幻惑されて〜Dazed & Confused
Chapter Confused 3
(34)
ドアを開けて入れてやったヒカルはどこか不機嫌そうだった。
棋院からもそう遠くはないホテルの一室からは夜景が一望できて、俺はその景色に気をよくしてルームサービスに冷えたシャンパンを持って来させたのだが。
このホテル、気が効くのか間抜けなのか、一緒についてきたシャンパングラスは四つもあった。
だが、ヒカルを待っている間、壁際で夜景を眺めていた俺は、ふと壁の向こうから微かにすすり泣くような声がするのを聞きつけた。
暇つぶしに壁にじっと耳を押し当てていると、どうやら隣には少なくとも二人以上の女がいるらしく、さらにすすり泣きのような声はいたしている最中の声のようだった。――なるほど、部屋数も異様に多いし、壁に耳を押し当てなければわからないほどの防音設備を備えているということで、このホテルは乱交愛好家御用達といったところなのか。
それならば、頼みもしないのにグラスを四つも五つも持ってくるのは気が効いていると言えなくもない。
俺はヒカルが無言のまま一人掛けのソファに座ったのを見届け、一度はクーラーの中のシャンパン
ボトルを引きずり上げたのだが、やはり揃ってからのほうがいいだろうと踏んで、また元に戻した。
「何か食べるか?」
俺がそう問いかけると、彼は首を振って拳を口に当てた。これは彼が平常心ではない時のサインだ。
「今日さ――アイツに会った。」
俺はやっぱり、と思いながら、煙草に火をつけた。
「伊角さんっていう人の研究会にさ、まあ気晴らしも兼ねて行ったらいて。たぶん、伊角さんと和谷が気を使ったんだろうな。」
「それで…?」
俺は壁によりかかるようにして立ったまま、そこらの灰皿を取り、それに灰を落した。
「――別に。」
「塔矢と話しなかったのか?」
「しないよ、そりゃ。アイツ、これ見よがしに年下彼氏連れて来てたし。あー、もうヤメヤメ。アイツのこと気にしだすとマジ、むかつく。――なんか、周りはまだアイツと俺をくっつけたがってるけど。」
そう言うと、彼は上着がわりにしているネルのシャツをバサバサと脱いだ。
「で…?今日はなんでホテルなわけ?」
あの男のことはまだ彼に告げていなかった。ちょっとしたサプライズだ。
俺は思い立ったが吉日とばかり、彼に電話をかけた。
向こうは俺が名乗る前から電話が来ることを予期していたようで、すぐに、ああ、あの時の彼氏さんだね、と含み笑いを洩らした。そして、ほぼ即日といっていいタイミングで会うことにした。だから、今日はずいぶんと急な話だったのだ。棋戦に追われるヒカルの予定が空いていたのが何よりだった。
「あ――今週末からオレ、中国だから。」
「国際棋戦か?」
「うん――。非公式戦なんだけどね。」
「おいおい、王座戦の二番勝負だってもうすぐあるんだろう?大丈夫なのか?そんな時期に。」
「ヘーキヘーキ。それより、今度の試合には中国のスッゲー新鋭が出てくるらしいから…。陸力をおさえて現在、勝率ナンバーワンだって。そういうのとやりあって気合入れるのもいいし。うまいこと当たんないかな…。」
それまで、不機嫌そうだったヒカルの眼に勝負師の本性が垣間見えた。
「キミのほかには誰が行くんだ?」
「あー、それね…。」
(35)
そう言いかけたところで、部屋のチャイムが鳴り、俺はドアを開けに走った。
ドアチェーンを外して、ゆっくりとドアを引く。短めに切ってきれいに整えた髪と、グレーのスーツ。
前、会った時は鋭く見えた眼はさほどではなく、むしろ切れ長の目が男の色気すら感じさせた。
「お久しぶりです。」
彼はニヤリと笑いかけた。部屋に入ってきた彼を、ヒカルはキョトンとした顔で見ていた。
「――覚えてませんか?」
