ヒカルたんと野獣
(6)
いい加減暗いのも慣れましたが、周りが見えないのは心元ありません。
「コウヨウ王! 聞こえますか! 私はフジワラノ サイ! 神の一手を極めんとする
者です! 王よ、偉大なる棋士よ、私にあなた様との一局をお与え下さい!」
返事はありません。
「王よ!」
長い廊下を進みます。するとすぐ近くから獣のような唸り声がしました。
狼でも棲んでいるのでしょうか。流石に逃げたくなりました。
しかし逃げられませんでした。くるりと後ろを向くと、そこに大きな壁のようなものが
あったからです。
「貴様…何をしに来た!」
壁ではありません! 喋りました!
「おお、やはりこの城には人がいたのですね… あの伝説も真か。あまねく神よ感謝します。
私は棋士です。最強の誉れ高き王と是非手合わせ願いたく、どうか取次ぎを…」
「伝説だと?」
「は、はい」
人間の声がすうっと冷えました。いや、これは人間でしょうか?
「呪われた野獣を笑いものにするのはさぞ面白かったろうな? わざわざこの暗黒の森に
入ってまでこの獣の醜さをあざ笑いに来たか貴様!」
「な、なんのことです。私はただ碁を…」
「そんなに見たければ見せてやる、貴様の前にいるのがその化け物だ!」
恐怖におののくサイを掴んで、物凄い力で引き摺る手は毛むくじゃらの、獣のそれでした。
(7)
あの日を境に王子の世界は一変しました。
体は膨れ上がり深い毛で覆われ、手は完全に獣のそれとなって変形し、
恐ろしい爪が伸びました。
顔がどうなってしまったのかは、あれからただの一度も鏡を覗いていないので
しかとは解りませんが、醜く歪んで、やはり毛むくじゃらになっていることは
自覚がありました。
どうしてこんな残酷な罰を受けるのか。王子は確かにあの少年の誇りを引き裂きましたが、
獣に堕ちるくらいなら死んでしまいたかったと思います。
自分だけなら迷わず死ねたのです。
でも少年の怒りは王子の城に在るもの全てに向かいました。
空からは太陽が消え真っ暗に閉ざされました。時間も止まりました。
使用人も全員が人間の姿を失いました。
王様の容態も悪化の一途を辿り起き上がれません。
この忌むべき呪いから逃れる方法は一つ、王子が人を愛し愛されることのみです。
醜悪な怪物に恋など叶うはずもありません。砂粒よりも小さな望みです。
でも王子が死んでしまったらその塵ほどの望みすら絶たれるのです。
自分のせいで人生を変えられた家来たちのために、永遠に朝日の昇らぬ暗黒の中、
気が狂いそうな百年を生きてきました。
やがて王子よりも先に絶望した家来は殆どが城から去っていきました。
人を離れた姿で生きる術はないと知りながら。
王子の精神も限界に来ていました。
『シネ、ドウセ センネン イキタッテ ダレモ アイシテナンカ クレナイヨ』
と頭の中で声がします。
狂気を叫びに逃せば、森の中にいつまでもこだまが残りました。
盤上の石も残り少なく、最近は落ちる音の間隔が短くなっています。
最悪の瞬間はすぐそこまできていました。
侵入者が現れたのは、そんな極限の時だったのです。
(8)
薄く灯りをつけた部屋に愚かな客を引きずり込んだところで、王子は凍りつきました。
なんという美しさでしょう。怯えた表情がまた奇妙に色香を感じさせます。
何より王子を打ちのめしたことに、彼のおもざしは昔の自分とどこか似ていました。
自分も、かつては三国一の美少年と言われていた……
心の底から憎いと思いました。
この仕打ちはあんまりだ!
長い時をかけて忘れようとしてきたことを、一瞬で掘り返されたのです。
噛み締めた唇から血が滴りました。
「どうした、美人殿? 醜い者が見たかったのだろう? もっと喜べよ。
手を叩いて笑えばいい! 笑って死ね! 死んでいけ!」
憎悪の限りを平手に込めて張り倒してやるとあっさり気を失いました。
「脆すぎる。人間は簡単で羨ましい…」
白い首にちょっと爪を立ててやったら美しい目は二度と開かない。
それだけでは憎しみが止まりません。
自分は死ぬより辛い日々に耐えてきた。すぐに許す気はありません。
この者は地下牢に閉じ込めてやることにしました。
……自分のように狂えばいい。
(9)
消息を絶ったサイの手がかりを求めヒカルは必死に駆けずり回りました。
村の皆も総出で探してくれましたが、どこにもサイはいません。
今日も疲れきった足を引き摺って、ひとりぼっちの家に戻ります。
小さなおうちなのに、サイがいないと他人の家みたいに広く感じます。
二人で身を寄せ合って寝ていたベッドを撫でて、すすり泣きました。
「サイ…おまえどこにいるんだよ…ちゃんと寝てるか? 寒くねえか…?」
怪我をして歩けないのでしょうか。あるいは、村でこそこそ噂されているように、もう……
浅くまどろむと、夢の中でサイが自分を呼んでいました。
泣きながら目を覚まし、もう一度眠る気にはなれず。
ぐったりとした目に、暗い中でも目立つ白が映りました。
碁石です。サイがいなくなってから一度も触っていません。
また涙が滲みました。
「……碁…、まさか、あいつ?」
その時頭にいつかの会話が甦りました。
『ああ、伝説の最強棋士コウヨウ王…一度でいい、その一手を見れたならどんなによいでしょう』
『バカ、あんなの本気にしてるのおまえだけだぜ。おい、おまえ絶対あんなとこ行くなよ』
ヒカルは飛び起きました。
囲碁を愛するサイ。強いとあらば、相手が伝説でも幽霊でも気にしない人です。
あんな恐ろしい森に、彼はひとり?
凍えているサイの姿が浮かびます。
助けないと! 死んでしまう!
戸棚からロウソクを出しました。普段は日光だけが頼りで、日が落ちたら寝る生活。
これはお祝いの日にだけ点けるものです。
「取っといてよかった」
どうか無事でいて欲しい。
(10)
夜に見ると余計におどろおどろしい森です。
ロウソクのか細い光がゆらめいて、まるで火まで怯えているみたいでした。
「サイ! オレだよ! 返事してー!」
あらん限りの大声で呼び続けましたが何の応えもありません。
時間の感覚も無くなって、粘つく質感さえ感じる気がする深い闇をたださ迷いました。
何時間経ったのか、あるいは何日か経ったのか、数分のことなのか。
最後のロウソクもかけらになって消えました。
恐ろしい暗闇が襲います。
こわい。ここで自分は死ぬのでしょうか。
がたがた震えて蹲りました。
「サイ…でてきてよぅ…」
もう耐えられません。
帰りたい。
空気が動いたのを感じました。
「う、嘘だ…」
今まで何も無かった黒の世界に、大きな城が姿を現していました。