幻惑されて〜Dazed & Confused
(21)
Chapter dazed 2
ぼくは短い坂を降り、そしてまたあがっていった。
たったそれだけなのに、心臓が騒がしく跳ねた。季節はもう10月でそんなに暑くもない日なのに、じっとりと背中に汗をかき、息が乱れてる。心臓は九段下駅の階段を登っているときからバクバクしっぱなしでめまいまでしてきた。
静かな住宅地の一角にレンガ色のマンションを見つけた。左手に持っているメロンの重さを感じて、ぼくは生まれて初めて買った木箱入りメロンの袋を揺すりあげた。
このマンションはそこそこ大きいんだけど、なぜかしんとしていて、前回も、また今回も誰ともすれ違うことはなかった。
そういえば、このへんって、「番町皿屋敷」があったところなんだった。あれは半分、実話らしくて、このへんにはあの怪談にちなんだ地名がいくつかある。棋院前の坂だってその一つらしい。
えーと、あれってたしかお侍さんの家の女中、お菊さんが家宝の皿を割ってしまい、それを咎められて井戸に身投げしたんだっけ?
それから夜な夜な「いちま〜い、にま〜い」とお皿を数えながら泣くとかいう話…じゃなかったかな?
その話を思い出していたら、なぜかお菊さんが塔矢先生に似ている気がした。物語になるぐらいだから、たぶん、絶世の美女なんだろうけど、めちゃくちゃ執念深そうなところ、塔矢先生っぽい。
エレベーターで六階まで上がり、そこから二つ目のドアでドアベルを鳴らす。しばらくして扉の向こうで微かに物音がしてドアが開き、ちょっとびっくりした様子の先生が顔をのぞかせた。
「すみません、連絡もしないで急に押しかけてしまって。」
ぼくはしどろもどろになりながらやっとのことでそう言った。
でも、先生は少しもイヤな顔をせず、ぼくを入れてくれた。
先生は黒いパジャマの上にカーディガンをはおっていて、髪を後ろで束ねていた。普段は隠れている頬の部分がきれいに見えて、塔矢先生って意外に細面なんだと知った。髪に隠れている時はほっぺたがもう少しふっくらしているのかと思ってた。昨日、寝ていた時に気付きそうなものだけど、どうやら脳内補正していたみたいだ。――でも、尖った顎もすごい色気があって、ぼくはまたそれを脳裏に焼き付けた。
リビングに入りメロンの入った木箱を渡すと、先生はまたびっくりした顔をしてぼくを見た。
「えっ…そんなに気を使わなくてもいいのに。」
何がいいかわからなかったんでメロンにしました、とか言いながら、ぼくは先生がそれを受け取って大事そうにテーブルの上に置いたのが嬉しかった。第一、お見舞いにかこつけて先生に会えるのが嬉しくて――先生には悪いけど、もう少しヘバってくれてもいい気すらしてた。
そうすれば、ぼくは甲斐甲斐しい押しかけ女房のように毎日、ここに来て何くれとなく先生の面倒が見られるし…それで…いつの間にかイイ仲になっちゃうっていうのもあり…かもしれないし。
ちらと先生の横顔を見ると、白いうなじが丸見えになっていて――さっそく、今晩のオカズに感謝しつつ、ぼくは頭の中でフラチな妄想を開始していた。
――白くてすべすべでいい匂いのするうなじに後ろからキスすると、先生が「あっ」とか言って身をよじったりなんかしちゃって…でもそこから先は言いなりで……以下略。
そこまで妄想展開したところで、何度か目をパチパチとしばたいた。エロい目付きで見ているのがバレてやしないか、心配だ。
(22)
先生は昨日からすると意外なほど元気で――もしかして、進藤さんと何かあったから元気になったのかと思うと、ちょっとテンション下がってきた。
――やっぱり、ぼくなんて勝ち目はないか…。でも、ぼくは遠まわしにさぐりを入れてみることにした。
「進藤さん来てから…病院へ行ったんですか?」
「ううん。大したことないと思うし――ここのところ、夜中まで起きていたりしたからね…疲れがたまっていたのかもしれないね。――そんなことじゃいけないんだけど。」
先生は手早くお茶を入れながら、進藤さんのことなど完全スルーでそう言った。
「そうそう、今度、食事でも御馳走させてくれないかな。――ボクの世話なんかする義理もないのに面倒を
かけたから、そのお礼というか。」
ウワーッ!!!!ぼくは心の中で万歳三唱していた。憧れの先生とデート!!!!しかも、二人っきりで食事!!!!何を着て行こうか、今からウチのタンスの中身を思い浮かべる。やっぱりスーツ?いや、
でもちょこっと誘った程度でガチガチにお堅い格好も変だし…進藤さんっぽくアメリカンカジュアル風にキメてみようかとも思った。かといって、進藤さんとはりあうようにするのもなんだかなぁ。
