吸魔2
(36)
唐突に正面からヒカルにそう言われてアキラは戸惑った。ショックだった。
ヒカルが自分を困らせようとしているのか、冗談でそう言っているだけと思いたかった。
だがヒカルの語気は激しく、自分を見る目も演技とは思えなかった。
「…悪かった…、そんなふうに思われていたなんて…、気が付かなくて…」
「悪いと思うならオレの前から消えてくれ。オレが言いたいのはそれだけだ」
「それは…嫌だ…!」
「ハアッ?」
「キミはボクのライバルだ。そしてキミもボクの事をそう思っている、そのはずだ!」
「ヴァカか?オレはお前の事なんかもう相手にする気はないって言ってんだよ」
「本当に本心でそう言っているのか?ボクにはそうは思えない!!」
通りで激しく言い合いをする2人を他の通行人がちらりと見遣っていくが、構っては
いられなかった。強い口調でアキラがそうヒカルに詰め寄ると、一瞬ヒカルが怯んだ。
だが、ヒカルもまた負けじと声を荒げて返して来た。
「わかったよ、塔矢。じゃあはっきりさせよう。これから対局して、オレがお前を完全に
負かしたらオレにつきまとうのは今後一切やめてくれ!」
「…本気で…言っているのか」
「本気だよ」
アキラとヒカルは暫く互いに激しく睨み合う。
やはりアキラにしてみればどうしてもヒカルの態度には違和感を感じてしまう。
――今のヒカルはどうかしている、誰かに洗脳か何かされている、としか思えなかった。
とりあえず今はヒカルの申し出を受けるしかなかった。
「…分かった…打とう」
打つ事でヒカルの目を覚ますしかないと思った。
(37)
棋院会館内にも打てる場所はあったが、取りあえず他の場所を探す事にした。
そして裏通りの古い建物に碁会所の看板を見つけ、2人で入った。
半分はオープンスペースでそれぞれの席でまばらに打ち合う者らがいたが、
奥にはつい立てで区切られたテーブルもあった。
その一つに2人は入った。
「いいか。負けたら二度とオレに話し掛けるな、つきまとうなよ」
念を捺すようにヒカルが言い、石をニギった。
当然アキラも手加減するつもりはなかった。
ヒカルとの対戦の勝率はアキラの方が上だ。それはヒカルもわかっているはずなのに
この強気と自信はなんなんだろうと思った。
盤上を睨みながら、アキラはヒカルを観察した。
堅苦しくシャツのボタンが止められているのが気になった。ヒカルには珍しい着方だ。
アキラは薬の事も疑った。眠れないとか、そういう不調で精神科で安定剤でも貰って、
それでハイになったり気分がくるくる変わるのではないかとか。
だがすぐにアキラのそういう余計な事を考える余裕は失われた。
対局が始まってすぐに思いもよらない程のヒカルの激しい攻め立てに遭ったのだ。
時間はそんなにかからなかった。
もちろんアキラも反撃したが、別人のようなタイプの異なる強さでヒカルは
冷静に正確に切り返して来た。
戸惑いや動揺があった分アキラは遅れをとったが、それ以上にヒカルは強かった。
(38)
「あり…ません…」
喉から絞り出すようにアキラはその言葉をヒカルに伝えるしかなかった。
かつてヒカルから受けた敗北感を、もう一度かこういうかたちで味わう事になるとは
思ってもいなかった。
打ち合いながらアキラは背筋にゾッとするものを感じた。
ヒカルの打ち筋はリーグ戦で相手となる百戦錬磨の熟練棋士らが複合したような、
彼等の戦略を綿密に計算さし調合したようなものだった。
特に芹澤に似ていた。魔手に絡み取られるように、打ち合いながら相手の術中に
ハマッていくのがわかる。それがわかっていてもどうしようもなかった。
「…何も言うことはないよな」
