「僕は医者だぁ……医者なんだぞっ……」
男はつぶやくと崩れるように机に突っ伏してしまった。あんまり勢いがあったので手にしたグラスの中身の大半が辺りにこぼれたが、彼はまったく気付いていないらしい……。
それは川に想いを込めて紙の弔い舟を流すものなど、まだ誰もいなかった頃のこと。
「先生ちょっと大丈夫、メガネ壊れてない?」
隣に座っていた若い女が慌てて黒髪のボサボサ頭を抱き起こした。男のメガネは顔にめり込み何やら歪んでいるようにも見えたが、取り合えずレンズは無事のようだ。
「はいはい寝るならメガネ外して……ほーらもう、白衣にラムがこぼれたじゃないか染みになっちまう。こら起きなってば、まったく無理に飲むからだよ」
ふっと人の気配を感じて娘が顔を上げると、小さく開いたドアの外に一目で娼婦とわかる派手な身なりの年増女が驚いた顔で立っていた。
「あら先生どうしちゃったの今日は。酒飲んで荒れてるなんて」
「ちょっとね……。で何、急患? 時間外なのに参ったな。ねぇ起きなよ先生」
「ま、待って、酔っ払った客がグラス落としちまってさ、で、あたしがその急患なんだけど」
年増女は部屋に入りながら、元気よくハンカチを巻いた人差し指を突き立てた。
娼館の狭い一室に医療器具とそれらしき家具を持ち込んだだけの部屋だが、消毒液や薬品の臭いを嗅ぐといっぱしの診療所のような気がしてくる。
「なーんだ……悪いけど取り込み中なの、そこの戸棚にワセリン入ってるから塗ってガーゼ当てて紙テープでも巻いといて」
「あらやだ、診てもくれないのかい。別に先生を起こさなくてもいいけどさ、あんたが診てくれたっていいだろ」
「ちょっと姐さん、私は看護婦じゃないんだよ」
男に寄り添っていた若い女は苦笑いを浮べた。
眉の太いはっきりした顔立ちで、なかなかの美人である。今日はオフなので質素な普段着だが、しっかり化粧を施し髪を高く結い上げしどけない派手なドレスに着替えれば見違えるほどイイ女になり、こんな悪酔いして机に突っ伏してる0番地区の無免許医ごときが酒の相手をしてもらえるような女ではなくなる。
「アンタがしょっちゅう診察室に入り浸ってるから勘違いしちまった、あはは、いっそのこと……」
このまま先生の看護婦になっちまいなよ、と言いかけて年増女は言葉を飲み込んだ。目を見張るほどの美女ではないが、その気っ風のよさから店では売れっ子の彼女をグランマがそう簡単に手放すはずがないだろう。
それにしっかりものの彼女は男やヒモをを必要としない種類の女で、医師との関係に清い友情以上の感情は求めていないようだ。
年増女が黙り込んでしまったので、若い娼婦は怪我が気になりだしたらしい。
「なに、ガラスの破片でも入ったの?」
(2)