アレコレ考えながら、とりあえず社交辞令で遠慮する振りをしてみる。
「え…いいですよそんなの…。ぼくの方こそ、憧れていた先生に信頼していただいたみたいで…ちょっと嬉し
かったです。」
「そう?」
ぼくは正直に言いすぎたかなと思ったけど、先生はふわりと笑っただけだった。それにしても、先生はいかにも自己管理が徹底していそうなのに、大事な一局の前に体調を崩すって普通じゃない気がした。やっぱり、進藤さんが原因なのかと勘繰り、一瞬、彼が百年目のカタキみたいに思えた。
「えっと…進藤さんは…何か言ってました?ぼく、起こしてって言われてたのに…。」
先生の顔が一瞬、強張った気がした。でも、先生は何の感情もとどめていない目をして緑茶の入った茶碗をぼくによこした。
「…岡くんは…なんで知ってたんだ?」
ぼくはビクッとしてソファの上で固まった。渋谷のカフェで見た二人――先生の蕩けるような微笑が脳裏をよぎり、そして、ドアの向こうから聞こえた伊角さんの声を思い出しながら、ぼくは口ごもった。
「え、えーと…それは…。」
うろたえるぼくを前に、先生は目の前のソファにストン、と座った。
「――なんてね。別にいいよ。実は結構バレてることだから。」
身体から力が抜けた。…よかった。二人の秘密を口走っちゃったのにもかかわらず、先生は怒ってないみたいだ。
それとも、先生は秘密を共有することを許してくれたんだろうか。
ぼくはソファの上でモジモジしながら声を振り絞った。
「ぼく、別におかしいとか変だとかなんとか…考えたことありませんから!先生は先生だし、進藤さんは進藤さんだし…ぼ、ぼくはどっちも憧れてて…えっと…なんていうか…二人ともスゴいカッコイイし、男とか女とか関係ないと思うし…!男女の恋愛を超えちゃってるっていうか…あ?ていうか、塔矢先生に釣りあう女の子なんてそうそういないわけで…そういう意味では進藤さんぐらいの人でないと釣り合わないですし…」
まずい。非常に、まずい。なんか話がどんどん変な方向に行ってないか?――というか、ぼくが進藤さんの加勢やってどうするんだ…?
塔矢先生は支離滅裂なことを言いまくるぼくをじいっと見ていたけれど、突然、クスクス笑い出した。
「――釣り合わないって…。おもしろいことを言うんだね、岡くんて。」
自分のバカさ加減を丸出しにしてしまったようで、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
でも、先生はふと、ぼくから視線を外すようにして窓の外を眺め、ぼそりと呟いた。
「…また喧嘩した。」
「え?」
「進藤とだよ。昔からそうなんだよ。つまらないことで喧嘩になるんだ。」
「喧嘩…ですか?」
先生はハーッと溜息をついて俯いた。
「うん、そう――喧嘩。昨日も目が覚めたら進藤がいて…なんでここにいるんだとか何とか言ったかな?そうしたら、彼もここにいて悪いかってつっかかってくるし…それで、ボクも売り言葉に買い言葉でいろいろと…浮気相手のところにいたんじゃないのかって言ってしまって…。そこからもうどうでもいい口喧嘩して結局、彼は帰ってしまうし――朝、起きて冷蔵庫の中を見たら、スープが入っていて泣きそうになったけどね。」
(23)
ああ、ミネストローネ、ね。高そうなシャツをシミだらけにして、裸足に靴をひっかけて来た進藤さんを思いだした。それにしても、冷蔵庫開けて泣きそうになるぐらいならもっとマトモな対応すればいいのに…
先生、素直じゃなさすぎ。可愛いといえば可愛いケド。――つまり、ツンデレ?でも、それを真に受ける進藤さんもどうかと思う。
二人とも案外大人げないんだ…。
「ボクが体調悪いときでもあれだけは食べられるのを知ってるんだよ、彼は。中国で棋戦があった時、ホテルの食べ物が合わないことがあって…そのときも、彼、強引にホテルの厨房借りてあれ作って持って来て。通訳をさせられた楊海さんも呆れてたっけ…。」
――絶句した。進藤さんの先生に対する深い愛を垣間見た気がして、ぼくは「難攻不落」という四文字を思い浮かべた。海外棋戦で自分も忙しいのに、いくら現地の知り合いがいるからってアチコチから材料かき集めて、しかもホテルの厨房なんてそうそう入れるもんでもないだろうし…よっぽど強引に説き伏せたんだろうなあ。
進藤さんって見た目はちょっとチャラいけど、実は凄く生真面目だと思う。塔矢先生は言うに及ばずで、なんだか、そういう二人の生真面目さが空回りしてるんじゃないかとも思った。
…でも、浮気ってどういうことなんだろう?…というか、塔矢先生ぐらいの人をさしおいて浮気?それほど強力な相手ってどんなんだろう。やっぱり女?
