年増女は若い娼婦の気が変わらぬうちにと、いそいそ部屋の隅から丸椅子を引っ張ってきて向かいに座った。
床を引きずる耳障りな音がしたが医者は再び机に突っ伏した直後に眠ってしまったようで、ピクリとも動かない。
やれやれ先生ったら……指を差し出しながら、年増の娼婦はこの青年がロータス・ストリートにやってきた日の事を思い出した。
ものめずらしそうに館の内装をキョロキョロ見ていた純朴な瞳。
なにあの男ぜんぜんイケてないじゃない、と若い娼婦たちは柱の影で観察しながら口々に悪口を言ったものだ。
しかし女衒のトッパーがどこからか拾ってきたこの若者は、すぐにグランマのお気に入りになった。
帝国と共和国の関係が悪化し、混血児ということで医師免許を剥奪される以前は外(0番地区外)で町医者をしていて、さらに短いが衛生兵の経験もある彼は最新の医療事情に通じており、それまで娼館が世話になっていたモグリの年寄り医者とは比べ物にならないほど知識が豊富だった。
おまけにそこそこな年のくせに娼館に足を踏みいれたのはこれが初めてというほどの朴念仁で、それが商品の管理にはうるさいグランマをなおのこと喜ばせた。
生真面目な彼は医者に徹し、こういうところゆえ悪ふざけで言い寄る女は星の数ほどいるのに患者として接する態度を崩さず、今のところ浮いた噂ひとつ聞かない(これは単に彼が鈍感すぎて、娘たちのモーションにまるで気付いていない結果なのかもしれないが)。
……などど彼女が回想に浸っている間、普段着姿の若い娼婦は看護婦よろしく馴れた手つきでハンカチを外すと、患部を観察している。
「大丈夫、何も入ってない。もう血も止まりかけてるよ。ワセリン塗っときゃOK、すぐ仕事に戻れる」
「そう言わないでちょっと一服させてよ、お願いだから。……酔っ払いの世話から逃げてきたところなのさ」
そう言って小さな丸椅子から動く気配のない年増女に、若い娼婦は苦笑いを浮べたまま立ち上がり、戸棚の衛生材料を探し始めた。
「なーんだ姐さんサボりに来たんだ。こっちも酔っ払いでおあいにくさま」
「まったくだねぇ。それにしても先生がこんなに荒れてるなんて……ひょっとして昼間のアレのせい? まさかなんかミスしたんじゃないだろね」
「バカを言いなさんな、先生に限ってそんなわけないじゃない。……完璧だったって。もうすっかり慣れたもんだってさ」
若い娘の悩ましげな口調も聞えないのか、机に突っ伏したまま青年医師は酒臭いイビキをかいている。
婦人科は専門ではない、と言っていたが見かけによらず手先が器用な彼は腕もよかった。それまでの医者はあてに出来ず、怪しげな民間伝承や非科学的で乱暴な処置に頼って体を壊していた女たちは、みな深く彼に感謝している。しかし本人はどうなのだろう。
年増女がため息をついた。
「その辺、割り切ってるのかと思ってたんだけど。……アタシらは助かってるんだからさ、先生が背負い込むことはないんだけどねぇ。それにあの人の指導のおかげでしくじる娘たち自体ずいぶん減ったのに」
「そう私も言ったんだけどさ。頭でわかってても気持ちがついてこないのかな……さっきも人の生命を救いたくて医者になったのにってぼやいてた」
「救ってるじゃないか、アタシら女たちの生命を。だいたい外でだってそういう仕事はあったんだろ?」
「そのままだと母子ともに助からないからやむを得ずとか、子供がもう死んでいたケースとか。取り上げる数のほうがずっと多かったって。……それがココだとさ」
「取り上げちゃ困るところだもんね……まぁ、酒飲んでアンタに愚痴ってるウチは大丈夫なんじゃない」
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