ヒカルたんと野獣
(21)
えー、説明申し上げると、最初の悲鳴がヒカルのもの。
そして部屋にいた二人に続くのですが、ヒカルが驚いた理由はと言いますと……
「な、な、な、なにそのカッコ?!」
彼らの姿が……こう言っては憚られますが、『人間』とは千里もかけ離れたものだったからです。
強いて言うならば、"大きさ"だけは人間と同じなのですが。
ヒカルの目の前には、人間大の、ウーロン茶の缶がありました。
それもただゴトンと置かれているのではありません。
缶からは、手足がにょきにょき生えていまして、中央には顔までちゃんとあるのでした。
その巨大人面ウーロン茶はにこやかに話しかけます。
「あー、そっちもびっくりしたよね。ごめんごめん、怖くないからね。
オレたちはここの使用人だよ。初めまして、オレはアシワラ。コックさんでーす」
「…………」
あまりのこととて、ヒカルはくらくらしました。
考えが甘かった。野獣のお城です、家来だって普通でなくて当然でした。
そして、ウーロン茶アシワラの隣には。
これまた人間大の看板から、やはり手足が伸びて、顔もついているものがいました。
看板の文字はこうです。
『オバタ美容整形外科』
とりあえず、王子よりはずっと友好的なようです。
ヒカルは気を取り直しました。
「あ、はい、よろしく。オレはヒカル。で、そっちのあなたは、オバタさん?」
「オガタだ」
「よろしく、オバタさん」
「オガタだ、オ・ガ・タ!」
看板は声を荒げました。
「オバタだ、オ・バ・タ?」
「違う、オガタ!」
「だからオバタさんでしょ。よろしくってば」
ヒカルの微笑みに、オバタ……いえ失礼、オガタは敗北しました。
(22)
「……ま、まあいい、オレはデザイナーだ。整形なんてしてないからな。
服のことはオレにまかせろ。しかしおまえ、なんだその格好は。
ああ、客にそんな身なりをさせるなどオレの美意識が許さん。
洋服を見立ててやるから衣裳部屋に来い」
「いいよ、オレ服とか別に気にしないもん」
「そうはいかん、若い者はもっと着飾るもんだ。なあ、おまえ白ずくめにしてみんか、
絶対似合うぞ」
「はい? 白ずくめ?」
「そうだ、白はいいぞ。想像してみろ、真っ白のスーツで寿司を食うとするだろ。
当然、醤油が跳ねれば一巻の終わりなわけだ。一瞬たりとも気が抜けん。
まさに一口一口が決戦さ。その緊張感! わかるか、寿司ってものは頭からっぽで
食っちゃならんのだ。刺すか刺されるか、それこそが寿司屋だ!
そこへいくと焼肉、あれはだめだ。紙の前掛けなんか付けて、のびのび平和に
食うなと。もうな、アホかとバカかとジジイかと。あれでは高級和牛がカワイソウだ。
牛だって、ピリピリしながら食ってほしいはずだ! ああ。嘆かわしい。
まあ素人は、キムチでも食ってなさいってことだ。
……ん? 何の話だったか?」
「………………」
「ごめんね、あの人普段は頼れる兄貴なんだけどさ、たまーにトランスするんだよね」
アシワラは耳打ちしました。
「オレは焼肉派だから、ちょっとムカつくね」
ヒカルはスシもヤキニクも知らないので、あいづちの打ちようがありません。
(23)
「おじゃましました」
うんうん考え込むオガタを置いて、早々に退散です。
「あ、待って」
「なに?」
アシワラは真面目な顔になりました。
「アキラだけどね」
「誰のこと?」
「アキラってったら、この城の王子様だよ。今日会っただろ、あいつのこと」
「へ、へえ」
ヒカルは驚きました。王子を呼び捨てです。
礼儀知らずの家来と映りました。
ヒカルがそれを知るのはずっと後ですが、他にいた家来たちはめいめい姿を変えられた後、
みんな王子を見限って出て行ってしまいました。
でもアシワラとオガタだけは、変わらず獣の王子のそばにいてくれました。
だから王子は二人に対しては、主人と家来の関係を取っ払って付き合っているのでした。
「あいつはね、すっかり口下手になっちゃって、言いたいこと上手く伝えられないんだ。
でもさ、ホントはいいヤツなんだよ。嘘じゃないよ。優しくってさ、頭も良くて、
すごく繊細なんだ。本当のあいつは、見かけじゃわかんないから。
