ヒカルたんと野獣
(36)
「ヒカルくん〜、降りてきてよ〜。危ないよ〜」
「あともうちょっとだけー!」
「そんなところの整理なんか放っといてよ〜。お客さんがすることじゃないよ〜」
「オレいつからお客になったのー」
「最初からキミはお客様〜。ねえ、ほんとに降りてよ。落っこちる〜。血が出る〜。
そしたらアキラがめちゃ怒る〜」
「アシワラさんが、そのやたら力抜ける声出すのやめてくれたら、落ちないよー」
「いじわる〜」
ウーロン茶は重たい体でうらめしく地団太を踏み、その振動は高い脚立の上にいるヒカルを
余計に危険に晒すのですが、本人は気づきません。
ただ、物陰から鋭い怒気をはらんだ視線が突き刺さるのは感じて、なんとなくアシワラは
大人しくなりました。
「はいはい、終わったよ。降りるからそこどいて」
巨大な書架のてっぺんで、埃をはらい書物の整理をしていたヒカルは脚立の途中から
ぴょんと身軽に飛び降りました。
「ヒカルくん今度からそれ使用禁止!」
「この位でいちいちうるさいなぁ。平気だって。こないだコケて端っこまで転がってった
アシワラさんのほうがやばいね」
ヒカルは書庫の出口の方に歩き出しました。
「……」
その時耳が捉えた、慌てたような忍び足の名残にヒカルはそっと微笑むのでした。
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「じゃあ3時におやつ作るからね、アキラと一緒に来てね」
「はーい、ありがとう」
ヒカルがこのお城に来てから、1週間が経ちました。
その短いような、そうでないような期間のうちに、人ならぬ姿の住人たちを
とりまく環境はずいぶん変わりました。
例えばヒカルが歩くこの廊下。
初め真っ暗だったこの場所は、今や皓々とした照明で彼を導いています。
ヒカルの部屋も、食堂も、一番のお気に入りである大きな暖炉の付いた間も、
それから古い棋譜が収められた書庫も。
彼が立ち入る場所は、優しい光で覆われるようになりました。
それがある時ぽつりと、太陽が見たいとこぼした自分に対する、城主の心づくしの
なぐさめだと解っているので、ヒカルはもう一言の文句も垂れまいと決めました。
廊下に伸びる影も、心なしか以前外の世界で見たそれより柔らかく映るようです。
何しろお料理上手のウーロン茶が、毎日おなかいっぱいにご飯を振舞ってくれますので。
ラーメンをごちそうになった次の日、出してもらった朝食を見てヒカルは度肝を抜かれました。
真っ白いお米と、おいしそうなおかずが何品も整然と並んでいる様子は、
ヒカルの感覚では優に4人前位はありました。
朝からこんなに贅沢をしてばちが当たるんじゃないか、いやその前にこれが全部
自分の胃袋に入るんだろうか、そもそもこれは夢か現か、ヒカルは混乱しました。
でも結局全部おいしく頂いてしまいました。
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昨日のおやつには、アシワラが「オレ実は一番これが好きなんだ〜」と言う
ホットケーキを焼いてもらいました。
焼き立てでふっくら熱々の生地に、いいにおいのバターを塗って
甘いはちみつをたっぷりかけるのです。
それがもう美味しくって美味しくって、ほっぺが落ちそうになるのでした。
アシワラは、裕福とはお世辞でも嘘でも寝言でも言えない暮らしのヒカルが
気後れしないように、ごく普通の家庭料理を作ってくれているようでしたが、
ごく普通以下の家庭出身であるヒカルは、結局じゅうぶん気後れしました。
初めて見るときは、絶対こんなに入らない、今度こそ入らないと感じるのですが、
いざ頂いてみると見事におなかに収まります。
どうやら自分は、思っていたよりもずっと飢えていたようでした。
ヒカルは少しふっくらして、前にも増して美しくなりました。
その体を包むのももはやボロではなく、鮮やかな色彩のお洋服になっています。
服に関してかなりこだわりのある「オバタさん」が、ヒカルのために新しいものを
こしらえては、いそいそと着せにやって来るのです。
不思議な姿の二人は親切で、楽しい、という感覚をひさかたぶりに思い出したように、
とても嬉しそうにヒカルの世話を焼きます。
ヒカルもただ厄介になるだけでは申し訳なくて、丁度明るくなったらお城の
いたるところの埃が目に付いたこともあり、片っ端からお掃除をしています。
ヒカルの存在は、冷えていたお城の中にも、そこで暮らすひとたちにも明かりをともしました。
ただひとり、頑固に暗いままの王子様を除いては。
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お城の中に明るい空間が増えたということは、その分だけ王子の活動できる領域が
無くなっていくのと同じでした。
彼はその姿をヒカルに見せることを極度に恐れ、残っている暗闇の中に身を隠してしまいます。
ヒカルのほうは王子がどんな容貌だろうと、もう一向に構わないのですが、
彼の抱える苦悩は深く、本人にしか解らないつらさです。
池に落ちた夜、暖炉の前で強引に暴いてしまった瞳の色を思い出すと、
そこに自分などが踏み込んでしまって良いのかどうしても躊躇してしまうので、
あの大きな手を引いて灯火の下に出てこさせたくても出来ないのでした。
彼が暗がりから出てくるのは、今のところ食事の時だけです。
最初、彼は自室に引き篭もったまま食事を摂ろうとしました。
びっくりして、ご飯は一緒に食べるものだと主張すると、自分がいて嫌じゃないのかと
問い返されました。
嫌じゃないから言っているのです。大体二人一緒にラーメンを食べたことは何だと
思っているのでしょう。
ヒカルは譲らず、王子が折れました。
でもいざ明々としたテーブルで向かい合うと、恥ずかしそうに縮こまってしまう
相手がかわいそうでヒカルも途方に暮れました。
ややあって、ヒカルは自分の椅子を王子の席の真横に持っていきました。
うろたえる彼のお隣に座り、正面を向いて言いました。
『ほら、オレおまえのこと見えなくなったぜ』
そばにいるけど、ひとりぼっちじゃないけど、ひとりの時みたいに楽にしていてと。
ちょっと変わったふたりの食事の形が出来ました。
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本当に、難しい王子様だなあと思います。
あんまりしゃべらないし、陰があるし、しんどそうな考え事ばっかりしているし。
でも。
王子は、ヒカルのことをよく見ています。
振り向こうとすると慌てて逃げてしまいますが。
美味しいものを食べた時。
貴重な棋譜を見せてもらう時。
家来の二人と下らない話で盛り上がる時。
アシワラに看板さんの秘密の失敗談を教えてもらった時。
火熾しをやってみて成功した時。
ヒカルが笑顔の瞬間はいつも、彼が見てくれています。
そして心配焼きです。
今日だって高いところで作業をしていたら、本棚の陰に隠れたつもりで、ずっと
はらはらして見守っていたのを、ちゃんと知っています。
かわいいなあと思って、ヒカルはくすりと笑いました。
あんな王子様ですが、その形容は妙にぴったりでした。