お江戸幻想異聞録・五月雨(さみだれ)

(其の参)

(16)
 空に黒い雲が漂いがちな日々が続く。春どころか季節はもうすでに夏に向か
いつつあるというのに、座敷の空気は冷たく、時に身震いをするほどだった。
弟子たちが碁石を打ちつける渇いた音の中、塔矢行洋は音もさせず畳の上をす
べるように歩き回っていた。
弟子といっても色々で、下は十になるかならないか、上はそろそろ白髪が出始
めている者もいる。行洋もかつてはこうして来る日も来る日も修行に明け暮れて
いたことを思い出さずにはいられない。
いざ、名人碁所になってみれば、免状書きやら将軍へのお目通りやら、ほかの
家元との会合、碁を打つよりもそうしたわずらわしいことのほうが多くなる。以前
は碁好きの旗本は藤原佐為に任せておくこともできたが今はそれとてきかぬ。
なにしろ、あれほどの才を持つ者と対局できなくなった痛手たるや生半可では
なかったが。
 対局で各地を行脚することもそうそうにできず、今は若い棋士たちを指導して
いるが、やはり、時おり弟子ではなく自分が打ちたいと真に願うこともある。

(17)
座敷の一番はじまで来たとき、行洋は足を止めて一枚の盤を凝視した。
片方は黒々とした豊かな髪にきちんと羽織を着込んだ行洋の息子であった。
二歳から碁石を持たせた甲斐があってか、息子は順調に育っている、と思う。
ことに、光之丞があらわれてからというもの、息子には気迫も備わってきた。
ちら、と息子の前に座る光之丞を見ると、白い肌と赤い唇がまるで少女のよう
に見えた。だが、その打ち回しといえば、なかなかの剛の者、息子の強引な手
筋にもひるむこともなく、硬軟うまく合わせ、息子とがっぷり四つに組んでいる。
明から一子かみとった光であったが、形勢は互角、これからどうなるか楽しみ
だった。

 はじめて光之丞を見たときは驚きもした。佐為からなんとなくには聞いていた
ものの、色留袖から見えるうなじがまぶしく、これならあの生真面目な佐為で
も落ちなんと思ったものだ。
 だが、一局、手合わせをしてみれば見かけに似合わない剛の者、ときに佐為
を彷彿とさせる手だれた打ち筋に行洋はうなった。
 手合わせしたのち、行洋が佐為にかわって身請けすると告げた時は光之丞は
驚きもせず、根問いもせず、静かによろしくお願い申し上げます、とだけ云って
深々と畳に額をつけ、何を勘違いしたのか、行洋の横へ座ってしなだれかかって
は濡れた目で行洋を見上げた。

(18)
 今でもはっきりとその表情は覚えている。あまりの美しさに、行洋はしばら
く振り払うこともできず、沈丁花の匂いのするその体を片手でそっと引き寄せ
ただけだった。
 翌日、地味な男物の着物を着せて進藤平八郎の家に向かう道すがら、光
はずっと押し黙ったままで、いざ、平八郎の庵に光之丞を置いて帰ろうとした
ときのことだ。光は瞳を揺らせてためらいがちに呟いた。
「先生――これから俺はこのご隠居様の夜伽をすればよろしいのですか。」
考えてもみなかった問いに行洋は目をまるくした。思えば、行洋も緒方も光の
美しさに言葉を忘れて肝心なことをまったく告げていなかったのだ。光が勘違
いするのも無理はなかった。
 そこで、行洋は噛んで含めるように佐為の代わりに身請けした以上、夜伽も
いらぬし、自由であること、光の好きに任せるができれば行洋のもとで碁の才
を磨いてほしいこと、またそれまで平八郎老人のもとで男としての所作振る舞
いを覚えてほしいことをやっと告げた。
 光は大きな目を見開いてそれを聞いていたが、こくりと頷いた。そうして、行洋
が立ち去るのを見えなくなるまで見送っていた。

 それから半年、光はずいぶんと男の子らしくなってきたとは思う。だが、男ら
しくなったぶん、いっそう長い睫毛やその下の輝く瞳の大きさ、赤い唇が場違い
なほどなまめかしく見えてくる。
 初めて会ったときのようなかげま特有のなよなよした姿からどこかやんちゃな
様子に変わったことに行洋はほっと胸を撫で下ろしながら、頭の隅でわずかに
それを惜しむ、そんな心持になったのであった。

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