淫靡礼賛
(51)
突然のことにドギマギしながら、戸棚をさぐる。気が動転しているときはどんなお茶がいいの
か、ぼんやり考えた。やはり、甘いほうがいいだろうと紅茶の缶と角砂糖の入った容器を出した。
――ヒカルが泣くのを見たのはこれが二度目だ。
一度目は北斗杯で高永夏にわずかな差で負けた時。――あの時は悔し涙を流す彼を見て、
呆然とするしかなかった。
ヤンチャを絵に描いたような彼が泣くとは思っていなかった。
大粒の涙をポロポロ流して泣くヒカルがひどく可愛らしくて――その夜は何度も何度もそれを
思い返して溜息をついたものだ。
――あの時こそ、アキラが恋に落ちたと気づいた瞬間だった。
しかし、二度目の今は、そんな愛おしさを感じるよりも、苦くもどかしい。
自分を頼って来てくれたらしいのはとても嬉しい。だが、尋常ならざる様子にどう対処をしてい
いものやら、見当すらつかなかった。
心当たりといってもまったくない。
各タイトル戦の予選はお互い、順調に勝ちあがってきているし、もしかすると、プライベートな
悩みでもあるのだろうか。
たとえば――失恋?
そう考え付いてドキッとした。
ヒカルの口から誰かと付き合っているとか、そういう話は聞いたことがないが…藤崎という幼馴染
の女の子か。
(52)
カップ二つに紅茶を注ぎ、一方には角砂糖を二つも三つもぶちこんでかき回したものを持って
居間に戻ると、ヒカルは上着も脱がないまま、手の中でティッシュを丸めてうなだれていた。
「はい、お茶。」
「…うん。」
二人は重苦しい雰囲気の中、一言も交わさず紅茶を啜った。
とりあえず、ヒカルの気分は少し落ち着いたらしいことはわかった。だが、何と言えばいいの
だろうか。
「えーと…。あ、そうだ、今日は泊まっていくんだよね?家に電話した?」
「うん…。」
「じゃ、じゃあ…。」
口を開きかけたまま、言葉をさぐるも次の言葉が見つからない。
アキラは口をパクパクさせながら言いよどんだ。
再びヒカルがうっすらと涙をため、それを手でぬぐいながら立ち上がった。
「ごめん、塔矢…やっぱ迷惑だよな。――オレ、帰る…。」
「えっ…?」
(53)
アキラは一緒に立ち上がり、とっさに両手でジャンパーを掴んだ。
――ダメだ。
ひきとめなくては…。アキラは焦りながら、しかしその焦りは苛立ちになって出てしまう。声を
荒げたくはないのに、つい、睨みつけて怒鳴ってしまった。
「どうしてだ!?何かあったんじゃないのか?」
「もういいんだってば――離せよ…。」
「よくないッ!」
思わず、右ひじのあたりをはっしとつかんで引き寄せると、涙をためた顔がすぐ目の前にあって、
昨日と同じどこか甘いような青いにおいがかすかにして――。
その香りに何かが頭の中でぷつっと切れて、アキラは一気にまくしたてた。
「キミは――昨日、ボクがどんなに苦しかったかわかるのか?いきなり帰るって言われて、手を
振り払われて…電話しても出ないし…!ボクが嫌なら嫌とはっきり言ってくれればいいのに…!」
「塔矢…?」
訝しげにこちらを覗き込むヒカルの泣き顔を見ながら、アキラは堪え性のない自分に毒づいた。
ヒカルのこととなるといつもそうだ。馬鹿らしいぐらい振り回されっぱなしだ。
だが――止められない。
止まらない。
(54)
泣きたいのはこっちのほうだ、とアキラは思った。
もどかしくなって、両腕を華奢な肩にまわして抱きしめた。
「…オカシイ…?」
ああ、そうだ。おかしい。同性を抱きたいとかキスしたいとか、どう考えたってオカシイ。
変態、キモチワルイ、おぞましい。きっと軽蔑されるんだろう――。
だが、ヒカルはすすりあげながら、小さく首を振った。
柱時計がカチカチと秒を刻み、遠くからスクーターの唸りが近づいて、そして、去った。
「え…?」
かき消されたヒカルの呟きを聞き返そうとして、アキラはかすかなめまいを感じた。
「塔矢…会いたかった。」
「ホント?」
ヒカルは今、どんな表情をしているんだろう。でも、見てしまったら暴走してしまいそうで、
アキラはじっとそのまま動かずにいた。
ヒカルの頭がポスン、とアキラの肩の上に落ちて、ちらと肩の上を見ると、ビー玉を思わせ
る透明な瞳がじっとアキラを見つめていた。
(55)
おそるおそる、少しふっくらした頬に手を伸ばす。――冷たい。
長い睫毛が閉じて、アキラはいつかしたように小さい唇にキスした。
次にその睫毛が開いてアキラを見ていたのは、いつもは一人で寝ている羽根布団の中で
――あれから急いで風呂を沸かし、ヒカルに黒いパジャマを押し付けて風呂場に追いたて、
自分もそのあとに執拗に体を洗いまくってから風呂を出た。
一緒に入らなかったのはヒカルが嫌がったからだ。
廊下の電気をひとつひとつ消しながら自分の寝室にたどりつくと、羽根布団のはじから、
てっぺんだけ茶色い頭が見えていた。
布団をはぐって中にもぐりこむ。
いつもと違って暖かい。
背中にぴったりと貼りつくと、ヒカルがわずかに身じろぎした。
「キスして、いい?」
丸まった背中がもぞもぞと動いて、布団の上に仰向けにパタンと倒れた。
「電気、消せよ。」