彼は丁寧にそう言うと、俺に向かって折り詰めを差し出した。
「お口に合うかどうかわかりませんが…うちの事務所の近くに、評判のいい店がありまして。
ま、中身は寿司なんですけどね。」
ヒカルの眼がぐるぐる動いていた。
「あ、あの―。」
「…公園で会った…って言っても、暗くて顔まで覚えてないか。」
彼はクククッと笑い、ヒカルの頬が上気した。
彼はヒカルのすぐ隣に腰掛け、俺はテーブルの上にあるシャンパンを開けた。それから、俺と彼はとりとめもない話をしていたが、ヒカルはじっとうつむいたまま、あまり絡んでこなかった。
男の割におしゃべりで誰とでもすぐ打ち解けるヒカルにしては珍しい。
そんなヒカルを彼はチラチラと窺っていたが、突如、本筋に切りこんできた。
「岸本さんに呼ばれたんだけど、気にくわなかったかな?」
「え…いえ…そんなこと、ないです。」
赤くなってモジモジと俯いてしまったヒカルに助け舟を出すつもりで、俺はその背後にまわると、肩に手をおいて言った。
「シャワー、行っておいで。ヒカル。」
「へえ、ヒカルくんて言うんだ。」
俺は彼の役者っぷりに苦笑した。プロ棋士の進藤だろう、と聞いてきた彼がヒカルの名を知らないはずはない。それは暗にお互いをきちんと紹介していなかった俺の迂闊さをチクリと責めているのだと思った。ならば、と俺も彼の役者っぷりに敬意を表してやろう。
「ああ、すまんな。――ヒカル、こちらは栗本さんだ。栗本正助さん。」
彼は一瞬、ギラリと俺を睨みつけて、そして次に苦笑いを浮かべた。彼が軽蔑してやまないクソ上司の名前を言ってやることで、彼を不快にさせたのが可笑しかった。だが、彼はしれっとした顔をして、よろしく、と呟いた。
ヒカルがバスルームの扉を閉めたのを確かめると、俺と彼はお互いにニヤニヤと笑い合った。
「――やめてくれよ。こんなところであのスケベおやじの顔なんぞ思い浮かべたくない。」
「いい気味だ。これでヒカルにキミはキミのバカ上司だっていう人物としてインプットされて、ベッドの上でもそのクソ上司の名前で呼ばれるかもしれないぜ。」
「まいったな――。」
彼はポリポリと頭を掻き、手にもったシャンパンを口にした。
「それで…今夜はどういう趣向で行くかねえ?」
「まかせるよ。」
「彼は――ヒカルくんはこういうのは初めてなんだろう?」
「ああ、そうだ。」
(36)
彼はふと、鞄の中を探って、一枚の紙切れをひらひらとかざした。
「オレは一応、セーフセックスが身上なんだ。今日も病気持ちじゃないっていう証明書をわざわざ持ってきたんだぜ。」
俺は彼の言わんとすることがすぐにわかった。つまり、生でやらせろということか。遠まわしではあるが、有無を言わせぬ物言いに俺は降参するしかない。
「――好きにしてくれ。俺はゴムをするしないでいちいち嫉妬するほどじゃないんでね。」
「ほう。随分寛容なこった。…まさかとは思うが、キミや彼は大丈夫なんだろうな?」
「もちろん、大丈夫だ。俺は定期的に検査してる――あんな場所に連れて行ったのも初めてだし、ヒカルは俺以外の男は知らない。」
正確には違っていたが、「受身」としては正しいだろう。
だが、彼は驚いたような顔をしてまじまじと俺を見た。
「それは意外だな。あんな可愛くて淫乱なコが…じゃ何か?いままで貞淑だったのが急に炸裂したってことか。それとも、それまで女ばっかりだったとか?あのコならそれもありだな。」
「それが、ヒカルは女もロクに知らないときている。唯一、8年もつきあった恋人がいたがどうやら別れたらしくてね。それで最近、少々御機嫌ナナメなんだ。」
ヒカルが白いパイル地のバスローブを着て戻ってきた。ついで彼がスーツの上着を脱いでバスルームへと向かった。
「あ、そうそう。ヒカルくんにプレゼント。」
