淫靡礼賛
(6)
「なんだかんだいっても、まだ子どもなんですねえ。碁盤に向かっている時は信じられないぐらい大人
っぽい顔してるんですけど。」
「そうだな。」
座間も笑いを浮かべながら、髪を乱した塔矢アキラもなかなか悪くない、と思った。
それがベッドの上ならなおさら結構な話だ。
靖国通りを少し行くと、目的の店が見え、座間は粋な色合いに染め抜いた暖簾をかきわけて入った。
「この鰻屋はなかなかうまいんだ。」
店はこじんまりしていたが、仕切られた半個室が並んでいる。どれも萌黄色や藤色のカーテン状の
布が席の側面に束ねてかかり、まとめている組紐を解くと、外からは見えない個室と化す。
「へえ、棋院の近くにずいぶん洒落た店があるんだなあ。」
天野が感心したように言った。
「ここは鰻の大串がうまいんだ。まあ、一人だとさすがに大串なんぞ注文できんしな。」
塔矢、進藤が並んで座り、座間は天野の脇に座った。
「鰻でよかったかな?」
座間が品書きをめくりながら正面の二人を見ると、二人ともまんざらではない様子で、茶を啜っていた。
(7)
「塔矢って手合い中は飯食わないんですよ。」
「ほう。育ち盛りにそれはきつくねえのか?」
「いえ…もう慣れたし…それよりも打ち掛けで下手に食べてしまうと安心しちゃって闘争心が鈍ると
いうか。」
「進藤君は?」
「オレはちゃんと食べますよ。持ち時間があればお菓子食べたりもするし。」
「ハハハ、おやつ付きで手合いか。まあ、タイトル戦の挑戦者手合ならおやつもつくしな。」
天野が笑い声をあげた。
「ところで座間先生が二人と仲いいとは知りませんでしたな。」
「ああ――塔矢君とは二度、対局しているし…進藤君はまだだけど、なにしろあの桑原本因坊といい、
行洋先生といい、みんな進藤君にご執心だからな。俺もその仲間入りさ。北斗杯での棋譜を見たが、
やるじゃねえか。塔矢君と二人、いいコンビだと思ってるよ。」
進藤はエヘヘと照れ笑いを浮かべて頭を下げた。
「ありがとうございます。――実は、座間先生ってもっと怖い人だと思ってました。」
「そりゃあヒデェなあ。天野君、俺はそんな風に見られているのかねぇ?」
「扇子を齧る様子が怖いんじゃないんですか?ね、塔矢君なら知ってるだろう?」
「そういえば、先生は扇子かじってましたね。」
「フフフ、先生はね、苦境に立たされると扇子を齧る癖があるんだよ。君と先生の新初段シリーズでは、
きっと座間先生が扇子をぼろぼろにしているんじゃないかってみんなで噂してたんだ。」
「へえ。」
(8)
座間はちらと天野を見やった。チッ、天野め。余計なことを言いやがって――そう思ったが、目の前
にいる塔矢アキラをさぐるように見て、密かに興奮した。
薄い色のシャツを脱がせたら珊瑚色の小さな乳首が見えるだろう。それを甘く齧ったらどう乱れるの
だろうか。或いは――扇子のはじを噛むように強く歯を立てたほうがいいのかもしれない。その隣で
無邪気に笑う進藤に目を移す。こっちは塔矢よりもいくぶんふっくらしていた。
やはり…栗色の大きな目といい、長くてすべすべした首筋といいこっちのほうが好みのストライクゾーン
にばっちりはまっている。狙うならコイツが先だ――。
問題はどうやってこの、小動物を思わせる可愛らしい小僧を褥に引きずり込むかだ。
運ばれてきた鰻ざくや鰻巻きをつつきながら、座間はじっくりと考えた。ことは怪しまれぬように、手厚く
いかなければならない。座間はひとしきり最近の若手の躍進を褒めながら、それとなく自分もそろそろ
弟子を取ろうかなどとうそぶいてみた。もちろん、そんな気はさらさらなかったが。
「座間先生が…お弟子さんを…ですか?」
意外なことにいち早く反応したのは塔矢で、彼は食い入るように座間を見詰めていた。
「まあ、俺も忙しいし、嫁がいるわけじゃねえから内弟子は難しいだろうが――そうだなあ、研究会やる
とか通いの弟子ぐらいならなんとかなるかと思ってな。ホラ、教えることで教えられるってのもアリだろう?」
座間は一度は結婚したものの、家庭を顧みないゆえに早々と離縁されていた。特に下半身のけじめのなさ
は相当で、男女かまわず手出していて三行半をつけられたのだ。
(9)
それを知ってか知らずか、塔矢はまじめくさった顔をして座間に頷いていた。
「研究会ですか…。」
「俺は一匹狼できたからな。若い頃はそれこそ研究会だらけだったし、実はキミのお父さんと同じ研
究会で切磋琢磨していたこともあったんだよ。」
「あ、そうだったんですか。」
「――今どきの若いヤツはインターネットで情報量もハンパなく多いしなあ。若いのと交流したほうが
いいかもしれんとは思ってるが、なにしろ俺は面倒見のいいタチじゃねえし。――進藤君は森下さん
が師匠だよな?」
「ハイ、そうです。」
「塔矢君はどうしてるんだ?行洋先生は中国に行かれたし、塔矢門下は…。」
「今は緒方さんが中心になっていますけれども…。ただ、緒方さんは弟子を取る気ないみたいで、
実質的には門下生が集まって研究会をやっている感じですね。」
「なるほどな。」
「もし――もしですけれども…座間先生が研究会をやられるというのなら…」
塔矢はおずおずと言葉を呑みこみながらゆっくり言った。意外に塔矢のほうが早く釣れたようだ。
やはり、緒方では物足りないのか、あるいは塔矢門下から離れたいのか。まあ、いくら生意気なコイツ
でも年頃の男ならいっぺんはオヤジから離れたがるものだ。
(10)
「ああ、研究会をやるかどうかはまだ決めてはねえが…そうだな、二人が時々でもウチに来て俺と
打つなり検討するなりするなら大歓迎だ。」
「本当ですか!?」
進藤が鰻をつつきまわしていた手を止めて俺を見た。よし、これでこっちも手中に落ちそうだ。
――座間は心中ほくそ笑んだ。
「なんなら――君たち、これから碁会所で検討とか言ってたよな?よかったら俺のウチでやらねえ
か?そうだ、対局もやろうか。」
進藤ヒカル――これこそ神の技としか思えない、魅惑的な生き物がじわりと近寄る―ーよし、勝負手
といくか。座間は重くたれさがった瞼の奥で蛇のように獰猛な眼をく光らせていたのだが、この哀れな
子ウサギは天真すぎてそれには気づいていなかった。
「えっ、あ、あのオレ、一度、先生と打ってみたかったんですけど!本当にいいんですか?」
「ああ、俺もそう望むところだ。キミの才能には底が見えねえって森下さんも言ってたな。」
塔矢が微かに顔を曇らせたような気もした。――座間はさっさと食事を済ませると、店に頼んでタク
シーを呼ばせた。