ヒカルたんと野獣

(31)
何しろもうかれこれ百年、身内の者以外との交流が一切なかったのです。
突然に外の世界からやって来られても、他人との話し方を忘れてしまっていて、
恐怖すら覚えるのでした。
まして相手は天使にも劣らぬ美貌。引き換え、自分の姿のなんとみじめなことでしょう。
死んでしまいたいくらいの劣等感に苦しみながらでは、この無様な誘いも致し方ないことでした。
王子は祈る気持ちで返事を待ちました。

返ってきたのはにべもない拒絶でした。

そりゃあそうか。こんな卑しい野獣の食べ物なんて、喜ぶわけがない。
何を期待したんだか。ボクが馬鹿だった。

自分のような者が、望むこと自体罪とわかっていたのに。
それでもほんの少しだけ見てしまった、夢の代償がこの胸の痛みでした。
思い描いた笑顔がはかなく消えていきました。

でも夢は終わっても、まだ言わなければならないことがあります。
このまま何も食べてくれないなら、間違いなく病気になるでしょう。
アシワラの作るのは、ちゃんとした人間の食べ物だから、嫌なのはわかるけど、
お願いだから食べてくださいと。
彼の命のために、それだけは伝えなければいけませんでした。

「た、食べなければ、死ぬんだぞ! それでもいいのか! な、なら、もう何も言うまい!」

最悪、最悪、最悪、もひとつおまけに最悪、最低の最悪です。
どうしてこんなに、喋るのが下手くそになってしまったのでしょう?
王子はもう我慢ができなくて、自室に逃げ帰りました。
こんなつらい思いをするのに、なぜ恋情なんてものがあるのかと
うらめしく思いました。

(31)
彼が部屋を出て、歩き回っているのは気配でわかりました。
逃げ出すつもりなのだと思い、悲しくなりました。
いそいそと部屋をしつらえた自分が滑稽です。
たった一晩さえ、過ごしてもらえない部屋だった。

でもヒカルがどうやら北の庭に降りたらしいことに気づき、嘆く暇はなくなりました。
あそこには、いろいろ危険なものがあるのです。
ことに魔法の池は、夜になると氷水のように凍てついてしまいます。
王子は飛び起きて、一目散に外に向かいました。

やはりと言うべきか、溺れていた彼を怒鳴ったのは心配の裏返しです。
もう少し遅かったらと考えるとぞっとし、彼と、何より迂闊な自分に無性に腹が
立つのでした。
一度思い切り怒鳴ると、それからは楽に声が出せるようになったのが何だか不思議でした。

彼の体が空腹を訴える音はとても可愛らしく聞こえました。
この時王子がどれほどの願いを込めて食事を勧めたか、きっと彼にはわからないでしょう。
受け入れられて、思わず笑みが零れました。
それは実に百年ぶりの、あの呪いを受けた忌まわしい日から初めての笑顔でした。
ここのお料理を食べてもらうのは、一度は諦めたことだけに夢の心地がいたします。

でも本当に夢が叶ったのは、その後でした。
彼が優しく微笑んでくれたのです。
目の奥がじんと熱く、泣きたい気持ちになりました。

うれしくって、おそろしい。
いつか必ず、手にした夢の代償に、全てを失う時が来る。
これ以上彼に惹かれるのがこわいのでした。

(32)

さて、改めて彼の体を見てみると、華奢を超えてはっきり言うと痩せぎすです。
明るい髪はチャームポイントと思いましたが、よく見れば栄養失調で毛先が細って、
ぱさぱさになっています。
水から引き上げた時の軽さと、張り付いた服の下に現れた、骨の浮き出る体を思い出し
あわれに思いました。
とびきりの贅沢をさせてあげたい。
「キミにとって一番のごちそうは何だ?」
「ごちそう?」


そう言われてもヒカルは毎日薄いスープが基本です。パンすら貴重品でした。
『パン』
そう答えようとして、はたと思い出しました。
遠い昔に一度だけ、夢のように美味しいものを食べたことがありました。
「……ラーメン」
「え?」

そうです、ラーメンです。詳しくは覚えていませんが、やはり遠くから来たおじさんを
たらし込んで一杯貰ったのでした。
小さなヒカルは、世の中にこれより旨い食べ物は無いと感動したのです。
だからラーメン、それが答です。
「ラー…メン…、それがキミの一番のごちそう?」
「うん。世の中で一番旨い食いものだぜ!」

(33)
この子は本気だ。
王子は面食らいました。まさかラーメンとは!
抱えきれない位大きい肉でも、山と盛ったキャビアでも用意してあげようと思っていたのに。
『貧乏』という言葉は、知ってはいても辞書を棒読みするような中身の無い知識です。
この可愛らしい少年が、初めて本当の意味を教えてくれました。
「……わかった。すぐに作らせよう。アシワラさーん」
ウーロン茶アシワラがのんきにやって来ました。
「なーに、アキラ? なんかいい事あった?」
どこかマイナスイオンなウーロン茶です。
「ラーメンを一杯作ってくれませんか」
「よしきた」
アシワラは、お料理お料理と喜び勇んで駆けて行きます。

やがて仰々しく銀のお盆に載って、待ちわびたものがやって来ました。
熱々で、食欲をそそるいい匂いです。ヒカルは歓声を上げて覗き込みます。
湯気が顔に当たってあつそうで王子は心配です。
「どうぞ、早く召し上がれ」
しかしあんなに喜んでいた彼は何故か手をつけようとしません。
どこか気に入らなかったのでしょうか。王子は慌てました。
「どうしたんだ。食べてはくれないのか」
「なあ、おまえの分は?」
「は?」
彼は本当に不思議そうです。
「……え、だって、それはキミの為に作らせたんだし、ボクは別に…」
「バカ言うなよ。オレだけ食べれるわけないじゃん。おまえのお箸どこ?
…あ、もしかしてこれしかねえの? じゃあ冷めちまうから、おまえから先に食えよ」
ヒカルはラーメンの鉢とお箸を王子の方に遣りました。
王子は唖然となりました。

(34)
これはヒカルにとってはごく普通のことです。
今も貧乏ですが、もっと貧乏だった頃。
食器を二人分揃えることが出来ずに、スープは一つのお皿に盛っていました。
スプーンも1本のみです。だから二人で順番に食べました。
サイは温かいうちに食べなさいと言って、絶対自分は先に食べようとしませんでした。
お腹はぺこぺこでも、心まで飢えた日は一日とてありません。
ヒカルが食べていたのはサイの愛情でした。

そんな生活をしてきたヒカルにとっては、一杯のラーメンを分け合って食べるのは
何らおかしい事ではありません。
むしろ独り占めしたら不味くなります。


当たり前のように貴重な食べ物を差し出してくるヒカルを見て、王子にも
彼のこれまでの人生が窺い知れました。
言葉に詰まります。
こんなにお腹を空かせていながら、この子はなんてことをするのだろう。
「あ、ありがとう… 箸は、ちゃんとあるから大丈夫だよ。…アシワラさん。
済みませんが…」
「はーい、ぬかりはないよー。もう持ってきちゃったよー」
ウーロン茶も、行動はなかなか迅速です。すでに箸とお鉢が追加されています。
王子は礼を言って下がらせました。
失礼して、ヒカルのラーメンを少しいただきます。
「遠慮すんな、もっと食え」
出来る限りヒカルに食べてもらいたいのに、彼はきっかり半分王子が取ってしまうまで
許しませんでした。
「じゃあ、いただきまーす!」
「…い、いただきます」
ヒカルはずずっと熱い麺を啜ります。魅力的な食べ方に思えました。
王子は食事中に音を立てるなという躾に逆らい、思い切って啜りこみました。
……それは体にしみわたる味でした。

(35)
「おいしい」
ヒカルは感動してとろけそうになっています。
一方王子は一口目を食べてから固まって動きません。
「どうした? 熱い?」
胸が一杯になって答えられませんでした。
霧が晴れたように、今まで気づかなかったものが見えてきたのです。


生まれたときから、お城には食べ物がどっさりありました。
毎日が宴のようで、贅の限りを尽くして豪華絢爛なフルコースを用意できました。
お茶の時間には、芸術的なとりどりのお菓子。
あの頃王子は最上級のお料理に囲まれていました。

でも。
でも。生まれて初めて誰かと分け合って食べた、このラーメンほど美味しいものは
あのフルコースの中には一つも無かったのです。

涙が伝いました。
(ボクは…何でも持っていた…)
溢れてくるのを止められません。
(でも…本当に大切なものは、何も、なにも…なかったんだ……)
頬の毛皮はびしょ濡れになりました。
王子という身分で、しかも野獣です。その姿は滑稽なことでしょう。
ですがヒカルは少しも馬鹿にしませんでした。
ただ幸せそうに、
「おいしいね」
とだけ微笑んで、後はもう何も言いませんでした。

泣きながら、いっしょうけんめい食べました。
本当に、本当に美味しかったのです。
そしてこの時。
取り返しがつかない程ヒカルを愛してしまったことを。
王子は悟ったのでした。

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