといったっていつ坂道転がり落ちていくかわかんねえ
んだぞ。」
手前が小言を云うと、光はあじの干物をむしりながらぷうっと頬をふくらませ
ました。
「なんだよー、いすみさん、せっかく二人きりだってのにうるさすぎ。」
「俺は…」
「二人きりでおいしいもの食うのもいいだろ?」
光はいたずらっぽく笑い、箸をくわえたまま上目遣いに手前を見ます。その瞳
に手前の心の臓がどきりとはねました。

「それにしても…拍子抜けした…。すぐに袖をひっぺがされるかと思ったよ。」
「あぁ、あの先生、あぶな絵も、とおっしゃって俺にもそばについていろとか
云うしな。」
「アハハ、いすみさんはいつも襖のかげから見てるんだから同じことだろ?」
「ばか、俺はただおめえが心配で…」
急に痛いところをつかれて、手前は耳までほてってくるのを覚えました。
「ふぅん。心配…だけ?」
「そうだ。ほかに何がある?」
「なぁんだ…。つまんねえの。オレ、つらいときはいすみさんが見てるって
思ってるんだけどなぁー…。」
からかっているつもりなのか、光はそう云ってはにんまり笑って見せます。
「…まァ、佐為といるときはちょっと恥ずかしかったけど。」
小さく漏らした言葉にいっとき胸がえぐられる思いでちらと光を見ましたが、光は
唇のはしにふと笑いを浮かべたのみでございました。

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル