お江戸幻想異聞録・金剛日記
(78)
夕日が傾く中、手前と光はのんびり言葉を交わしながら膳をきれいにたいらげ
ました。茶をすすっていると下男なのか弟子なのか、さきほどの村上とはちがう
男があらわれて風呂に案内すると云います。
村上よりいくぶんがっしりとした体つきのこの男は親しみやすい様子にて、聞け
ばやはり芹澤さまの弟子にて辻岡と名のりました。
「ここには棲みこみのお弟子さんが何人かいらっしゃるのですか。」
手前が聞きますと、辻岡と申すこの者はにこやかにほほ笑んで答えました。
「ええ…村上と手前とあともう一人、飯島と申す年若の弟子がおります。…それ
から時々、絵を持ってやってくる通いの者が四、五人ほどですか。」
「あのう…つかぬことをお聞きいたしますが…。」
手前は辻岡の実直そうな様子にかまけてちょいとかまをかけてみたのでござい
ます。
「先生は…その、色本の絵もお描きになるとか…。」
「あぁ!」
辻岡はぽんと膝を打って、にこにこと笑いました。
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「御用絵師でもないかぎり、絵で身を立てるのもむずかしゅうございます。皆
様、号を変え版元を変えして描かれていますよ。うちの先生はあのとおりです
から、自分が気に入ったものしか描きませんが。」
聞けば、そうしたものにうとい手前ですら名を聞いたことのある絵も描かれて
いらっしゃります。江戸の果てとはいえ、これほど広く手入れのいきとどいた
屋敷を構えていらっしゃるのも色絵で得た金の力というものでございましょう。
「さようで…。はじめ色ごと絵も描くとおっしゃっていましたが、結局、そのよう
なことはありませんでしたが。…とすると、気に食わなかったのでしょうか。」
手前がそう申しますと、辻岡は首を振りました。
「いえいえ、先生は絵には厳しいけれどもたいそう真面目な方でいらっしゃい
ます。おそらく、光さまを見ているうちに無体なことはできぬとお思いになった
のでしょう。何しろ、お若いですし。」
なるほど、光は大人びてきたとは申すものの、体つきも同じ年頃のかげまよ
り一つ二つ下にも見えます。年端もいかぬ子がまぐわうさまを描くのもしのび
ないと思ったのやもしれませぬ。
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「それで…芹澤先生は今どちらに?」
「ああ、母屋にてさっそく色をつけていらっしゃいます。もうああなると寝食
も忘れてしまって…。」
困ったように苦笑いをうかべる辻岡は、ちらと母屋のほうを見やり、一礼して
立ち去りました。
風呂からあがって座敷に戻りますと、すでに布団がふたつ並べて敷いてござい
ました。湯で温まったからだには布団の冷たさもここちよく、手前も光も上掛け
をめくってそこに体をすべらせるやいなや、あっという間に眠りについたのでござ
います。
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夜の冷えた空気に身震いをして目が覚めたのは夜半すぎでございましょうか。
目をぱちりと開けてみると、いつもと違い、恐ろしいほどに空気が澄みきって
静かなものでございます。
真っ暗やみの中、となりに目を凝らしましたら、となりの布団は上掛けをはね
たまま、もぬけの空になっておりました。
「光…?」
呼びかけてみても返事などあろうはずはなく、はて、厠へでも行ったのかと思い
ましたが、いつまでたっても戻ってくる気配もございません。
手前はあわてて飛び起き、ようやく闇になれてきた目をたよりに襖へとにじり
寄りました。
襖をあけてもそこは漆黒の闇、そろりそろりと廊下を伝ってみます。
廊下をつきすすめば渡り廊下があるはずで、その先は昼間、先生が絵をお描き
になっていた部屋にございます。
ジッと目を凝らしますと、そこからうすい灯りが漏れておりました。
はだしの足から冷たさがのぼってくるのをこらえ、灯りが漏れる先へと参りました。
手前が母屋に続く渡り廊下に踏み入れたときでございます。
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後ろに人の気配を感じてはたと振り向きますと、そこには夕餉のときと同じよ
うに紺色の袴をつけた辻岡がおりました。
「あ、あの…辻岡さま…光をご存知ありませぬか。」
辻岡はそれには答えず、手前についてくるよう目で促すと、昼間の座敷の前で
かた膝をついて、わずかに襖を引きました。
黄色い行灯の光が大きく影をつくり、ゆらゆらと動いております。
細身の芹澤先生がこちらに背中を向けていらっしゃいました。先生は身をかが
めて一心不乱に筆を動かしていらっしゃいます。
そして、その向うには光が生成りの小袖一枚で座っておりました。