だからね、その、今は怖いかもしれないけど。よく付き合ってくれたら、あいつの
良さが見えると思うんだ。どうかよろしくお願い」
「……うん」
ヒカルは素直に頷きました。
少なくともこのウーロン茶は、善人でした。
「じゃあ、おやすみ」
戸を閉める寸前、オガタの
「思い出した、白ずくめの話だった! あれ、おい、どこ行った?」
という声がしましたが、聞こえなかったことにしました。
二人の第一印象は以下の通りとなりました。
アシワラ:優しいお兄さん。
オ ガ タ:危ないオバタさん。
アシワラの中押し勝ちでございました。
(24)
「あ、いけね、ロウソク貰うの忘れてら」
ヒカルは思案します。
(ま、もういいや。戻って寝ちまおう)
誰かと話が出来たことが、夜の恐怖を和らげてくれました。
しかし困ったことに、自分がどこから来たかわからなくなってしまいました。
うろうろさ迷っているうちに、裸足で出てきてしまった体はすっかり冷え切りました。
(さむ……。なんでこんなにだだっ広く造るんだよ。使ってない部屋ばっかりじゃん)
開けても開けてもほこりの匂いがする無人部屋ばかり。
そして何個目かの戸を開けて、ヒカルの目はその中にある、ぼんやり光るものに
吸い寄せられました。
そこはお庭に面していて、他の部屋よりも一段と広いのですが、青い光以外は
物は何もないのでした。
ヒカルはそれに近寄ってまじまじと見つめました。
光っているのは、とても大きな碁盤でした。
一目で、普通ではない代物とわかります。何しろ青い光を纏うだけでなく、
空中に浮いていたのですから。
「……変わったものばっかりあるな。でも」
なつかしい。
つい昨日までは、碁盤のあるおうちにいました。
突然に住む世界が一変したヒカルには、静かに佇む盤は、元の暮らしとつながる
ただひとつのものに見えました。
「打ちたいな」
誰か碁を打つ相手はいるのでしょうか。
アシワラだったらいいなと思いつつ、ヒカルはどうしてだか、心の奥でこれは
王子の碁盤なのだと確信していました。
まだ最初の数手しか進んでいない盤上はひっそりしています。
ああそうかと、ヒカルは気づきます。
さみしそうだった王子の顔と、ひとりぼっちでぽつんと浮いている碁盤が
重なるからでした。
(25)
食事を、と勧めてくれました。もしかしたら、一緒にどうかと言いたかったのでしょうか。
食欲が無かったのは本当でしたが、思えば冷たく断ってしまったものです。
あの時彼は確かに悲しんでいました。
一度はおさまった痛みが、またちくりと生まれました。
あの王子様を思い浮かべる時、人生を奪われたことへの怒りは湧いてこず。
もっと深く、胸に差し込む痛みがありました。
でも考えれば考えるほど、その理由も正体も掴めそうにはないのでした。
その時硬い音が響いて、ヒカルは我に返りました。
「?」
何の音かと見回し、はっと気がつきました。
先程まで確かに置かれていた碁石が、一子無くなっているのです。
慌てて床中を捜し回りますが、どこにもそれらしきものは見当たりません。
尚も諦めずに、ヒカルは四つんばいになって部屋の隅々をくまなく捜しました。
(庭に転がってったのかもしれない)
迷わず裸足のまま、荒れた庭に降りました。
碁石一つがどんなに大切か、ヒカルはよく知っています。
少し離れた所に、小さな光の揺らぎが見て取れました。
「うわっ!」
走り寄った足は、突然踏むべき地面を失い、かわりに水の中に沈みました。
池だ、と思ったときにはもう遅く、ヒカルは凍りつきそうに冷たく深い池に落ちて
しまいました。
「……っ! たす、けて……!」
足が全く立たない上、酷い冷たさに息が止まります。
必死にもがきます。水面は乱れて激しくしぶきが上がりました。
水を飲み、体が動かなくなって、ヒカルは頭まで沈みました。
オレ死んじゃう。
そう思ったとき、何かが腕を掴んで、水の底に向かっていた体が一気に引き上げられました。
地面に転がって噎せこみながら何とか酸素をむさぼりました。
苦しい息と寒さに震え涙を浮かべて、ヒカルは自分を救い上げた手の持ち主を
仰ぎ見ました。
「一体、キミは!何をやってるんだ!」
血相変えた王子がそこにいました。