彼は小さな箱を俺に向かって投げた。
「なんだ?」
「まあまあ。オレが風呂に入っている間に開けてくれていいよ。」
バスルームのドアが閉じ、俺はシャンパンを啜るヒカルにちょっかいをかけはじめた。
「栗本さんはどうやらキミがいたく気に入ったらしいぞ。」
「あの人ってさ…もしかして…公園でオレをイカせた人…?」
背後から抱きしめて、項にかかった髪をかきあげると、すでに耳が紅く染まっているのがわかった。
バスローブの合わせ目から手を入れて小さな突起をさぐると、そこはすでにピンと立っていた。
「思い出しただけで身体が疼くか?」
指先でクリクリと転がすと、ヒカルは喉を翻して身をよじり、シャンパンがわずかにこぼれた。
「さて、プレゼントとか言ってたが――何かな。」
黒のツルツルした紙箱を開けると、中にはシースルー素材の布切れが押しこまれていた。俺は思わず笑ってしまった。
「な、なんだよお。――また貞操帯とかヘンなもん?」
俺は指先で黒いシースルーのTバックをつまみあげて、ヒカルの鼻先で振ってみせた。
「ステキな下着のプレゼントだそうだ。」
ヒカルは軽蔑するかのように目を細め、フーと溜息をついた。
「…コレをオレに履けっていうの?」
「そうらしいな。」
「――変態。」
そう言いながらも、ヒカルはさっさと立ち上がって俺の手からそれをひったくり、後ろをむいてバスローブをたくしあげながら脚を通した。
「げぇ…スッゲーエロい…。っていうか、バカ。」
「どれ、見せてみろ。」
(37)
ヒカルはくるりとこちらを向いて、バスローブの前をちらと開いた。
黒の小さい三角が股間におさまってはいたが、その中におさめられたものの形がはっきり見えるほど透けていた。
「どうせ脱いじゃうんだから、わざわざ履くこともないと思うけど。」
脱ごうとしたヒカルを俺はあわてて停めた。
「バカだな。それでも脱がせる楽しみというのがあるだろう?」
「それにさ、これ、Tかと思ってたら、そうでもないのな。」
くるりと後ろを向いてたくしあげた先には、黒い紐が二本、両方の尻に食い込むような形でくっついていた。ちょうど、アメリカンフットボールなどで使うサポーターのような感じだ。
つまり、肝心のアナルはまったく無防備なわけで、俺はその意図をうっすらと理解しつつあった。
「フーン。ま、これなら脱がなくてもアナルは犯せるってやつか。」
「だいたい脱いでも脱がなくても同じじゃん、こんなの。くっだらねぇ。」
ヒカルはムッとしたような顔をしてバスローブの前を閉じ、テーブルの上のシャンパンをクッと飲みほした。
「コレ、うまいよね。シャンパンなんてどれも同じだと思ってたけど。」
「もう一杯いくか?」
俺はクーラーの中からヴーヴ・クリコの瓶をとりあげて細長いフルートグラスに足してやった。季節が春ならイチゴやラズベリーを食べながら飲むのもいいが、むべなるかな、10月も終わりに近い。うかうかしていれば王座戦の第二局が来る。ふと、俺のオフィスで静かに睨みつけてきた塔矢の顔が浮かんだ。
――ヒカルは塔矢ともう終わったと言っていたが、果たしてそんなに簡単に終局を迎えるものなのか、俺はしばし考え込んだ。
「お先に失礼。」
バスルームのドアが再び開いて、短い髪を濡らした彼が戻ってきた。俺は入れ違いにまだ暖かさの残るバスルーム――シャワー室とバスタブは別々の広い空間だ――に入った。
俺は熱い湯を浴びながら、次の一手を考えあぐねる。ヒカルとは遠からず終わるような気がした。皮肉なことに、あれほど塔矢の存在を疎ましく思いながら、いざ、その塔矢と切れたと知った途端、俺は日々、不安にさいなまれている。俺はどこまでいっても影のような存在で、光があるからこその影なのだ。すなわち、塔矢がいるからこその俺で、その塔矢がヒカルとの関係を断ち切ったとしたら、俺の存在もひどくはかないものに思えてきた。
