ヒカルたんと野獣
(41)
ヒカルは自分の部屋に戻って、ベッドに腰掛けました。
「おう、ただいま」
そして自分を待っていたトモダチを、笑いながら抱き上げました。
この子が、王子の可笑しくなるようなかわいげと、そして優しい気持ちの証です。
一人で眠るのが怖かったと白状した日、彼は子供かと悪態をつきました。
でもその次の夜、部屋に帰ったらベッドには大きなうさぎのぬいぐるみが、
リボンを掛けられて座っていました。
ヒカルはそのうさぎちゃんを抱いて眠りにつきました。
どんな姿をしていても。たとえ、それが醜くても。
怖そうにしてみせても、気難しくても。
きっと獣の皮の下に隠れているのは、本当はこのうさぎのような心なのだと。
知っているから、ヒカルはもうちっとも怖くないのです。
うさぎには、秘密の名前をつけました。
そうすると、全然違うはずのあのひとと、ますます似て見えてきて可笑しいやら
こそばゆいやら、楽しいことこの上ありません。
こんなふうに、閉じ込められたお城の中で、囚われの少年は奇妙なひとびとと
もっと奇妙な絆を育んでいったのです。
来た時を思えば信じられないくらい、ここが気に入っていました。
ただ、生き別れになったサイのことだけはずっと気がかりで、今頃どうしているかと
考えると涙をこぼさずにはいられないのでした。
それがやがて王子との間にひび割れを生じさせることになります。
(42)
気づけばヒカルはすっかりお城で自由にしています。
時々自分が囚人であることを思い出しては疑問を覚えるのですが、
誰だって監禁されるより好きに動けた方がいいに決まっています。
ヒカルは何も言われないのをいいことに、お城中を巡ったりして、
迷うこともなくなるくらいに慣れ親しんでいました。
「あれ、ヒカルくん」
「じゃま?」
「ぜーんぜん。こっちおいでよ」
今日もひょっこり厨房に顔を出すと、仲良しのコックさんが歓迎してくれました。
ここには立派な調理器具が揃っていて、いつまでいても飽きません。
アシワラは色とりどりの野菜を洗っているところでした。
「わ、美味そう。何作ってくれてるの?」
「シチューだよ。夜ご飯にね」
「ふぅん。ほんと美味そう」
名称を聞いてもヒカルにはわかりませんでした。
コックアシワラは見事に研がれた包丁を出します。
それを見ていると、自分も触りたくてうずうずしてきます。
「ねえ、オレも手伝っちゃダメかな」
「やりたいの? いいよ、でも包丁使える?」
「うちにいた頃はオレもメシ作ってたから慣れてるよ」
家にいた頃。その言い方にはっとし、アシワラの表情も曇りました。
気まずくなってしまう前に、わざと明るい声を出してみます。
「うひゃー、これぴっかぴか」
アシワラもほっとしたように笑いました。
「包丁はよく切れるほうが安全なんだよ。手入れは毎日でもいい」
ヒカルは大きめのじゃがいもを取り、縦に刃を入れました。
「あ、切る前に皮を剥いた方がいいよ」
「え? なんで?」
ヒカルはびっくりして缶のコックさんを見ました。
相手は相手できょとんとしています。
「だって、切っちゃってから一々剥いてたらさ、大変じゃん」
「皮って、なんで? 剥いちゃうの?」
「え? 剥かないの?」
噛み合わない会話に、ヒカルはどうやら自分のほうがおかしいようだと感じます。
「野菜って、普通の人は剥いて食べるの?」
「えーと、それが普通だと思うけど。あれ、オレが変なのかな?」
巨大な缶は体を傾けました。人間であったらその動作は『首をかしげる』と
呼ぶのでしょう。
「ううん、多分オレが間違ってるよ。ごめんなさい。
そっか、皮は剥くのが正しいのか。でさあ、その皮はどこに使うの?」
「生ゴミ行きさ」
「えーっ?! ゴミ? まさか捨ててるのか? 嘘、もったいねえ!」
ヒカルは俄かに信じられませんでした。
(43)
でも相手はコックさん、お料理のプロです。
その人が捨てるというなら、世の中ではそれが一般的に違いありません。
「ヒカルくんのとこは、どうやって食べてたの?」
優しいコックも困惑気味に尋ねます。