ぼくは好奇心に勝てなくなって、ついずけずけと聞いてしまった。
「…浮気相手って…女の子…なんですか?」
「いや、男。――しかも、ボクも彼と寝たことがあるし。」
えええええええええーーーー!?なんだそれは!塔矢先生と進藤さんを両方…って…ありえない。ものすごい絶倫?ものすごいテクニシャン?超イケメン?…一体、どんな人なんだろう…気になる…棋界ナンバー1とナンバー2根こそぎ持って行くってスゴすぎやしないだろうか。――ぼくが知ってる人かもしれない。
――伊角さんは二人を心配してるぐらいだから違う。倉田先生?…あんまり絶倫には見えないし。
森下先生?いや、塔矢一門をハゲシク敵視している森下先生も違うだろ。座間先生?うわー、やめてくれよ…もしかして、緒方先生かな?緒方先生ならありうる。いかにも絶倫でテクニシャンっぽいし。――それより、清純でお堅そうな先生があっさり「寝た」とか言っちゃうってありえない。絶対、ありえない。
「言っておくけど、緒方さんじゃないからね。――いまだ独身でいるせいか、よく誤解されるんだよ。緒方さんは熱帯魚以外、興味ないんじゃないかな。」
先生はぼくの心のうちを見透かしたように、ちょっとイヤそうな表情でそう言った。
「まあ…さすがに浮気されてたのを知った時はショックだったけど…彼の携帯を投げつけて壊して。」
「携帯…投げつけちゃったんですか…?えー…。」
――先生…。意外に激しい。お菊さんどころの騒ぎじゃないかも。
「うん、思いっきり投げた。…さすがにあれはやりすぎだったかも…。でも、浮気が原因で別れたわけでもないんだよ…昨日は浮気相手とも切れたとか言ってたし。」
「じゃ、じゃあ…何ですか…?そんな…小学生の口喧嘩みたいな原因で別れたりしないでしょ、普通…」
先生はまたハーッと大きく溜息をついて緑茶を啜った。
「進藤に重いって言われたんだ。」
「重い?」
「うん、そう。ボクが真剣すぎて重いらしいよ、彼には。」
なんか…それって進藤さんが嘘ついてるように聞こえた。昨日の進藤さんの目付きときたら、必死だったじゃないか。なんとなく、進藤さんは自分の気持ちから逃げているって気がした。ホントは先生のことが心配でたまらないくせに…。そんなこと言ってるからあんな無様な負け方するんだろうと言ってやりたかった。――棋聖を前にぼくに言えるわけないけど…。――ぼくが進藤さんぐらいかっこよくて、才能があって、タイトルをいくつも持つぐらいの強さがあれば…先生を奪って二度と振り向かせやしないのに…。
「そんな…進藤さんだって十分、真剣じゃないですか…だいたい、真剣だからいままでやってこれたんですよね…。真剣だったから先生も好きだったんでしょ…?」
先生は顔をあげて驚いたような目でぼくをじっと見ていたけど、急にフッと笑った。
「なんだか、キミに諭されているみたいだ。」
「あ…!イエ、すみません…!ぼくなんかが生意気なこと言っちゃって…。」
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またまた余計なことを…背中に冷汗が伝わるのを感じた。
「いや…いいよ。今のそれを進藤に聞かせてやりたいな。――キミみたいなまっすぐな人と浮気でもしてたら、彼も焦って目が覚めるのかな…あ、今のは冗談だけどね。」
先生は軽く笑った。耳の奥で何か、キーンと高い音が響いてきた。心臓の音が聞こえるぐらい、大きく跳ねた。
濃紺の浴衣の間から見えた真っ白なカラダが目の奥にちらつく。
「あの…」
目の前が白っぽくなって、頭の中が真空になっていくような気がしていた。先生の熱を帯びた身体がぼくに寄りかかってきたときの髪の匂い。それに、ぼくの手のひらの上で踊る先生の指先の感触が生々しいほどに蘇ってくる。
息が苦しい。
ぼくは口の中で呟いた。
「じゃ、ぼくと…浮気…します?」
「ン?」
先生は微笑んだまま、聞き返した。
ものすごい熱が身体をつたわってきて、耳が熱い。ぼくは胸いっぱいに息を吸いこんで口を開いた。
「ぼ、ぼくと…」
――ピンポーーーン!
