(4)
 少尉が行ってしまった後、私はメインディッシュでできなかった分を取り返すようにゆっくりとデザートを味わい紅茶を楽しんだ。
 取り残され一人きりになってしまった孤独な若い娘を、少尉と入れ違いにやってきた学生の集団がビールを飲みながら興味深そうにチラチラ眺めてきたが、食べにくいミルフィーユを切り分けるのに集中しているふりをして無視した。
 こんなときに結婚指輪があれば便利なのに、と私は何も嵌っていない左の薬指に視線を落とした。夫婦として振舞うのは義務だと言って夜の生活までしておきながら、少尉はこんな基本的なことにはまったく無頓着だ。きっと今まで本気で誰かを愛したり、結婚したいと思ったことなど一度もないのだろう。
 ミルフィーユの最後の一口を飲み込みカップの底のほうで生ぬるくなった紅茶をすすってから、私はおもむろにバッグから懐中時計を取り出し時刻を確認した。
 この辺りで人気のない場所といえば、以前の任務でも使ったことのあるあの廃ビルが妥当だろう。
 少尉がすでに勘定を済ませてくれていたので、私はカサとコートを手にさっさとドアに向かった。学生たちの酔った視線が背中を追いかけてくる。誰が一番先に声をかけるか彼らが決めてしまう前に急いで店を出て行ったほうがいい。
 ドアを閉めたところで念のためあたりの気配をうかがってみたが、思ったとおり少尉も謎の男の姿もなかった。
 今さら、とっくに方がついているかもしれないけれど。
 私は上着のボタンを外しいつでも銃が取り出せる準備をしてから、二人が向かったであろう街の一角へ向かって歩き出した。

 雨はすっかり止んでいて、雲の晴れ間からは微かに月明かりが漏れている。
 酔客で賑わう明るい街中を列車の通る音に向かって進む。表通りから貨物路線にほど近い路地裏に抜けると人波は途絶え辺りが暗くなり、ほどなくして例の建物の黒々とした外観が現れた。
 かつてはカフェやバーが数件入った、小規模だが賑やかな建物だったらしい。
 しかし今は、外側は一見まともでも中は焼け焦げて使い物にならない状態だった。
 これが戦争によるものならとっくに再建されていただろうが戦後の失火によるもので、民間のオーナーが隣焼した周辺を含め放置したため一帯がいつの間にかすっかり寂れてしまい、周囲は表通りに比べ異様に暗く沈んでいた。
 邪魔なカサとバッグを床と壁の一部が残っただけの隣の焼け跡に隠してから、注意深く件の建物のくすんだ外壁に近づき耳をすませてみる。内部の物音は付近の線路を走ってくる貨物列車にかき消されてよく聞えなかったが、一階に人がいる気配はない。
 いつまでも若い娘が一人きりでこんな暗がりをうろついていると人目についてしまう。
 私は騒音に紛れそっと建物の中に滑り込んだ。
 以前、別件で侵入したことがあるから内部はよく知っている。中は暗いが周囲の破れた窓や壁からさしてくるぼんやりした月明かりで、なんとか顔の見分けぐらいはつくようだ。
 線路の軋む音を聞きながら暗がりに慣れてきた目で辺りを探ったが、やはり人の気配はなかった。この場所ではないのか、それとも遅すぎたのか?
 しかし列車が遠ざかるにつれ、階上を走る靴音が確かに聞えてきた。複数だった。
 火元の付近だろうか天井の脆くなっているところがあるらしく、そこから響いてくる。
 靴音は不意に鳴ったかと思えばしばらく息を潜めるかのように何も聞えなかったりで、あきらかに誰かが誰かを追い回している物音だった。
 上着の下から銃を取り出し、エレベーターはもう機能していないので階段に向かう。足音を立てないように気をつけながら上っていくと物音がだんだん人の声に変わり、急な階段に息が切れる頃には、はっきりと聞こえてくるようになった。
「お前はヴィッターなのか?」
まったく耳にしたことのない男の声。
 これは今まで相手の確証もないまま付け狙っていたということだろうか。とするとやはり誰かが背後にいるということか?
 何の返事もないので男がさらに叫んだ。
「お前はヴィッターなんだな!!」
苛ついた怒声とともに、何か硬いものが窓の鉄枠にあたる甲高い金属音が響く。男は消音銃を使っているらしい。
 銃撃は階段を上りきったところの奥から聞えてくる。
 私はそっと数段上がり、壁際に身を潜めた。少尉は相変わらず沈黙している。ただ近づきつつある列車の音が遠くから聞こえてくるだけだった。
 くぐもった銃声がさらに数発聞えた。「帽子を脱げ!」
 援護したいと思うが、列車の音はどんどん大きくなっていく。
 やっと見分けがつく程度の暗がりで騒音が増す中、銃で加勢するのはあまりにも無謀だ。
 それに銃撃は一方的で応戦している気配がない。もしかすると男をしゃべらせて背後を探るために、少尉は丸腰で逃げ回るふりをしているのかもしれなかった。
 跳ね返る金属音は続いているようだったが、ひとまずはこのまま列車が通り過ぎるのを待ったほうがいいだろうと判断し、私は銃を下ろす。
 それにしても共和国についたばかりの以前の任務時はこんなにひっきりなしに列車はこなかった。この国の復興は着実に進んでいるのだなと場違いな考えが一瞬脳裏をよぎる。
 やがて疾走する貨物列車の騒音が最大になりかけた頃、男の叫び声が聞こえた。
「お前がコールド・ヴィッターか!!!」

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