「水でがしがし洗って、そのまま」
だって、食べられるのに。
乏しい中から手に入る野菜はほんのわずか。
それを最大限に使ってお腹を満たさないといけないのです。
わざわざ表面を削って、食べられる量を減らすなど考えられないことでした。
でも自分たちが変で、お金持ちの人たちは――いいえ、『普通』の人は
それを平気で捨てられるのです。
そして口当たりの良いところだけ食べる。
ヒカルは恥じました。
他のおうちがどうだろうと、自分は自分で精一杯楽しく暮らしてきましたし、
不幸だったとは思いません。
でも今のように生活の根底の部分でずれを突きつけられると、
人並み以下だと感じずにいられませんでした。
「………」
ヒカルは黙って包丁を置きました。
「ご、ごめん、馬鹿にしてるんじゃないよ。あの、そのね」
「ううん、気にしないで。お邪魔しちゃった。じゃ、オレ部屋に帰ってるよ」
「あ、待って、やりたいんじゃないの?」
アシワラはまな板を指差して言い募ります。
ヒカルは真っ二つに割れたじゃがいもに目を落とし、さびしく笑いました。
「……剥き方がわかんねえの」
(44)
その日の食卓には、王子が先に着いて待っていました。
すっかり決まりごとになった、二つ真横に並んだ椅子にヒカルも腰掛けます。
初めて見るシチューはいい匂いで美味しそうなものでした。
現金なもので、ヒカルは一気に嬉しい気分になりスプーンを手に取ります。
ああ、また見てるなと思いました。
いつもこうです。王子はヒカルが最初の一口を食べるところをじっと見つめるのです。
ヒカルが必ずにこりとするから。
彼の視線を感じながら、口に運びます。甘い牛乳の味がしました。
「美味いなあ」
ヒカルは微笑みます。王子の目はヒカルに注がれたままです。
笑うと、見つめる。
自惚れでなく、彼は自分の笑顔が好きなのだと思っています。
ヒカルも彼に見てもらっているこの瞬間が好きでした。
(でもおまえの方は、見せてくれないのな)
ヒカルは極力王子の顔を見ないようにしていました。
そうしないと彼はヒカルの前から逃げてしまうのです。
食事の時も横並び、向かい合えない。お話も、やはり並んで正面を向いたままで。
仕方ないとは思いますが、どうしてもむなしさに囚われます。
ヒカルはさっと隣を振り仰ぎました。
見つめていた王子は、まともにヒカルと視線が合って慌ててそっぽを向きました。
「………」
今日はちょっとさびしいことの多い日だ。
ヒカルはじゃがいもを噛み締めます。
例えばここで、見た目なんか気にしないと言ったなら。
それは上の位置から放り投げた独りよがりとして、薄ら寒さしか生まないでしょう。
本人にとっては、姿は『なんか』では片付けられないから。
ヒカルだって野菜の皮なんて些末なことで沈むのに、勝手なことは言えない。
(でもいつか伝わったらいいな)
(45)
「アシワラさんがキミに失礼をしたそうだね。ボクからお詫びする」
王子は唐突に話し出します。
「え、ううん、別に全然気にしてねえ」
「済まなかった」
「いいのに」
よく知っている。
彼はヒカルが何をしてどんな風に過ごしたのか、常に心を配っているようで
それとなく気遣ってきます。
そういう心が、ヒカルには無条件で好ましいのでした。
初めて食べたシチューの味は、彼の優しさと結びついて記憶されました。
デザートの果物は、皮がついたままで出てきました。
でもさすが、ただ8つに割るのでなく器用に細工を施してありました。
「うさぎ。すげえ、これうさぎだ」
ヒカルは感心しました。
食べるのがもったいないけど食べなきゃ本当にもったいない。
みずみずしい林檎でした。
それを見ていると、もうひとつのうさぎのことをおしゃべりしたくなります。
「おまえのくれたぬいぐるみ、触り心地すげえいいよ」
「そうか」
王子の声は弾んでいました。
「あのな、オレあいつに……」
ヒカルは途中で口を噤みました。
「何?」
「んーと、寝る時抱いてるんだ。サンキュって話」
「そう、よかったよ」
あの子の名前のことは、やっぱり秘密にしておきましょう。
だって、恥ずかしいもの。