『岸本さんだけじゃ物足りないって言ったら?』
俺はヒカルを繋ぎとめるべく、暗闇の世界に引きずり込んだわけだが、結果、それが自分の首を絞めることになった。ヒカルは欲望に覚醒し、俺の手を離れかけている。
なあ、加賀。キミなら何と言う?キミはフッと笑ってこう言うだろう。
「バッカだなあ、岸本。さっさと諦めろよ。」
――諦められるものなら、諦めたかった。
だが、もう少し延命治療が必要だ。ヒカルの身体をどうにか俺に繋ぎとめておく延命治療が。
シャワーのコックを捻ってとめ、丁寧に体を拭いて外に出る。
(38)
明るい蛍光灯の下、ベッドの脇に折り重なるようにして立つふたつの影が見えた。
バスローブはシーツの上に無造作に投げ捨てられ、ベッドに両手をついて尻を突き出している
ヒカルの背後から、彼が手をまわして胸を撫であげていた。
「乳首が感じるんだな――こんなコリコリにして…カワイイよ。」
「んはあっ…!」
ヒカルの両手がベッドの端を掴み、背中が反りあがって、指先の間に挟まれたピンク色の乳首が見える。シースルーの下着からは鋭く屹立したモノが透けていた。
「さて…と。こっちのほうはどうなっているかな。足を開いて見せてもらおうか。」
ヒカルの足元に膝まづき、突きだした形のいい尻に手が添えられた。
彼は鼻先を尻の間に埋めると、あとで肉棒を打ち込むべきそこをビシャビシャと音を立てて舌でほぐし始めた。
「あ…ん…やだっ…!」
「こんないやらしいヨガり声あげておいて、イヤなんて嘘をついてはダメだろう?ん?」
彼は太腿を舐め上げながら、ねっとりと言った。
「素直にオネダリしなくちゃなあ。――イヤラシイここをペロペロしてくださいって。」
「ふぁっ…!」
ヒカルはちらりと俺のほうに潤んだ目を向けてきた。――誘っている、そう思った。
「岸本さ…ん…。」
だが、俺はフルートグラスにシャンパンを注いで、しばらくその淫猥なショーを眺めることにした。
「栗本さんはヒカルを可愛がってくださるそうだ。手こずらせてはいけないな。」
「ん…んッ…ふぅッ…。」
肩が震えて、上半身が崩れ落ちた。押し殺すような声が途切れながら訴えていた。
「い…やらしぃとこ…いじめてください…ッ!」
「可愛いねェ。真っ赤になっちゃってるよ。」
彼はクフッと笑うと荒く息を吐きながら、おそらくは狂おしげにひきつっているであろう後ろの口に舌先を突き立てた。
鋭い悲鳴が起き、均整のとれた身体が揺れた。
「気持ちイイか?」
「アッ…ンッ…イイ…イイですぅッ…んッ…!」
「やっと素直になってきたか。――じゃあ、もっと気持ちよくしてやるな。」
ベッドの上においてあったジェルのチューブが手に、舌で高められた秘孔にたっぷりとジェルが塗りこめられ、長い指が一本、ツプリと音を立てて入れられた。
「あハァっ…!」
したたり落ちるほどジェルを塗ったそこを、彼の中指が出たり入ったりしていた。すぐに指は二本に増やされた。
「二本がいいか?」
彼が耳元にキスするように聞いた。ヒカルが頷くと、彼は指の付け根まで挿入し、円を描くように手先を動かした。
「はぁぁぁん…!イイっ…もっとしてぇ…」
俺は目を閉じ、スゥと息を深く吸い込んだ。なにか得体の知れないやるせなさが俺の中で渦巻いている。
つい数ヶ月前に、飴色に輝く瞳を俺に向けて会いたかったと呟いたヒカルは目の前で淫売のように腰を振りながら悶えていた。
ヒカルの無駄のない、まるでヒョウのような肢体が浅ましい欲望に踊らされている。――それは目を覆いたくなるほどの光景で、しかし、そんな心持とは正反対に俺はすでに勃起していた。
俺はシャンパンを一気にあおると、空のフルートグラスをテーブルに置き、乱れる肢体に近づいた。