ヒカルが席を立ち、出口へ向かった。
約束は約束だった。ヒカルを追うわけにはいかない。
それでも、アキラはまだ納得出来ないものがあった。
「進藤…!」
建物を出たところでアキラはヒカルを呼び止めた。それをヒカルは無視して早足で
立ち去ろうとする。
アキラはヒカルを追い、ヒカルの腕を掴むと裏通りから更に横道へと引き込んだ。
強引だとは思ったがもう手段を選んではいられなかった。
力任せに無理矢理ヒカルの軽い体を古いビルの壁に強く押し付ける。
そうして向き合うと、ますますヒカルは不機嫌にうんざりした顔つきで表情を歪め
大きく溜め息を吐いた。
(39)
「…痛エな…なんなんだよ…」
乾いた声で、一層冷ややかな視線でヒカルに斜に見上げられるのがアキラには辛かった。
今までも、そしてこれからも何があってもヒカルと自分の間は“神の一手”という
キーワードで深く結びついていると信じて疑ったことがなかったからだ。
みっともないとわかっていても、こうしてヒカルにすがりつくようにして繰り返し
問うことしか出来なかった。
「進藤…、芹澤先生に…何か言われたのか?」
ヒカルが急に変わった理由を考えるにはそれしかない。
だが、ヒカルの方も苛立ちが限界に来たようだった。
「しつこいなア本当に!いい加減にしろっ!!」
それまで無抵抗だったヒカルが今度はアキラの襟首を掴み上げ、そのまま力任せに
締めて来た。そして全体重を掛けて狭い横道の反対側の壁にアキラの体を叩き付けた。
「うっ!」
背中や後頭部を強かに打ってアキラは呻いた。
ヒカルはそのまま何度かアキラの体を壁に叩き付け、さらに首を絞めて来た。
「二度とオレに近付くな!でないと…殺すぞ!!」
容赦のない、信じられないくらい強い力だった。ヒカルの指が喉に食い込み
爪が皮膚にめり込んで来る。
アキラはヒカルが本気で自分を傷つけ、あるいは殺そうとしていると思った。
夢中でもがき、足でヒカルの脛を払い腕を取ってそのままヒカルの体を
横倒しにした。緒方から習ったことがある護身術の真似事のようなものだった。
(40)
「くそおっ!!」
ヒカルが起き上がり、喉を押さえて咽せ込んでいるアキラに掴み掛かって来た。
ヒカルは再度アキラの首を絞めようとしてくる。狭い横道で揉み合い、アキラも必死で
力任せにヒカルを突き飛ばした。
横道の奥にあったゴミの山の中にヒカルは突っ込み、起き上がろうとして呻いた。
「痛っ…!!」
運悪く倒れた時に手をついた場所にガラスの破片があり、手の平が裂けて、赤い血が
ヒカルの手首まで流れ出て地面に落ちた。
「進藤っ!!」
アキラが驚いて駆け寄り、怪我をしているヒカルの手首を掴んで傷口に唇を当てる。
破片が入り込んでいないか、血を強く吸い出しては地面に吐いた。
「よ、よせっ、やめろ…っ!!」
ヒカルはアキラから離れようともがき暴れた。
が、アキラの唇が自分の手の皮膚に触れる感触が繰り返されると次第に様子を変化させた。
アキラは血を一旦吸い出すのを止め、周囲を見回した。
「まだ血が…ゴメン…!この辺りに薬局は…」
その時アキラはヒカルがアキラに手首をとられたまま尻餅をついた姿勢で動かず、
傷口から滲み出る自分の血を見ながら呆然として震えているのに気付いた。
「本当にゴメン…進藤、立てる?他に怪我でも?」
心配そうにアキラがヒカルの顔を覗き込む。その時ヒカルの口から出た言葉は、
アキラにとって信じられない意外なものだった。
「もっと……って…」
「えっ?」
「血を…もっと…オレの血を…吸って…塔矢…」
アキラにはヒカルの言っている意味がわからず、咄嗟にどう反応するべきか
判断出来ないでいた。