ヒカルたんと野獣
(26)
時折薪が足されてはぜる音だけがやけに明瞭で、他は静かです。
「…………」
目の前には巨大な背中、見えない表情は恐らく仏頂面でしょうか。
背を向けられたままの相手に、話しかけようにもやりにくく、と言ってオヤスミナサイと
去るのも憚られ、ヒカルは仕方無しに黙りこくって背を見つめるくらいしかすることが
無いのでした。
だからとても静かで、ひどく退屈で、いやになるほど気づまりな時間が流れます。
「…………」
相手は薪をくべることばかり熱心です。
炎は暖かい色で部屋を照らします。
この城に来てから、今が一番明るいなあと思いました。
ただし二人をとりまく雰囲気は最悪の暗さでしたが。
王子によって深い水から助け出されたヒカルは、一転熱いお風呂に放り込まれて
小一時間体を温めることとなりました。
そして、新しい、綺麗な洋服を貰いました。
『思った通りだ。おまえは明るい黄色がよく似合う。白ずくめも捨てがたいが……』
そう言って満足げだった人は、もう一人に引っ張られて行ってしまい、ヒカルは
不機嫌な王子と二人きりにされ、現在の気まずい空気に至ります。
(27)
「…………」
彼は暖炉の火を絶やさないための作業を黙々とこなしています。
暖かくてありがたいけど、このままここで沈黙の朝を迎えるのはまっぴらごめんです。
ヒカルは思い切って立ち上がり、膠着から抜け出すべく王子の正面に座りなおしました。
すると相手は露骨に動揺し、さっきまでヒカルがいた方にくるりと向きを変えてしまいました。
再び、背中。
「…やなかんじ……」
つい口に出た本音に王子の肩がぴくりと動きました。
ヒカルはやけでまくしたてます。
「何だよ、だってそうじゃん、ずーっとあっち向いてさ、ムスッとしてさ。
文句あるなら口で言ってよ、黙って怒りためこんでいきなりキレる奴って一番苦手なんだよ」
「……キミが池になんて落ちるからだ」
「落ちたくて落ちたんじゃねえもん」
「こんな夜中にうろつくのがいけない。何をぼんやりしてたんだ。普通気がつくだろう」
「暗くて全然見えなかったんだよ! 気ぃつけろって言うなら、何でこんなに
どこもかしこも暗くしてんの? オレだってもうちょっと周りが見やすかったら、
あんなおっそろしー池になんか近づかなかったもん!」
「………」
「いつまで後ろ向いてるつもりだよ。こっち向けよ、オレはそんなにおまえを
不快にさせるって言うのか? ひでえじゃん」
ヒカルはまた王子の前に回りこみ、今度は逃げられないように肩を掴んで顔を
見据えてやりました。
「………え…」
(28)
どうして。
てっきり、こわい目でにらみ返されると思ったのに。
どうして。そんな、苦しそうなの。
彼の顔は、苦悶という言葉がこのうえなく当てはまる形に歪んでいました。
よく見ると存外澄んでいた瞳は、悲しみの色に染まっています。
ヒカルの手から力が抜けて、王子の肩から滑るように落ちました。
彼は恥ずかしそうにうつむいて、顔を隠しました。
そして、自分の姿を煌々と照らし出す灯から少しでも逃れるように、大きな体躯を
せいいっぱい縮めて、こそこそ離れていってしまうのです。
ヒカルは、このお城がこんなに暗い理由がよくわかりました。
それと同時に、自分のいたらなさを悔いました。
「ごめん」
「……いいんだ」
か細い声が聞こえました。
そんなになりながらも、彼は薪をまた一つ放り入れます。
……ヒカルを暖めるために。
『本当のあいつは、見かけじゃわかんないから』
胸がきゅうきゅう締め付けられる、例の感覚がひときわ強くやってきました。
もう、そのわけも知っています。
しょんぼりした頭を撫でてやりたい。
辛そうな顔ばかり見るのではなく、穏やかにしていてほしい。
サイを、ヒカルの一番大切だった人を、捕らえたのは彼。
ヒカルから、家族と自由を奪ったのも彼。
だから。こんな気持ちになるのは、本当はおかしいけど。
本当に、おかしいんだけど。
自分は、この野獣がかわいそうでたまらないのだと、ヒカルは思いました。
(29)
ヒカルのおなかが大きな音を立てたのはちょうどその時でした。
「………」
「………」
深刻な空気は一瞬で散りました。
「聞こえた?」
「うん……」
「あは、おなか鳴っちゃった」
「ここに来てから何も摂ってないのだから、当たり前だ」
「だってあの時はおなかすかなかったもん」
「もしかして、何か食べ物を探してうろうろしていたのか?」
「ううん、ひとりじゃこわくて寝れなかったんだ」
思わず正直に答えてしまい、しまったと思っても後の祭りです。
王子は目を丸くして、それからこちらも正直に言い放ちました。
「子どもか」
「悪かったな!」
照れ隠しに大きな声を出すと、またもやおなかの虫が鳴きだします。
「……何か用意したら、食べてくれるか」
「いただきます」
王子はにこりと微笑みました。
「あっ」
「何?」
「あ、ううん、別に」
笑った顔を、やっと見れました。
それだけで、なんだかヒカルの頬も緩むのです。
そういえば自分こそ、彼の前では嫌そうな顔ばかりしていた気がします。
だからヒカルは、ずっと言いそびれていたことを伝えたときに、にこりと
笑ってみせました。
「助けてくれてありがとう」
「ど、どう、いたしまして」
王子の顔が毛皮で覆われていなければ、その頬が真っ赤であることがヒカルにも
見えたでしょう。
残念ながら、その時の彼の歓びの大きさをヒカルが知ることはありませんでしたが、
二人の間にあった壁が自然に消えていったことだけは、感じられたのでした。
(30)
彼のための部屋は、王子自ら綺麗に調えました。
居心地の最悪だった牢から移して、さぞ喜んでくれるだろうと思ったら、
どうも彼はこれから己の住処となるその部屋に大した関心がないようで、
ぼんやりしていました。
どうすれば満足してくれるのかわかりません。もっと豪華に飾り立てればよかったとか、
今から何ができるかなど、頭の中であれやこれや必死に考えを巡らせます。
そして王子は、彼の夕食のことに思い至りました。
ずいぶん長いこと泣いていましたし、きっと空腹に違いないのです。
幸いここには優秀なコックが一人います。うんとおいしいものを食べさせてあげられれば、
きっと喜んでくれる。
ヒカルは、本当に美しくてまばゆいばかりです。
でも泣き顔やうつろな顔しか見せてもらえないのは悲しいのです。
一度きりでいいから、王子に向かって微笑んでくれたらどんなにいいでしょう。
『どうか、ボクと一緒に食事を』
それだけ言えばよいのです。きっと上手くいくはずです。
それだけ。
それだけ、なのに。
王子にとっては、彼は遠すぎる光です。その一言がどうしてもかけられません。
心臓がどくりどくり、冷たく響きます。
冷や汗までにじむ極度の緊張の中、王子は渇いた喉を引き攣らせました。
「……しょ、食事…を、どう、だ」
情けないざまです。
でもこれが王子の全力でした。