とんでもなく甲高いチャイムの音にぼくは飛び上がった。
「ちょっと、ごめん。」
先生はパタパタとスリッパの音をさせてぼくの目の前から消えてしまった。ぼくはハァァ…と溜息をついてソファにもたれかかった。
せっかく勇気を振り絞って告白したつもりなのに…ああ、タイミング悪い。こんな人生の一大事にピンポンするヤツ
を回し蹴りしてやりたい。
ふたたび、スリッパの音がパタパタと響いてくる。
「よう、岡。何やってんだ?」
聞きなれた声がして、後ろに倒した頭をもとに戻した。
ブルーのシャツにカーゴパンツを着た進藤さんが意外だって顔をしてぼくを見ていた。
最悪だ。今、一番、対峙したくない相手…。勝ち目ゼロの相手。タイミング逃して心が萎えたぼくはもうここで投了だ…。
「フーン…。メロンね…。岡の差し入れ?」
進藤さんはぼくには無関心といった感じで、テーブルの上にある木箱をジロジロ見ていた。塔矢先生はなんだか不機嫌そうな顔をしてお茶を入れると、ぼくのすぐ横の床にぺたんと正座した。
あぁ…先生…なんだってこう素直じゃないんだろう。ホントは嬉しいくせに、仏頂面してるし…進藤さんは進藤さんで困った顔をして先生を見下ろしてた。
「身体、いいのか?」
進藤さんが優しいトーンの声で聞いたけど、先生は不機嫌な表情のまま、こくりと頷いただけだった。
「あのさ…オマエ、ウチに戻る気…ないの?…その…体調がよくなるまででも…。」
ウチってどこのウチなんだろう?先生の実家?――いや、たぶん違う。進藤さんが言ってるのは間違いなく、二人で住んでいる「家」のことなんだろう。
でも、先生は進藤さんと目を合わせようともしなかった。
「別にボクはここにいても困りはしないけどね――岡くんも来てくれるし。」
「…!?」
(25)
ぼくは思わず声をあげそうになっていた。ぼくが来たのは今日で二日目なのに。イヤ、これから毎日でも来ていいってことかな…?進藤さんも驚いたみたいで、ちらとぼくの顔を見て、それから先生のほうに向きなおった。
「岡って、オマエと仲良かったんだ?」
「ウン――そうだよ。彼、素直でとても可愛いよ。――誰かと違ってね。」
進藤さんの顔がみるみる険しくなっていって、ぼくはいたたまれなくなった。今の言葉で誤解されてるのかもしれないって思った。――ヒドいよ、塔矢先生。ぼくをダシにして進藤さんを焚きつける作戦に出たんだろうけど…。でも、ぼくは進藤さんに誤解されるだけ誤解されて…それでその実、何もないんだから。言われているコトは嬉しいけど、でも…こんな場で言われたってちっとも嬉しくなかった。
進藤さんが何か言いたげに口を開き、先生が迎え撃つかのように鋭い目で見返した。
――また、小学生レベルの舌戦開始になるんだろうか。しかも、ぼくをネタにして。
だけど、進藤さんは結局、何も言わなかった。
しばらく、すごい重い空気が漂って、突如、進藤さんは先生に背を向けて立ち去ろうとした。
「進藤ッ!」
塔矢先生は急に不安げな表情をして鋭く怒鳴った。進藤さんは一瞬、ピクリとして立ちどまったけど、振り向きもしなかった。
「フーン。――進藤に逆戻りか…。ま、それもいいけどさ。」
ぼくはそれがなんのことやらさっぱりわからなくて、先生のほうを見た。先生は、眼を大きく見開いたまま唇に手を当てていた。
「――わかった。もう来ねーよ。」
その声でぼくは反射的に廊下をバタバタと走っていた。進藤さんが革のスニーカーに足先をつっこみ、丁寧にかかとをひっぱっているのが見えた。
