(3)
 雨はだんだん小降りになっていき、私たちが駅前の喧騒から少し離れた場所にある小さなカフェに入った頃にはほとんど止んでいた。
 ドアをくぐる際にコートに落ちた雨粒を払いながら後ろをうかがってみたが、男は数十メートル後をしっかりついてきている。だが店に入りウェイターに食事を注文し終わるころになっても、中に入ってくる気配はなかった。さほど立派な店ではなかったがみすぼらしいなりをした男にはそれでも敷居が高かったのかもしれない。
 これで今日は出直してくれるなら有難いが、雨の中、不快な靴でもかまわず尾行を続けた男がそう簡単にあきらめるとも思えない。
 しかし店の外のことなど気にしてもしょうがないので食事がくるまでの間、私たちは食前酒を飲みながらもっぱら
『思いがけず一人ぽっちでお留守番することになってしまったかわいそうなティラミス』
を話題にした。
 普段の夕食なら黙々と食べ続ければいいだけだが、さすがに人前ではこのようなわけにはいかない。少尉はペットを飼う事に大反対だったけれども(共和国には遊びにいくのではない、と苛々していたものだ)我々のような子供を作る予定がまったくない上に心が通い合っているとは到底いえない夫婦が、上辺を取り繕うにはなかなか有効であるとラインベルカ少佐に報告しておこう。
 やがてウェイターがスープを運んできて夕食が始まった。
 少尉は料理の塩加減に文句をいい、私は相変わらずティラミスを話題にし続けた。
 実際はサラダもメインも彼が言うほど不味いわけではなくむしろ味は良かったが、普段のそそくさと終わる夕食のほうが、雰囲気のよいキャンドルの灯りの元でかみ合わない会話とともに続くディナーよりずっと美味しく感じられた。
 おかげでやっとデザートが出てきたときにはホッとしたものだが、少尉は自分のコーヒーに数回口をつけただけで、おもむろにカップを置き顔を上げた。
「すまない、買い物があったのを忘れていた。ちょっと行ってくる」
「あら、デザートを食べてからにしたら?」
「それだと閉店時刻に間に合わんよ」すかさずフォークをケーキ皿に置いた私の手元を彼の視線がかすめた。「キミまで残すことはない。私一人で行ってくる」
わざと人混みから離れて男をおびき寄せ、人気のない場所で返り討ちにする。相手は従軍経験があるとはいえ素人のようだからこちらの勝算は十分にある。男の背後に誰かがいるなら放っておいてもそのうちまた何か仕掛けてくる、という算段だ。
 突然の雨に相合傘をする破目にならなければ、彼は当初からそうしていたに違いない。
 私は壁にかかった時計をちらりと見た。店に入ってから一時間は立っている。
 男があきらめていたなら少尉はすぐに戻ってくるはずだが、なかなか戻ってこなければ……。
「じゃあ食べながら待ってます。あんまり遅くなるようなら迎えに行くわ。店の場所を教えてください」
「いや、食事を終えたらそのまま帰ってくれ、支払いは先に済ませておく。雨も止んだようだしカサはもういらんよ」
彼はこれでブリーフィング終了と言わんばかりに立ち上がった。
 これまでもうすうす感じていたのだが、やはり戦時中からのベテラン諜報部員である少尉にとって、今さら複数で活動するよりは馴れた単独のほうが何かと勝手がいいようだ。  
 ヴィッター夫妻は私生活もギクシャクしていたが、残念ながら任務も息がピッタリとは言い難かった。あるいは保守的で融通のきかない典型的な帝国諜報部員は新たな情況になかなか馴染めないものだと共和国に分析させたいのかもしれないが、果たして今回の行動がわざとなのか地なのか、私にはよくわからない。
 だがこちらにも潜入パートナーとしてテストケースを成功させる使命がある。第一まるで頼りにされていないみたいではないか。ずっとこんな調子の活動内容を本国に報告され続けたらかなわない。
 なんだか少し腹が立ち、私はテーブルの横をすり抜けようとする腕をすかさず捕らえた。少尉のいつもの無表情な顔が振り返る。
「まぁ冷淡ね、先に帰れなんて。独身の頃はそれでよくても私たちはもう夫婦なんですよ」
ハニートラップの訓練で鍛え上げた、寂しげな潤んだ瞳でじっと見上げる。
 彼はそんなリアクションはまったく予想していなかったと見え、あからさまにうろたえ顔をゆがめた。
「……べ、別に邪険にしているわけでは、」
焦った表情に混乱した目つき。広い額がほんのり赤くなり汗で光った。いつもとは声の調子まで違う。
 その時ドアが勢いよく開き、店内がにわかに騒がしくなった。学生らしい青年たちの集団がどやどや入ってくる。
 彼はわれに返ったように私の手を振りほどき咳払いをすると、何か口の中でモゴモゴ言ってからテーブルを離れていった。

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