「あ…あの…ちょっと待って…」
進藤さんは顔をあげてちらとぼくを冷たく一瞥してきた。
「ぼ、ぼ、ぼく…」
声が震えて仕方がなかった。誤解を解かなければならないのに、それを言ったら、二度と先生をものにするチャンス――モノにするなんて恐れ多いこと言えないな――とにかくだ。先生とイイ仲になるチャンスがなくなってしまうような気がして、舌がもつれた。
「なんだよ。」
進藤さんに問い詰められて、ぼくは更に縮みあがってしまった。でも、進藤さんはニヤッと笑うとぼくの肩をバンと叩いた。
「オマエ、やるじゃん。」
「い、い、イエ…そんなんじゃなくて…」
「言っとくけどさ、アイツ、すげー面倒くさいぞ。しつけーし、嫉妬深いし、プライド高いし、負けず嫌いだし、要求多いし、ワガママだし。」
どうやら完全に誤解されているみたいでぼくはあわてた。それ以上に、塔矢先生が酷い言われようで…っていうか、そこまでわかってるなら、先生の胸のうちなんてわかりそうなものなのに。
進藤さんがドアを開けた。ぼくははっと息を飲んで引きとめようとしたけど、進藤さんはドアをすり抜けながらぼくを睨みつけるようにして言った。
「あ、あと…アイツといると体力奪われるからな――って、そんなんもうわかってるか。」
「はあ?」
「じゃ、よろしく。」
――パタン。
閉じたドアの前でぼくはしばしボーゼンとしていた。
よろしくって言われても…。それに、体力奪われる…?何のことだ?――やっぱり、アレ?
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想像したら、急にカーッとなってきた。…体力めちゃくちゃありそうな進藤さんが手こずるくらい…アレなのか?
イヤ、実現できるならそれでもいい!というか、超イイ――実現できるとしたらの話だけど。
ハタとリビングに一人取り残された先生のことを思い出し、あわてて戻ってみると、先生はリビングの真ん中で呆然と立ち尽くしていた。
「あ、あの…先生…追いかけなくて…いいんですか…?その…電話するとか。」
「…。」
ぼくが声をかけると、一瞬、我に返ったけど、すぐうつむいてテーブルの上のメロンにかけられた細い紐を指にからめたりほどいたりしてる。イヤ、メロンとかいじってる場合じゃないから、先生。――なんかじれったいなあ、この二人。
ぼくは二人を隔てたい気持ちと、どうにかしてあげたい気持ちがないまぜになっていて――なんだか、とても複雑な気分だった。
「あの…先生…進藤さん、帰っちゃいましたよ…」
ぼくはなぜだか泣きたい気分になっていた。いくらバカな妄想でも先生が自分に振り向いてくれたら、そう思ったけど――でも、やっぱりダメだ。先生が悲しい顔をするとぼくまで胸が苦しくなってくる。
でも、先生はぼくの肩にすうっと倒れ込むようにして――ぼくの頬にまっすぐな黒髪が摺った。
とてもいい匂いがした。――王座戦一局目の時と同じ匂いだった。でも、身体は熱を持っているわけじゃなくて、少し冷たい手が頬に当てられてた。――え?この状態って…??
「…さっきのアレ、誘ってるんだよね?」
「…あ…。」
――聞こえてたんだ。
「いいよ、浮気――しようか。」
手が震えた。膝もガクガクしてた。優しくて、ちょっとハスキーな声が耳元で囁いた。
ぼくはそれ以上目を開けているのが怖くて――目を閉じたら、やわらかい感触が唇の上にふれた。
Chapter Dazed 2 End